第20話 離任――戦後は来ない。だが再戦は遅らせられる
目が覚めた時、誠二は最初から笑ってしまった。
頬に当たるやわらかさ。
鼻先をくすぐる熱。
後頭部へ添えられた手の重み。
胸元へ顔を埋めたまま、かなりしっかり抱え込まれている。
もうここまで来ると、朝の一部として認識するしかない。驚きも戸惑いもないわけではないが、それより先に、ああ今日もここか、が来る。
しかも今日は、少しだけ深い。
顔を上げようとすると、後頭部の手が軽く押さえる。
逃がさないほど強くはない。
ただ、まだそこでいい、と言うみたいな加減だった。
「……起きました」
誠二が言うと、頭の上で少しだけ気配が動いた。
「うん」
リュシアの声は低い。
まだ寝起きの温度が残っている。
誠二は少しだけ顔を動かした。
すると、また軽く押し戻される。
「今日は強いですね」
言うと、リュシアは間を置かずに返した。
「もっと下に居てもいい」
朝からその言い方か、と思って、誠二は胸元へ埋まったまま笑った。
「ずるいですね」
「そう」
「認めるんですね」
「分かって言ってる」
短くて、妙に正直だ。
そういうところが、この人らしいと思う。
しばらく、そのままだった。
神界の仮眠室は今日も静かだ。
外の雑音が何もないぶん、人の呼吸と体温だけが近くにある。
離任の日の朝としては、ひどく穏やかだった。
昨日まで積み上げてきた会議も、試行も、記録も、全部完全ではない。
抜けもある。
嫌々続いているだけのものもある。
それでも、ゼロではない。
その事実を思い出しながら、こうして抱えられていると、力の抜き方が少しだけ分かる気がした。
「今日で離れます」
誠二が言う。
「うん」
「妙ですね」
「何が」
「もっと重い気分になるかと思ってました」
リュシアは少しだけ黙ってから言う。
「呼ばれなくていい形が残ったから」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。
そうかもしれない。
自分はたぶん、世界の真ん中に立ちたいわけではない。
むしろ呼ばれなくていいなら、その方がいい。
呼ばれなくても、少しは燃えにくくなる形が残るなら、それで仕事としては十分なのだろう。
「……そうですね」
誠二が答えると、後頭部を支える手が一度だけ髪を撫でた。
それからようやく、少しだけ腕が緩む。
「シャワー」
「はい」
「そのまま行かない」
「分かってます」
もう朝夕のシャワーは完全に定着していた。
会議前に落とす。
戻ってから落とす。
生活みたいになっている。
そういう繰り返しの中で近くなる関係は、たぶん嫌いじゃなかった。
熱いシャワーを浴びて戻ると、頭の中の輪郭が少しだけ整った。
確認室へ入ると、リュシアはいつものように結晶板を前にしていた。
机へ身体を半分預けた、力の抜けた姿勢。
けれど表示されている内容は、今日が締めだと分かるものばかりだ。
常設会議の継続確認。
海上接触ログの試行延長。
境界通行記録の最低限維持。
移動民登録窓口の残置。
事故調査一次確認書式の継続。
核実験通知の限定運用継続。
どれも小さい。
どれも脆い。
だが残っている。
「残りましたね」
誠二が言うと、リュシアが頷いた。
「うん」
「もっと消えるかと思ってました」
「消したいのも多い」
「でしょうね」
「でも、全部は消えない」
それで十分だった。
「会議も残る」
リュシアが言う。
「記録も残る」
「ええ」
「誤認も減る」
「少しは」
「核の即断もしにくくなる」
「少しだけ」
「それでいい」
短い。
だが、ここで必要なのはそれ以上ではない。
「行きますか」
「行く」
会議施設の空気は、最初にここへ来た時とは別物に見えた。
殺気が消えたわけではない。
正しさの衝突が片づいたわけでもない。
だが、“何も無いままぶつかる空気”ではなくなっている。
嫌々でも、一応持ち越す場がある。
記録が残る。
最小限の確認工程がある。
そういう薄い緩衝材が、場の空気そのものを少しだけ変えていた。
各代表の顔を見ても、それは分かる。
ドイツは相変わらず冷たい。
日本は相変わらず損得の顔だ。
英国は実務にしか興味がない顔をしている。
アメリカは最後まで距離を取っている。
ソ連残存政府はなお硬い。
東方エルサレム共和国は最後まで警戒を緩めない。
それでも、最初の日に比べれば席に座る理由が少し増えている。
「継続条件の確認に入ります」
誠二はそう言って資料を開いた。
会議を単発で終わらせないこと。
だが、強制機関にはしないこと。
海上接触ログは対象海域を広げず、まずは機能している海域だけ残すこと。
境界通行記録は、主権確定ではなく最低限の時刻・人数・武装有無のみで継続すること。
移動民登録は国家窓口を通る最低限の単位を残すこと。
事故調査は責任確定に踏み込まない一次確認のみを維持すること。
核実験通知は実験のみを対象にした最低限の通知枠を残すこと。
どれも地味だ。
華やかさがない。
だが、地味だからこそ続く余地がある。
ドイツは最後まで、法廷化と主権干渉を嫌った。
日本は最後まで、現場負担の増大を嫌った。
英国は最後まで、帝国実務が机上で縛られるのを嫌った。
アメリカは最後まで、保証人役に見える位置を拒んだ。
ソ連残存政府は最後まで、敗者固定の匂いを嫌った。
東方共和国は最後まで、国家承認が薄まることを警戒した。
何も変わっていない。
何一つ解決していない。
それでも、嫌がりながら残す項目がある。
「全面ではありません」
誠二は言う。
「ですが、ゼロではない」
英国が低く言った。
「ゼロへ戻す気もない」
その言葉は、帝国の現場人間らしい言い方だった。
大義ではない。
だが、使えるものをわざわざ捨てる気もない。
「海は、一拍あれば助かる時がある」
日本側が言う。
「その一拍は残す」
それもまた、この章の答えに近い。
アメリカは冷たく言う。
「義務ではないままなら、通知は続けられる」
ドイツは不満そうにしながらも、核実験通知の最小枠を崩さなかった。
相手国の誤読が一段減ることを、勝者である自分たちも無視はできないからだ。
ソ連残存政府は、事故調査と補償仮払いの“考え方だけ”は残す形で席を立たなかった。
東方共和国は、移動民登録が国家窓口を通る限り、それを管理台帳の延長ではなく主権防衛の一部として受ける余地を残した。
結局、誰も正義の相手にはならない。
誰も許していない。
何も清算されていない。
それでも、会議は残る。
記録も残る。
誤認は少し減る。
核の即断はしにくくなる。
誠二は、その事実だけで十分だと思えた。
それ以上を欲しがると、たぶん壊れる。
ここでは、裁けないなら燃えない工程を置く。それでいい。
離任確認のやり取りはひどくあっさりしていた。
呼び止められることもない。
大仰な謝意もない。
この世界の誰も、誠二を英雄扱いしない。
それでいい。
そういう仕事ではない。
神界へ戻ると、確認室の空気はいつもより少しだけ緩かった。
リュシアは椅子へ深く座っていて、扉が開くとすぐにこちらを見た。
「おかえり」
「戻りました」
「終わった顔」
「そんなに分かりますか」
「分かる」
いつもの小瓶。
いつものグラス。
隣に座るのも、もう自然だった。
肩の距離も、手の置き方も、どこに意識を置くべきかを考えなくていい。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
一口飲んでから、誠二は言った。
「結局、全部じゃなかったですけど」
「うん」
「残りました」
「残った」
「会議も、記録も」
「誤認も減る」
「核の即断も、少しはしにくくなる」
「うん」
そのやり取りを口にするだけで、少しずつ実感が出てくる。
大成功ではない。
だが、呼ばれなくていい形が置けた。
それはたぶん、かなり大きい。
「今日は、かなり機能した喜びがありますね」
誠二が言うと、リュシアが目を細めた。
「うれしい?」
「少し」
「私も」
それから、少しだけ間を置いて続ける。
「今日はちょっと、うれしい」
やはり、その言い方は効いた。
短くて、飾らない。
でも、ちゃんと感情がある。
この人がそういう言い方をする時、軽くはないのだともう分かっている。
「それ、かなり嬉しいです」
誠二が言うと、リュシアは頷いた。
「言った」
「はい」
「ちゃんと聞いた」
「聞きました」
そのやり取りのあと、自然に手が触れる。
もう確かめる感じではない。
つないで、そのままでいる。
肩も少し近い。
気まずくない。
むしろ、そのままの方が落ち着く。
しばらく静かに飲んだ。
達成感というほど大きくはない。
だが、力が抜けていく感じはある。
世界の側に一段、区切りがついた。
だから、自分の側のこともようやく見える。
「リュシア」
「ん」
「今日、ようやく」
誠二は少し言葉を探した。
「呼ばれなくていい形を置けた気がします」
「うん」
「だから、たぶん」
そこで言葉が一度切れた。
リュシアは急かさない。
手をつないだまま、ただ待っている。
誠二は、つないだ手の熱を感じながら、少しだけ呼吸を整えた。
ここまで来て、世界の方には工程を置けた。
なら、自分の側にあるこの距離にも、そろそろ短い言葉を置いていいのかもしれない。
そう思えた。
リュシアが少しだけ近づく。
目が合う。
自然に顔が寄る。
深く、長く、静かなキスだった。
これまでで一番深い。
何かを確かめるためではない。
もう分かっているものを、そのまま受け取るための長さに近い。
離れたあと、誠二はそのままリュシアを見た。
今度は目を逸らさない。
胸の奥は少しだけ落ち着かないのに、不思議と怖くはない。
「……これ、もう、付き合ってるでいいですか」
ようやく言うと、リュシアがほんの少しだけ止まった。
その顔は驚きというより、ようやくそこまで来たか、に近い。
「遅い」
まず、そう言う。
その一言が、妙にこの人らしかった。
「すみません」
誠二が言うと、リュシアは少しだけ目を細める。
「でも、いい」
短く。
それだけ。
それで十分だった。
大きな告白でも、劇的なやり取りでもない。
だが、曖昧でもない。
今まで自然に積み重なってきた距離へ、やっと短い名前が付いた。
「ありがとうございます」
誠二が言うと、リュシアは少しだけ肩を寄せてきた。
「今さら」
「そうですね」
「でも、いい」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
たぶん、その繰り返しで十分なのだろう。
それから急に何かが変わるわけではなかった。
小瓶があり、グラスがあり、隣に座って、肩が近い。
手もつないだまま。
意味だけが少し明確になった。
それで充分だった。
「シャワー」
リュシアが言う。
「はい」
朝と夜のシャワーも、もう完全に定着している。
言葉に名前が付いたからといって、生活の流れが急に変わるわけではない。
そこがむしろ心地よかった。
誠二が先に浴びて戻る。
仮眠室の中には、いつものように二つの枕。
いつものように、そこへ戻る。
少しして、リュシアが入ってくる。
熱い湯の名残と、少し甘い石鹸の匂いも、もう馴染んだ夜の一部みたいだった。
ベッドへ入る。
腕が回る。
抱き寄せられる。
胸元へ額が落ちる。
それもいつも通りだ。
ただ、今夜はその“いつも通り”に、少しだけ意味が増えただけだ。
「今日もここ」
リュシアが言う。
「はい」
誠二は顔を少しだけ埋め直した。
やわらかい。
熱い。
落ち着く。
「もう考えない」
「努力します」
「努力じゃなくて寝る」
「……はい」
少し笑ってから、目を閉じる。
会議は残る。
記録も残る。
誤認は減る。
核の即断はしにくくなる。
正しい終わりは来なかった。
だが、燃えにくい続き方は置けた。
「リュシア」
「ん」
「これからも、たぶん」
誠二は少しだけ言葉を探してから続けた。
「今日みたいに、地味にやっていく気がします」
「うん」
「世界も」
「うん」
「こっちも」
少しだけ間。
それから、抱える腕がほんの少し強くなる。
「それでいい」
短い返事だった。
けれど、その言葉の中に必要なものは全部入っていた。
誠二は、その熱を感じながら静かに眠りへ落ちていった。




