35 八重潮の華
「その方はもう手負いだ、お前、閣下に本気で戦いを挑もうというのか?恥を――」
群衆の中から走り出てきたヘンリー卿が叫んだ。シアーズは視線だけ動かして、彼を捕えた。
「恥なんかじゃない。卑怯でもない。こいつが本気でくると言ってるんだ。そいつに本気で向かわないのは失礼じゃないか。それに、本気でいかなければ俺は死ぬ。本気のこいつには勝てないんだ」
ヘンリー卿は返す言葉を失った。一歩さがる。そうだ、例え十年以上離れて敵になったとしても、きっと上官殿のことを一番よく知っているのは、目の前にいるこの海賊。
ローランド卿は目を閉じてふっと笑い、剣を構えた。シアーズも構えた。人々が一斉に、わっと後ろに下がった。遠巻きにただただ見つめている。
ルールは簡単だ。生き残った方が勝ちだ。だが、そうだとしても、負けた方よりはほんの僅か長生きできるだけだ。どうせこの周りはイギリス海軍が固めている。
シアーズは、風が揺らめくのを感じ取った。……来る!
剣を交える度に、ローランド卿の荒い息使いが聞こえた。シアーズに、ローランド卿の流す血がつく。手負いとはいえ、恐ろしい。確実に急所を狙ってくるので、シアーズは防御する方が多かった。今、こいつは本当に俺を殺そうとしている。……俺は今、こいつに手加減しているのか?まさか。
もうだいぶ剣を交えた。どのくらい時間がたったのか、分からない。五分か、十分か。それとも、もっと?ローランド卿は血を流しすぎたのか、剣で体を支えている。今まで見たこともないくらい激しい憎悪に満ちた目で睨まれた。思わず手足に力が入る。やっぱり、敵に回したくないな。
離れていても苦しそうな息が聞こえる。立っているのもやっとのはずなのに。もうやめてくれ、と願った。自分の頭を血が駆け巡り、青銅の鐘をガンガンと内側から叩かれているようだ。見ている方が辛い。
その時、再び乾いた銃声がした。かろうじて立っていたローランド卿の体がのけぞり、両膝から崩れた。手をついて庇う体力も残っていないのか。彼はうつぶせに倒れている。どうやら右足を撃ち抜かれたらしい。血だまりができている。シアーズは驚いて銃声のした方を見た。
「陛……下……」
ローランド卿が声を絞り出した。女王が冷酷な表情を向けていた。笑うでもなく、淡々と語りかける口調はまるで、旋律の無い曲を聴いているようだ。
「ウィリアム、あなたは本当に忠実な私の家臣ね。よく分かったわ。……でも、余興は長すぎると面白くないの。楽しませてくれたお礼よ、あとはあなた達の好きになさい」
「ありがとう……ござ、い、ます……」
ローランド卿は力なく笑うと、右足を庇いながら立った。左足に体重をかけるようにしている。普通の人間にはあり得ない体力は、半分流れる魔力のせいか。
そして、シアーズを見た。初めて見る。こんな顔もできたのか。子どもの頃に見た笑顔とはまた違う。なんて優しそうな、美しい――。
「ウィル……!」
シアーズは名前を呼んだが、聞こえていないのか、無視しているのか。気にもかけない様子だ。顔にはもうあの笑みはない。海軍大将として、信じるものを貫く力強い目をしている。そして、狙いを定め、右足を引きずりながらも迫ってくる。シアーズは目を閉じて決心した。辛い。単純に、辛かった。




