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(6)「途上」の結末

 私はずっとノートに目を通した。


 細字で書かれた文章はびっちりと貴重なノートの頁を埋め尽くしていた。


 勤労奉仕で休みも無い戦時の日常生活で、合間合間を縫って書いたためか、インクで書かれた所もあれば、鉛筆で書かれたところもある。睡魔に襲われながら書いたらしい、字の形になっていないうねうねとした文字列のところが、後になってから線で消してあるところもあった。食料増産のために駆り出された畑のそばに座って書いたときに付いたらしい、泥や泥で押し付けられた桜子の指紋の痕も残っている。


 桜子のすべてがここに刻まれている――そう思うと胸が熱くなった。

 

 私はじっと目を閉じた。

 そして桜子に対してかけるべき言葉をやっとの思いで紡ぎ出した。


「桜子、そんなことを気にする必要はないよ」


 最悪な反応に備えていた桜子が、私の言葉を聞いて、じっと私を見つめた。

 

 桜子はあらゆる可能性を考えるために、常に何かを疑ってしまう。でもそれは悪意ではないと私にはわかっていた。


「私も秘密の一つや二つは抱えている」


 桜子は長く沈黙したあとで、

「――ありがとう」


 涙ぐんでそう言った。涙ぐんだ桜子を見たのは初めてのような気がする。


「題名が変わっているけれど、『狭い器』というのはどういう意味を込めてつけたの?」


桜子は頷いてから、周囲を見回した。壕内には人が一杯詰まっているから滅多なことは言えない。


「結末を読んで」


「え?でも……」


 私は通読しないまま結末へ進むのは申し訳ないとは思ったが、桜子が目で、もう時間が無いからと促した。私はそれでもとまどったが、「お願いだから」と呟くと、桜子は自分から結末の頁をめくった。


 さっきまで聞こえていたソ連軍の歓声はもう消えて、今は不気味な静寂が大地を覆っている。


 おそらく次の作戦行動準備に入ったのだ。

―ついに総攻撃が来るのか……


 もう時間が無い。私は急いで結末に目を通した。


〈本当に何かの危機を乗り越える時には、権力者のやり方が間違っている場合も考慮して、権力を批判する意見も許容して、何が一番解決策に近いかを合理的にやっていくべきではなかったのだろうか?


だがこの国はあまりにも「狭い器」だったように思えてならない。


 国家という「器」の中に誰が入るか、誰が必要で誰がいらないかを決めるのは結局政治家、そしてそれに阿諛追従する文学者や思想家、新聞、そして便乗する国民だった。違う意見を言う者は、違うという理由だけで、意見を発することもできないまま「器」の中で圧殺されてきた。


 これでいいのだろうか?


 この小さな「器」の外に決定的破滅が待っていたのに、それを指摘する人間を「器」を危うくする人間として排除して来た。「器」のためを思って苦いことを言う人間と、「器」を誹謗中傷する人間の区別さえつけることがもう出来ないのだ。


「器」の中で、都合の良い事実だけを見て満足していたいのならそれでもいい。「器」の中の偉い人物が、「器」の中でしか通用しない正義を振りかざして「器」の中にいる人々を自分好みに改造するというのもその「器」それぞれの勝手だ。


 しかし「器」に生じたヒビに目を向けることがなければ、その「器」はいつか壊れてしまう。もし「器」を長く持たせたいと思うのなら、「器」に生じたヒビに目を向けてほしい。そして今度こそ、「器」そのものが、どんな人間でも受け入れることができる広いものであってほしいと私は切に願う〉。


 桜子は言った。


「本当はもっと詰めたかった。もっともっと詰めたかった。でもそのための時間がもう無い。……少し情けないなと思うことはある」


「どうして?……そんなことないよ」


「いや。出来は今一つだと思っている。今、思うに努力できるだけでも人間は恵まれたものだなと思う。努力するためにはそれを行うための時間が無ければできないから。でも、私は8月15日にこの戦争がまだ続き、本土決戦を行うと知った時、努力するための時間すら残されていないとわかった。時間が無いのだとわかったら心が焦って、…………冷静で高度な計算をしていかなければならない物語の……積み方みたいなものがとても荒くなってしまった。物語を書く前に、結末に焦る心を鎮めるだけでもう精一杯だった。……言い訳になるかもしれないけれど、平和じゃないと作家は作家であることすら無理なのかもしれない」


 言葉を続けるにつれて、だんだんと桜子の顔に明るい色が、一時的とはいえ差し始めていた。なぜだかわからない。本当はもっと悔しそうな表情を浮かべてもおかしくないはずなのに。


「頑張ったと思うよ、桜子は……」

 桜子はまたほっとしたような笑みを浮かべた。

 

 実はね、最近思うことがあるんだよ、と桜子は言った。


「私たちはみんな、あの”奥さん”かもしれないよね」

「谷崎潤一郎の『途上』に出てくる“奥さん”のこと?」


 犯人によって生きるための選択肢を潰されて、じわじわと死へと追い詰められていったあの“奥さん”のことか。


「そう。あの本を私が学校で読んでいた時、友枝は、私の名前も知らないで突進してきたよね。まったく、驚いたんだから」


「笑わないでよ。私は真剣だったんだから」


 桜子は深く頷いた。

「そうだよね。でも『器』の中に住んでいる人間として、私たちもいつの間にか、その選択肢を潰すのに協力してしまっているかもしれないな」


「この戦争が終わったら広い『器』が出来ているかもしれないよ」


「だと、いいけど」


 まだまだ話は出来そうだった。だけど、私たちはこれ以上会話をすることが出来なくなった。


 ついにソ連軍から陣地に向けた砲撃が開始されたのだ。壕の中は大地震のときのように激しく揺れ、立つことはおろか座ることも出来ない。砂や土の塊が次々と落ちてきて髪の毛に降りかかる。

 女性の悲鳴がそこかしこで響いた。


「おかぁーさん!」

「きゃー」


 砲撃は物凄い投射量を示し、途切れることが無い。銃眼から外へ銃を構えていた兵士たちが爆風で血まみれになって、叩き落ちてくる。


 私と桜子は互いに体を密着させて、阿鼻叫喚な現実に耐える。

 ついに天井を支えていた丸太の一つが脱落し、落盤が起きた。人間のものとは思えない潰れた声がすぐ近くでした。


 私と桜子は顔を伏せた。

 今までとは比べ物にならない土埃に咳が出た。目を開けてみると土埃で隠れているあたりはさっきまで敦子がいた場所だ。


「敦子?」

 私は駆け寄った。間違いなく悲鳴の声の主は敦子だった。敦子が、丸太の下敷きになっているのだ。私と桜子で丸太をどけようとしたが女の子の力ではとても上がらない。敦子が血を吐きながら呟いた。


「……頑張ったかな?」


「え?」

「しゃべらなくていい!……友枝、ここお願い」


桜子が立ち上がって奥にいる男の兵士たちを呼びに行った。

 敦子は口をぱくぱくとさせた。


「なに? 桜子はしゃべるなって! すぐに兵隊さんにこの丸太を動かして……」


「……頑張ったかな、……あたし」

「ああそうだと思うよ」


 次の瞬間、がくりと敦子は首を落としてしまった。敦子が前に「自分の家は女の子ばかりで周囲の目が冷たいけれど、必ずそれを跳ね返すような働きをして見せる」と言っていたことを私は思い出した。


 桜子が戻って来た時にはもう遅かった。桜子に向かって私は首を横に振って見せた。桜子は敦子とは険悪だったけれど、今まで目の前で生きていた人間が、あっさりと丸太に押しつぶされて死んでしまったことに衝撃を受け、その顔は蒼白になった。


 その直後、白峯警備隊長が走り込んで来て怒鳴った。


「敵の総攻撃が始まる前に、こちらから斬り込みをかける!敵戦車軍撃滅のためこれより第八地区特設警備隊と国民義勇戦闘隊は、肉攻突撃を敢行する!」


 斬り込み――自爆特攻の命令だった。


 全身に鳥肌が立った。


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