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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第6章 第7管理区画・第0補助層

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第6話 切替――救済案件と保全案件を混ぜるな

 目を覚ました時、誠二は、すぐ近くにある体温の静かさで、夜がちゃんと明けたことを知った。


 胸元へ沈んだ顔の角度。

 後頭部へ添えられた手。

 背中に回る腕。

 そのどれもが、もう仮眠室で目を覚ます時の当たり前になりつつある。

 昨夜も、数字の冷たさがしばらく頭の奥へ残っていたはずなのに、こうして起きる朝には、それが少しだけ遠くなる。

 完全に消えるわけではない。

 ただ、削るための形から、考えるための形へ落ち着いてくれる。


 誠二は、胸元へ顔を預けたまま小さく息を吐いた。

 今朝の気配は、昨日よりも少し重い。

 数値で見た偏り。

 壊れにくい人間に寄る重さ。

 止められないまま積まれていく案件。

 そして、その中心の一つにリュシアがいるという事実。

 そこへ今日はさらに踏み込む。

 救えるものと、もう救えないものを切る。

 かなり嫌な作業になるのは、起きる前から分かっていた。


「……起きてます」


 低く言うと、頭の上から短い返事が落ちる。


「うん」


 その声には、すでに少しだけ覚悟の色が混じっていた。

 寝起きの柔らかさは残っている。

 けれど、今日やる仕事の嫌さも、同じくらい近くにある。


 誠二が少しだけ顔を上げると、リュシアが視線を下ろしてくる。

 少しだけ目が合う。

 そのまま、静かなキス。

 長すぎず、短すぎず、言葉より先に近さを確認するみたいな触れ方だった。

 離れたあと、誠二は小さく息を整える。


「今日は静かですね」


「嫌な日」


 返ってきた言葉は短い。

 でも十分だった。


「かなり」


 誠二が言うと、リュシアは小さく頷く。


「かなり」


 そのまましばらく、どちらも動かなかった。

 仮眠室の空気は今日も薄く静かで、外の世界の音をほとんど持ち込まない。

 だから近くにある呼吸や体温が妙にはっきりする。

 こうして抱えられていると、人の側へ戻る。

 戻ったまま、今日やる重い判断のことも考えられる。

 その中途半端な位置が、いまの誠二にはちょうどよかった。


「今日は棚の中身そのものを切ります」


 誠二が言う。


「うん」


「嫌ですよね」


「嫌」


 即答だった。

 迷いがない。

 そして、その嫌さを隠す気もない。


「でも、やる」


「やる」


 短いやり取りのあと、リュシアは腕を少しだけ緩めた。

 起きろ、という合図だった。

 二人とも静かにベッドを出る。

 朝のシャワーを浴びて戻る頃には、頭の輪郭が少し整っていた。


 結晶板を前に向かい合う。

 昨日までに作った分類軸と、負荷の可視化表が並んでいる。

 案件の壊れ方。

 管理官の抱え方。

 その二つの地図があるからこそ、次の線が見える。


 誠二は、昨日見た救済棚の一覧を開いた。

 ひどかった。

 未整理や保留がひどいだけではない。

 “助ける”の名前で寄せられた案件の中身が、あまりにも違いすぎた。


 まだ間に合う案件。

 もう中心は持たないが、周辺被害は止められる案件。

 もう戻せないが、壊れ方を記録しないと次へ漏れる案件。

 切るしかないのに、誰も切れず置いたままの案件。

 それが同じような救済棚へ押し込まれていた。


「救済棚が広すぎます」


 誠二は、結晶板を見たまま言った。


 リュシアは腕を組み、短く返す。


「広い」


「広いというより、混ぜすぎてます」

「助けるつもりの棚が、助けられないものまで飲んでる」


「うん」


「そのせいで、まだ間に合うものの初動も遅れる」


 リュシアは少しだけ視線を逸らした。

 分かっている。

 分かっているから嫌なのだ。


 誠二は救済棚から数件のログを引き出して並べた。


 一つは、支援投入が間に合えば戻る可能性が高い案件。

 現地の核はまだ残っている。

 再派遣に意味がある。

 時間を失うほど悪化するが、まだ助けるという言葉に中身がある。


 もう一つは、中心の崩壊が進みすぎていて、元に戻すのはもう難しい。

 けれど周辺国家や関連案件への飛び火は止められる。

 このまま放っておくと隣の案件まで焼く類のものだ。


 さらにもう一つは、現地も支援もすでに手遅れで、介入しても戻らない。

 それでも記録を残さないと、同じ壊れ方が別の場所で繰り返される。

 そして最後に、切るしかないのに、誰もその一言を置けずに救済棚へ置き続けている案件。


 誠二は、それらを見比べてから静かに言った。


「これ、助ける棚じゃないですね」


 その言葉に、リュシアはすぐには返さなかった。

 少しだけ時間を置いてから、ようやく小さく言う。


「うん」


「助ける、延焼を止める、記録を残す、切る前の最終判断」

「全部が混ざってる」

「目的が違うものを一つの棚へ入れると、順番が死にます」


「うん」


 リュシアの返事は短い。

 だが否定ではない。

 それだけで十分だった。


 誠二は空いている板を一枚開いた。

 そこへ新しい見出しを四つ置く。


 救済案件

 延焼停止案件

 ログ保全案件

 打ち切り判定待ち案件


 光の板へ四つの名前が並ぶだけで、空気の温度が少し変わる。

 ここへ名前を付けるということは、初めて第0補助層に“諦める工程”を置くことと同じだからだ。


「まず、救済案件」


 誠二が言う。


「これは戻せる可能性があるものです」

「支援を入れる意味がある」

「再派遣や調整で改善余地がある」

「時間は敵だけど、間に合えば戻る」


 次に、別の板へ指を滑らせる。


「延焼停止案件」


 その言葉に、リュシアの視線が少しだけ動いた。


「中心はもう戻らない可能性が高い」

「でも周辺被害や関連案件への飛び火は止められる」

「助けるんじゃない。広がりを止める」


 誠二は、それを言いながら第99世界で見たものを思い出していた。

 全部を戻せないとしても、次へ燃え移るのは遅らせられる。

 補助層の棚にも、その発想は要る。


 さらに次。


「ログ保全案件」


 ここで、リュシアの表情が少しだけ固くなる。


「もう戻せない」

「介入効果が無い」

「でも壊れ方や、判断遅延や、制度の不備を残さないと次に漏れる」

「これは救済じゃなくて、次を壊さないための棚です」


 最後に、少しだけ間を置いてから言った。


「打ち切り判定待ち案件」


 その一言が、今日いちばん重かった。

 これを言葉として置くこと自体が、かなり嫌だからだ。


「救済棚へ置いたままにできない」

「でも、切る最終判断が必要」

「感情で引き延ばしやすい」

「だからこそ、期限と線が要ります」


 リュシアはそこで、低く言った。


「止めるの、嫌」


 たぶん、今日いちばん人間の声だった。

 管理官としての整理ではなく、感情の方から落ちてきた言葉。

 誠二は結晶板から視線を離さず、静かに返す。


「止めない方が壊れます」


 その返答は冷たく聞こえたかもしれない。

 だが、そこでやわらかく包んでも意味がない。

 この工程は痛い。

 でも必要だ。

 必要だからこそ、言葉も真っすぐでないといけなかった。


 リュシアは唇を少しだけ引き結ぶ。

 それでも引かない。

 逃げもしない。

 そのまま、板を見ている。


「助けないって言う感じがする」


 少しして、リュシアが言った。


 誠二はそこでようやく顔を上げた。

 その一言には、仕事上の抵抗というより、もっと手前の嫌さがあった。

 誰かを切る。

 戻せないものを別棚へ置く。

 その動作が“助けない”に見える。

 そう感じるのは当たり前だ。


「助けないんじゃないです」


 誠二は言う。


「もう助けられないものを、別の扱いにするだけです」

「混ぜたままの方が、助けられるものまで遅れる」


 リュシアは目を伏せたまま聞いている。

 だから誠二はさらに続けた。


「全部助ける棚は、結局どれも助けません」


 その一言が、空気の真ん中へ静かに置かれる。

 強すぎる言葉だった。

 けれど、補助層に今まで無かった種類の正確さでもあった。


 昼まで、二人は四つの棚へ仮の切替条件を置いていった。


 救済案件。

 現地核の維持。

 再派遣・支援投入の実効性。

 遅れても戻る可能性。

 介入価値。


 延焼停止案件。

 中心救済の低可能性。

 周辺被害の高波及性。

 隣接案件・関連世界への漏れ。

 被害拡大阻止の優先。


 ログ保全案件。

 救済不能。

 介入効果無。

 それでも残す価値のある壊れ方、遅延、制度不全。

 再発防止の資料性。


 打ち切り判定待ち案件。

 救済継続の感情的引き延ばし。

 最終確認が必要。

 ただし期限を切る。

 期限を過ぎたら棚移動。


 条件を書き足すたび、救済棚の中に積まれていた案件の見え方が変わっていく。

 昨日まで“まだ助ける側”にいるように見えていたものが、実は違う目的を持つ棚へ行くべきだと分かる。

 その整理は救いでもあり、残酷でもあった。


 少し離れた区画で作業していた管理官が、こちらを見ている。

 気づいているのだろう。

 ここで決められていることが、補助層の流れそのものを変えるかもしれないと。


「期限も要ります」


 誠二が言う。


「打ち切り判定待ちをずっと待ちにすると、結局また救済棚へ戻ります」


「うん」


「切る判断が怖いのは分かります」

「でも、怖いから保留で置くと、助けるべきものの順番が死ぬ」


 リュシアは小さく息を吐いた。

 その息は反発ではなく、理解の方に近い。

 嫌だ。

 でも分かる。

 その間にいる時の息だ。


 午後に入る頃には、仮の再配置が始まっていた。

 いままで救済棚の奥で濁っていたログの一部が、延焼停止へ移る。

 さらにいくつかは、ログ保全へ。

 最終判断を先送りにしていた案件が、打ち切り判定待ちへ押し出される。

 棚が変わるだけなのに、補助層の空気まで少しだけ変わる。

 救済棚が軽くなる。

 いや、軽く見えるだけではない。

 初動を急ぐべき案件の密度がようやく正しくなる。


「これで、やっと急ぐ順番が見えます」


 誠二が言う。


 リュシアが頷く。


「うん」


「今までは“助けるかもしれない”で全部積んでた」

「だから、本当に急ぐべきものも、もう遅いものも同じ棚で腐る」


「うん」


「棚を切るだけで、かなり変わりますね」


「かなり」


 そう言ってから、リュシアは少しだけ黙った。

 視線は打ち切り判定待ちへ移したままだ。


「嫌」


 ぽつりと、またそう言う。

 その一言には、今日一日の感情がまとまっていた。


「止めるの、嫌」

「慣れたくない」


 後半の一言は小さかった。

 けれど、誠二にははっきり聞こえた。


 慣れたくない。

 それは、この人の弱さというより、最後まで捨てたくない感覚なのだろう。

 切る判断を仕事にしながら、それに麻痺したくない。

 その嫌さを失いたくない。


 誠二は、少しだけ時間を置いてから答えた。


「慣れない方がいいと思います」


 リュシアが少しだけ顔を上げる。


「でも、混ぜたままの方がもっと悪い」

「嫌だと思ったまま切る線を持つしかない」


 その言葉に、リュシアは黙って頷いた。

 それで十分だった。


 仮眠室へ戻る頃には、二人ともかなり静かだった。

 感情的にぶつかったわけではない。

 けれど、今日は補助層に“諦める工程”を入れた日だ。

 その痛さは、さすがに軽く流せる種類ではない。


 軽い飲み物だけ取る。

 いつものように横へ座る。

 少しだけ間がある。

 その間も、不快ではない。

 ただ、仕事の重さがまだ身体の表面に残っている。


「どう」


 リュシアが訊く。

 いつもの問いだった。


「必要でした」


 誠二が言う。


「かなり痛かったですけど」


「うん」


「でも、救済棚をそのままにしてた方がもっと悪い」


「うん」


 しばらく沈黙が落ちる。

 そのあと、誠二は少しだけ声を柔らかくした。


「切るの、そんなに嫌ですか」


 リュシアはすぐには答えない。

 やがて、ほんの少しだけ目を伏せてから言った。


「嫌」


 それだけ。

 でも、その短さがかえって本音の深さを出していた。


「助けないって言う感じがする」


 低く続いた言葉は、昼間よりずっと素直だった。

 誠二は、そこで初めてリュシアの方へちゃんと向き直る。


「助けないんじゃないです」


 静かに言う。


「もう助けられないものを、別の扱いにするだけです」

「放っておくのとも違う」

「混ぜたまま見えなくするのとも違う」


 リュシアは黙って聞いている。

 だから誠二はさらに続けた。


「リュシア一人に、その嫌な判断を抱え続けさせるのも嫌です」


 その一言に、わずかに表情が揺れた。

 たぶんそこが、いちばん刺さる。

 仕事の理屈だけではなく、自分がその中にいるのだと分かる言い方だから。


 リュシアは何も返さず、ただ少しだけ身体を寄せてきた。

 それで十分だった。


 仮眠室へ入る。

 ベッドへ腰を下ろす。

 今日はどちらからともなく動きが遅い。

 それでも、距離を取る流れにはならない。


 抱き寄せる。

 抱き寄せられる。

 胸元へ沈む。

 そこまではいつも通りだ。

 けれど今夜は、その途中に少しだけ言葉より先の触れ方が増えた。


 最初のキスは短い。

 額へ落ちる。

 次は唇へ、少しだけ。

 離れて、少し黙って、また短く。

 会話の句読点みたいに、リュシアの方から数度触れてくる。


「今日は、よくしてきますね」


 誠二が小さく言う。


「嫌だったから」


 胸元からくぐもった声が返る。

 そのままもう一度、短いキス。

 数で気持ちを落ち着かせているみたいだった。


「見えると嫌」


「ええ」


「切るの、嫌」


「ええ」


「でも、混ぜたままはもっと嫌」


「その通りです」


 また一度、短く触れる。

 さっきまでの硬さが少しずつほどけていく。

 言葉にすると痛いものを、触れ方で少しずつ和らげているみたいだった。


 しばらくして、リュシアが少しだけ誠二の方へ深く寄ってきた。

 抱える側から、今日は少しだけ寄る側へ揺れている。

 その動きが、昼間には見せなかった弱さをそのまま表していた。


「切るの、慣れたくない」


 低い声で、そう言う。


 誠二は返事の前に、一度だけ髪へ触れた。

 それから静かに言う。


「慣れない方がいいです」


 リュシアは何も言わない。

 ただ、さらに少しだけ深く誠二へ寄る。


「でも、止める線は作ります」

「嫌だと思ったまま切るしかない」

「その方が、まだ助けられるものを助けられる」


 そこまで言うと、リュシアは顔を上げた。

 今夜いちばん長いキスだった。

 短いキスを何度か重ねてきた最後に、ようやくそこへ着くみたいな長さだった。

 深い。

 けれど急がない。

 ただ、近くいたい気持ちがそのまま重なっている。


 離れたあと、リュシアは誠二の胸へ額を預けた。

 かなり珍しい位置だった。

 いつもは自分の胸元へ誠二を埋める側なのに、今夜は少しだけ逆へ寄っている。


「見せる相手、誠二でよかった」


 ぽつりと落ちたその言葉に、誠二はすぐには返せなかった。

 重い。

 そして嬉しい。

 その両方が一度に来る。


「だったら、ちゃんと止める線を作ります」


 誠二はようやくそう言った。

 派手な言葉はいらないと思った。

 この人に必要なのは、たぶんそこだ。


 リュシアは小さく頷く。

 それから、少しだけ甘えるみたいにもう一度近づいてきた。


「今日は、少しこのまま」


「はい」


 誠二も腕を回した。

 強くではなく、そこにいていいように抱える。

 止めるのが嫌だった。

 でも、止めない方が壊れる。

 その痛い答えを抱えたまま、今夜も二人は近い距離をやめなかった。


 胸元の熱は静かで、手の重みは少しだけ深い。

 嫌な日だった。

 かなり嫌な日だった。

 それでも、こうして近いまま眠れるなら、明日また線を引ける気がした。

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