34 鏡の湖
もう駄目だ。ローランド卿は諦めた。
これ以上ここに留まることは出来ないだろう。何しろ、長年ただ一途にお仕えしてきた女王陛下だ。有言実行な方であることは承知だ。何を言ったって無駄だろう。スペインから帰ってきて、少し人が変わられたように見受けたが、それでも忠誠心なら誰にも負けない。陛下が目の前から消えろとおっしゃるなら、家臣としてその通りにするまでのこと。苦にはならない。しかし、今は辛かった。なぜここまでするのか分からなかった。息もできないくらいに、胸が締めあげられる。
俺の代わりになる者。それがあいつだというのか。俺はそんな簡単に替えがきくような人間だったのか。それとも、俺一人が驕ってそう思っていただけだったのか?この差別と偏見の世界で、生まれの違う人間としてここまでのし上がってきたから。本当は最初から、ここにいる価値も何もないのか。
ローランド卿はそれ以上考えるのをやめ、左肩を押さえ、ふらつきながら立ち上がった。おぼつかない足取りで人の間を進んだ。人が割れ、自然に道が出来た。皆心配そうな顔で見ているだけだ。何人かは笑ってはいないものの、良い気味だとでも言いたげだ。体が重い。熱い。息があがる。呼吸する度に傷口が疼く。ああ、こうやって簡単に人は死んでいくのか。
どこに行くあてもないが、このまま馬で去ろう。どこか開けた場所にいって、ただ海を見ていよう。最後に見るのが海とは、幸せに違いない。全てを繋げた場所へ。父と義父を導き合わせ、シアーズ伯爵と俺を殺し合わせた場所へ。弟のように思っていた者と共に時間を過ごし、彼を悲しませた因縁の場所へ。全てが始まった場所へ。
いやその前に、城壁の外にいる民衆は俺を憎んでいるから、海に行く前になぶり殺しに会うかもしれない。それでも愛する国民の手にかけられるのであれば……所詮、俺に幸せなんて、すぎた望みだったのか……。愛する?あの群衆を?俺が、愛している?まさか……。もう嫌だ。全て許すから、誰かこの気持ちをどうにかしてくれ!神なんて所詮残酷の象徴。幸せなどもたらさない。分かっているのに祈りたい。せめて戦場で死にたかった。ここまで来て、無意味な死を迎えるなんて。
突然、目の前に誰か躍り出た。バタバタと慌ただしく、衛兵の囲みができた。聞き覚えのある声がした。
「ウィル……」
ゆっくり顔を上げた。懐かしい顔。なぜここにいる。今日は警戒して、来ないんじゃなかったのか。
「シア……ズ……」
なんでお前が泣きそうな顔してるんだ。痛いのはこっちだ。不愉快だ。思考回路がめちゃくちゃだ。次に思ったのは、部下と同じところに逝きたい、ということだった。
いや……前言撤回しようか。神は、願いを叶えてくれるかもしれない。
「ちょうどいい……シアーズ……抜け……」
ローランド卿は引きずるように剣を抜いた。シアーズは呆気にとられて見ている。
「陛下……私が、あなたに忠実であること……今、この場で証明してみせます……」
そして彼はシアーズの方に向きなおった。
「抜け、シアーズ……私と、戦え……本気で、いくぞ。戦場の花と言われた……花に足が生えて他の場所で、散るなど、聞いたことも……私は、戦いの中で死ぬんだ」
これが、望んだ結末。叶うチャンスは突如として訪れた。だが、神は残酷だ。こんな願いしか叶えてくれない。
一呼吸ほど間をおいて、シアーズは目を閉じて、勢いよく剣を抜いた。衛兵が一歩下がった。
「待て!シアーズ、やめろ!」
人々が一斉に振り返った。またしても自然と道が出来る。




