十五、まさか(二章完結)
占部と渡辺と別れ、夕闇が降りはじめた道を走る車中、伊佐は島を発つ前に起きた一件を思い出していた。
登紀子の家に迷い込んでいたあの白蛇のことだ。
隼斗は小鬼と言った。
だが伊佐には、穢れを帯びた真っ黒い靄の塊にしか見えなかった。
神域に身を置き、神気を浴び続けた修験者は、やがて自身もその身に神気を纏うようになる。そういう僅かな神気を目当てに穢れや瘴気は集まってくる。
蛾と同じだ。焼かれるのをわかっていて光を請う。
浄化しきれなかった穢れが積もり積もって修験者を飲み込んでしまうことも珍しくない。
あの蛇も飲まれる瀬戸際だったのだろう。
隼斗の神気を辿り、助けを求めてやってきたのだ。口で訴えることのできない蛇は、隼斗に触れてもらうため、あの家に通うアキに取り憑いた。
隼斗自身、それに気づいていたのかは定かでないが、隼斗は小鬼として視えたその蛇を浄化した。
老婆の姿をしたやまんと様の件もおかしい。
伊佐に出会うまで隼斗は怪異を認識できなかった。
隼斗は伊佐に触れることでしか怪異を視ることができなかったはずだ。
渡辺には姿さえ視えなかった老婆を、隼斗は伊佐に触れることもなく認識していた。当たり前にそこに存在する人間のように。
占部と伊佐には老婆の姿こそはっきりと視えていたが、交わされていた言葉は少しも耳に入ってこなかった。ただ隼斗だけがごく自然に――老婆と言葉を交わしていた。
隼斗は本来人見知りする性質だ。一度打ち解ければ驚くほど明け透けに懐っこい態度を取ることもあるが、基本的には見知らぬ他人と距離を置きたがる。村人たちとの会話も伊佐や占部に任せきりで、隼斗自身が口を開くことはほとんどなかった。
だが老婆には違った。隼斗のほうから言葉を重ねようとしていた。
隼斗に穢れが視えないのは強すぎる加護によるものだと、伊佐は思っていた。
だが本当は――視えすぎるのだとしたら?
伊佐や占部よりも、もっと本質に近いものが、視えているのだとしたら?
伊佐はハンドルを握る手に知らず力を込めた。
対向車のヘッドライトが、次々にすれ違っていく。
伊佐は前を向いたまま、静かに問いかけた。
「隼斗さんは、視えないのではなく、視ないのですか?」
しばらく、車内にはエンジン音だけが響いていた。
車窓を流れる暮れなずむ田園風景を、つまらなそうに眺めていた隼斗の視線が、伊佐に向けられた。
隼斗は、悪戯が見つかった子供のような顔で笑うと、頭の後ろで手を組みシートに深くもたれた。
「基本的に俺は視えない。でも視えるモノもある……ってのが、多分近い」
伊佐が変な顔をした。腑に落ちてないって顔だ。
「では意識的に視ないようにしている、ということですか?」
隼斗自身もあまり覚えていないが――幼い頃、突然火がついたように泣き出すことがままあったらしい。
隼斗はどう説明するか迷いながら口を開いた。
「あんまり頻繁に泣くんで、ババァが俺にマジナイをかけた」
「登紀子さんが?」
「うん」
隼斗は頷いた。
だからこのマジナイは、登紀子にしか解けない。
「ではなぜ、視えるときがあるんでしょうか」
「俺にもよくわかんねぇよ」
隼斗は窓ガラスに額を預けた。
脳のスイッチが切り替わる感じがする。うまく言葉にできる気がしなかった。
「元々は、いろんなモノが視えてたんだろうけど」
その頃の記憶は、いまの隼斗にはほとんど残っていなかった。
隼斗が朧げに覚えているのは二人だけだ。
一人は壮年の男で、いつも何かを言いたそうな顔をしていた。あれが何だったのか隼斗にはいまだにわからない。
もう一人はいまの隼斗と同じ年頃の少年だった。
顔はあまり覚えていない。
だがその目だけはゾッとするほど冷たかった。
恨んでいるようにも見えたし、殺気のようなものを感じることもあった。
自分が何を視て泣いていたのかは覚えていない。
ただ、あの少年の姿を思い出すと、当時と同じような落ち着かない感覚が、かすかに胸の奥で疼いた。
「そういえば、あれは、お前に似てたな」
隼斗が、冗談めかして笑った。
なんとなく、シルエットというか、立ち姿というか――全体に纏う雰囲気が。
「まさか」
伊佐は、前を向いたままだった。
目を細め、口の端を僅かに上げた。
笑ったように見えた。
窓の外を、電柱が規則正しく流れていく。
なぜだかその笑みが、隼斗の中に小さく引っかかったまま消えなかった。
第二章ここまでとなります。長い間、お付き合いありがとうございました。
またストックが溜まり次第、第三章再開します。
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