9.支え
黒松高等学校。
通称、黒松高校。
その日の夕方、竜一は駆け足で校門を通過した。
仕事を終え、家にも寄らず直で学校に向かったのだが、通学に使用しているバスが運悪く渋滞に捕まってしまったのだ。
バスを降りた時にはすでに、走らなければ間に合わないほど時間が迫っていた。
携帯で時刻を確認すると、授業開始まであと十分。
大丈夫だ。走ればまだ間に合う。
駆け足で校舎の正門を通過し、靴箱で内履きに履き替え、階段を駆け上がる。
竜一のクラスは三階。
竜一は、若さに物を言わせて疾走。
これなら間に合うな、と思っていたその時、階段をゆっくりと上る女の後ろ姿が見えた。
竜一は、その人物に声を掛けた。
「冬城さん! 急がないと遅れますよ!」
「うん、分かっているんだけど……はぁ……」
溜息を吐いたこの女の名は冬城 静。
竜一のクラスメイトだ。
年齢は訊いたことがないので分からないが、外見的には二十代前半。
肩口辺りまで伸びた髪は、灰色で緩くウェーブしている。
それでいて、毛先にかけて薄い青色でグラデーションがかかっているので、後ろからでもすぐに静だと判別できた。
大きな溜息を吐いて動こうとしない静を、竜一は心配そうに覗き込んだ。
「あの、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。私のことはいいから……先に」
本人はそう言うが、まったく大丈夫そうではない。
静の表情は暗い。それに、絞り出したような、か細い声。
この人はいつもテンションが低いが、今日の様子は尋常ではない。
流石に見過ごせないと思った竜一は「助けを呼んできます」と伝え足を踏み出した。
その竜一の腕がグっと掴まれる。
静は竜一の腕を掴んだまま、弱々しい声で言う。
「待って、ホントに大丈夫だから」
「いや、でも……」
「少し休めば大丈夫だから。ちょっと……肩を貸してもらえる? あそこまで」
そう言って静は階段の踊り場を指し示す。
竜一は、頑なに大丈夫と言い張る静の言葉を信じることが出来なかったが、一先ず「分かりました」と了承。
静は「ありがとう」と言って竜一の肩に腕を回した。
そこで竜一は心臓が跳ねた。
静と密着したこの状態。静の胸が竜一の背に当たっていたのだ。
竜一は邪念に支配されそうになるが、今はそんな場合じゃない、と精神集中。
「君は優しいね……」
「いえ、そんなことは……」
恐らく授業にはもう間に合わないが、そんなことはどうでもいい。
ここで静を見捨てたとあっては、流石に良心の呵責に耐えられない。
それに静は、暗い表情と目の下の隈でかなり損をしているが、美人である。
ここに司が居れば、授業より美人を優先しろ、と言うに決まっている。
竜一は、心に住まう司の言う事を聞いたのだ。
そこでふと、竜一は気付いた。
静と密着し、顔が近くなったことで気付いた。
「あの……冬城さん?」
「ん? どうしたの?」
うん、やっぱりそうだ。
「冬城さん、飲んでますよね?」
静の息から、アルコールの匂いが漂ってきた。
「いやー、そのー」
「飲んでましたよね?」
「……はい」
静の体調不良の原因はこれか。
アルコールが抜けてない状態で授業を受けに来ていたのだ。
そういえば、今までもちょくちょく体調が悪そうにしていたのも、そういうことなのか?
心配して損したという気分になったものの、体調不良であることには変わりない。
竜一は、階段の踊り場で静をそっと下ろした。
静は竜一に礼を言って、鞄からペットボトルの水を取り出し、グビグビ飲み始めた。
一気に三分の一まで飲んだところで、飲み口から口を離し竜一に言う。
「私は、もう少し休憩していくから……」
そう言って、身振り手振りで先に行くように竜一に促す静。
と言われてもな……。
ここまで来て今更ほっとくのも後味が悪い。
それに、すでに授業は始まっている。
そんな竜一の迷いを察したのか、静がポツリと言った。
「泉谷君も、ここで休んでいく? 一限目は一緒に……さぼろっか?」
「あー、そうですね」
竜一は曖昧な笑顔を浮かべ、静の提案に返事をした。
静の隣に腰を降ろし、一息つく。
体育座りをして膝の上に顔を埋める静に、竜一は尋ねる。
「あの、やっぱり誰か呼んできましょうか?」
静は顔を伏せたまま「大丈夫」と答える。
それから少し顔を上げて、竜一に言う。
「君は心配性だね。でも……嬉しいよ。ありがとう」
「い、いえ……」
「君みたいな優しい人が彼氏だったら、良かったのに……」
「……今の彼氏さん、優しくないんですか?」
「いないよ、そんなもの。出来たこともないし……」
意外だった。確かに静のダウナーな雰囲気から、やや近寄りがたい部分があるのは事実だが、美人だしスタイルもいい。静を好む人は大勢いるだろうに。
そう思ったが、恋愛のことなど自分に分かる筈もない。
竜一は、曖昧に返事をするに留めた。
「そう……ですか……」
「あの……さ」
「はい」
「私達……付き合おっか?」
「……はい?」
突然の提案に動揺するが、どうにか心を落ち着かさせる。
「からかわないでください。俺なんかと付き合っても良いことないですよ」
「そんなことないと思うよ。君、優しいし。それに、その黒い髪と黒い瞳、神秘的で結構好きかも。顔だって、割とアリかも……」
やたらと褒めてくる静に対し、もしかして魅了が発動しているのか? と疑念が湧いたが、そうではないことを直ぐに確信する。
魅了が発動すれば分かる。誰かから説明を受けた訳ではないが、そういうものだと竜一は理解している。
本当に不思議だが、この力が開花した時に情報が頭に流れ込んできたのだ。
静が何かに気付いたように、竜一に尋ねる。
「君、いくつだっけ?」
「十五ですけど……」
静は小さく「十五」と呟いたあと、大きく溜息を吐いた。
「流石に、不味いね……やっぱ、今のなしで」
「は、はあ……」
「君が卒業する時にもう一度、同じこと言うから、それまではフリーでいてね」
「それは……流石に保障できません……」
と返事したものの、竜一は自分が誰かと交際している姿が想像できなかった。
そもそもの話、竜一には不思議に思っていたことがある。
異性間の関係に於いて、付き合うとは何だろう。交際するとは何だろう。
契約書で交わされる契約でもないのに、何故、ただの口約束がそれ程、重要視されるのか。
口約束という、とても薄っぺらくて、次の日には忘れてしまいそうなものを、何故、みんな欲しがるのだろう。
そう思考する竜一の耳に、ペットボトルを握る音が飛び込んできた。
静はペットボトルの水をがぶ飲みしたあと、酒臭い息を大きく吐いた。
竜一はその様子を冷めた目で見つつ言う。
「あの……お酒、程々にしたほうがいいんじゃ……」
「うーん、分かってるんだけどね……」
こめかみに親指を押し当てながら、静はそう返事した。
こんな風に体調が悪くなっても、静はお酒を止めると明言しない。
それは何故なのか。
竜一は疑問を口にする。
「そんなに、お酒って美味しいですか?」
「いや、美味しくないよ」
「え? そうなんですか?」
「うん」
「えっ、じゃあ何で飲んでるんですか?」
「なんでだろ?」
「……」
返す言葉を失った竜一に、静は言う。
「ほんとはね、こんな物、止めた方がいいんだ。それは分かっている。でも、人は誰しもが強い訳じゃないからね。こういう物が必要なんだ。私みたいなのは特にね……」
「お酒を飲むと、強くなれるってことですか?」
「フフッ……君、面白いね。そうじゃないよ。そうだな……例えるなら、これは歩行器……かな」
「歩行器?」
「そう。当たり前だけどさ、人は生まれてから成長するまで、両親や近しい人、周りの誰かに支えられて生きてるよね?」
「まあ、はい……」
「大人になったらさ、その支えがなくなるんだ。これも当たり前だけどさ。大人になったら逆に、誰かを支える立場にならなくちゃいけない」
黙って耳を傾ける竜一に、静は続ける。
「でもさ、実は必要なんだ、支えが。大人になってもね。その支えは人によって違うけど、私の場合は、これかな」
薄く笑い、静は鞄から缶チューハイを取り出した。
「えっ、ちょっ、今飲んだら駄目ですよ!?」
「フフッ、分かってるよ。持ってるだけ。お守り代わりにね」
竜一は愛想笑いして、静に言う。
「なんだか、大変なんですね……大人って」
「そうでもないよ」
「えっ?」
「私は支えを見つけるのが下手なだけ」
「そうなんですか?」
「君が支えになってくれるなら、お酒の量減るかも」
「俺なんかが支えになれるとは思わないですけど、まあ、少しぐらいなら……いいですよ」
「フフッ……ありがとう」
静が薄く笑ったあと、竜一の左肩に軽い衝撃。
直後、人の温もりと重みが加わる。
静の頭が、竜一の左肩に寄りかかっている。
「あ、あの……支えって、そういう……」
直後、聞こえてくる静の寝息。
えっ、寝ちゃったの?
「ちょ、ちょっと、冬城さーん!」
このあと、静はしばらく目を覚まさなかった。
お陰で竜一は、二限目の授業も遅れた。