(8)T34
エンジンの重低音が近づいてくる。
「伏せろー」
警備隊長が小声で命令した。この戦場でこんなエンジン付きの乗り物に乗れるのはソ連軍のみだ。日本にはもう、ろくな戦車もトラックも無ければ、燃料も無かったからだ。
それから五分ぐらい経った頃にソ連軍の戦車がついに目の前に現れた。
緑色に塗られ、てらてらと蛇のように光る装甲板には赤いソビエトの五芒星が描かれている。そのせいかものすごく勝ち誇って見えた。そしてものすごく大きい。しかもその図体に似合わず足が速い。こんなまさに鉄の塊という他ないものがこんな速度で走れることが不思議なほどだった。一瞥するだけで三十両はいる。
戦車の周りには、マンドリンと呼ばれる軽機関銃を構えたソ連兵が、あたりを警戒しながら随伴しているのがくっきりと見えて息が詰まりそうになった。
悲鳴のような絶叫が聞こえた。私は咄嗟に耳を押さえた。
三枝子のいる学徒隊が囮となって、歩兵を引き離すために無謀な正面突撃を開始したのだ。
たちまち戦車が発砲を開始した。ソ連兵が軽機関銃を構えてあたり一面に弾丸をばら撒く。
竹槍部隊が次々と繰り出す。遠すぎて顔はわからないが学徒隊が突進していくようだ。だが、走って行くうちに体力の劣った者や脚力の弱い者が、仲間たちよりも遅れ始めてくるので、隊列はでこぼこになってしまっている。槍衾さえ作れていない。
――無理だ。
それでも私は届いてくれと祈った。
だが、砲弾が着弾すると同時に、竹槍の列が五~六人、敵に取り付くことなく倒された。遅れて煙の合間を突き破った竹槍の女学生の一人が、なおも突撃を続けようとするが、機関銃の弾丸を受けたためか、くたっと崩れ落ちたまま起き上がれなくなった。
歩兵はほとんど戦車のまわりを離れず、ホースで水をまくように軽機関銃を乱射するばかりだった。
囮として歩兵部隊を戦車から引き離す役目だった学徒隊は、圧倒的な戦力差のためにほとんど目的を果たすことなく全滅してしまった。
――なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ
私は心の中でうなされたように叫んでいた。
白峯警備隊長が腰に吊っていた軍刀を抜いて命令する。
「刺突爆雷、フトン爆雷 安全栓を抜け―」
――なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ
その答えを聞きたかったためか、わからないがふと私は隣にいた桜子を見ると、桜子はただもう滅茶苦茶になって地面を引っ掻いていた。親指には今抜いたばかりの安全栓が光っていた。鼻からはしゅーしゅーという荒い鼻息を出しているのが聞き取れた。もう狂ってしまったのか、それとももう切り離されてしまう地面の最後の感触を味わっているのか。
――桜子!!
警備隊長が軍刀を掲げた。
「突撃――ッ!」
私はやっと我に返った。周りの人間たちが悲鳴のような、雄叫びのような声を上げてのろのろと走り始めた。みんな恐怖で身体が強張っているのだと思った。だが同時に私は自分がとんだヘマをやっていることに気が付いた。刺突爆雷の尖端についている安全栓を抜き忘れている。あれほど注意されていたのに。私はあわてふためいて安全栓を抜きにかかる。だが慌てているせいか安全栓が上手く抜けない。
「馬鹿者ォ!何をしておるかぁ」
突進しない私を見た警備隊長が軍刀をぎらつかせながら怒鳴る。
「す、すいません。安全栓を抜き忘れましたぁ」
「馬鹿者ぉ、急げぇー!」
白峯警備隊長は私を置き去りにして突進した。桜子はどこだ、桜子に追い付いて、せめて一緒に、と思った。桜子はかなり前に突進していた。だがその次の瞬間、血潮を四肢から噴き出したかと思うと、そのまま前のめりに倒れて動かなくなってしまった。
私はとにかく桜子のそばに行こうと、安全栓を抜かないまま伏せていた体を起こしかけた。
弾丸が私の耳元を掠める。
だが次の瞬間、視界が真っ赤に染まり、炸裂した砲弾の噴き上げた土埃と破片の嵐に襲われて視界が切れた。左目の後ろの部分に刺すような痛みを感じるのと同時に、ふわりとそのまま私はのけぞったかと思うと、私の体は空中に運ばれ、そして地面に叩きつけられた。




