(9)モナコの大ばくち
「どっちが楽だったと思う?」
風を心地よげに浴びながら桜子は私に聞いてきた。私はとにかくもう一度、ごめんと言おうと思った。
「検閲官。とてつもなく楽だった。――本当にごめん」
桜子は気にしていないと首を振った。
私は桜子の顔をじっと見た。その言葉が本当でなかったら私はどうすればいいかわからない。
でも、桜子は澄んだ目で私の不安を溶かす。
「自分は何一つ考える必要もなく、相手の出してくる文章の気に入らないところだけを重箱の隅を突くように罵倒していくだけでいいから検閲官役はとてつもなく楽だった。私もたぶん友枝と同じように紋切型の思考停止した言葉を連ねて相手を沈黙させることで得られる一種の快感、一種の達成感に酔っていたと思うわ。これに不逞分子を叩くという使命感と正義感が加わったらまさに本物の検閲官の一丁上がりだと思う」
「まるで研究者みたいな感想」
「そう?」
「うん、なんだか。今の語っていた桜子、白衣着せたらものすごく似合う気がした」
「そう?……まぁ、これはちょっとした実験だからね」
「それにしても二人でそれぞれの役に分かれるという考えは良かったけど、心理学とかそういった類にある実験なの。これは?」
「いや。とくに何というわけじゃないの。友枝が手紙のことを話してくれたから実験できるかなって思って即興で考えたものよ。でもやって良かった。私の作品に生かせるかもしれない」
――作品?……「私の」?
「桜子、今何か作ってるの?」
桜子は少しはにかんでから答えた。
「小説を書いている、今」
私は目を丸くした。それまで何度か読書会をやってきたけど、桜子が読むにとどまらず書くことまでやっていたと知ったのはこのときが初めてだった。
「書いていたの?小説」
「まだ習作しかできていない。だからまだ見せられるような作品は書けてない」
「どういうの書いているの?」
「長編作品にしようと思っている」
「でも、今やった実験を桜子の小説の中でどう生かしていくの?」
「それはまだわからない。話の流れの形すらできていないから、この実験のことをそのまま素材にするかもしれないし、あるいはこの実験で感じた感情だけを小説の中に取りこむだけかもしれないし、ひょっとしたら作中で全く取り上げないかもしれない」
どうやらまだ桜子の中でも作品の構想は固まっていないらしい。でも、話の流れを構築するなんて、私には想像が出来ないほど大変なことのように思われた。
「職業作家も自分の作品の結末を考えて、執筆していっても当初の予想とは異なるものが出来てしまうという話を聞いたことがある。話の流れを作るのはもちろん、文字で何かを表現するって大変でしょう?」
桜子はしみじみと自分の不明を恥じるような顔をして頷いた。
「私も最初はその話は信じられなかったけれど、自分で書いてみるとよくわかったよ。自分の頭の中で構想した情景をそっくりそのまま文字に書き起こせるわけじゃないから、最初の構想とずれてしまうこともあるんだって。なんというのか脳内のものを文に書き起こす時に、ある程度の歪みみたいなものが出来てくる。それが面白くて筆が進む時もあれば、じれったくて筆を投げ捨てたい気分になることもある」
「それだけ?」
桜子は首を振った。
「いやいや。まだまだ他にもいっぱいあった。もともと語彙の量なら他の子に負けることはないと私は勝手に自信を持っていたけれど、いざ書くとなると辞書が手放せないとか、自分の至らなさを痛感することも多い。今まで友枝とも読書会を結構やってきたけど、誰かの本を読んで『ここは今一つ』、『この表現は余計』とか言っていたよね。でも、それはとんでもない、おごりだったかもしれない。そのつまらないと私がこき下ろしていた一文を書くのでさえ、実際にやってみるととんでもなく大変だってことがよくわかった。さらに色々な経験もいる。何かを書くためには。でも今の私にはそれが足りない。いい作品を書くにはやはり長く色々なことをやっていかないといけないのかもしれない」
――自分自身が鏡のように突きつけられることなのかな、書くということは?
「小説を書くときには経験とかやっぱり必要なものなの?」
桜子は、自分の書いている時の記憶を反芻し始めた。それから結論を導く。その真面目な振る舞いに、桜子の真剣さがにじみ出ているような気がした。
「やっぱり自分が体験していないことを推測するのは難しい。でもなにがしかの体験をしていると、応用をきかせていくことができるようになると思う」
「そうだとしたら、桜子――自分の体験を生かして物語を書くというと、自分の体験もそこに反映されてくるよね?何というのか、小説が一種の自伝のようになっちゃうんじゃない?」
「そう。だから小説を書くということは、書いた人の性格や考え方すべてを裸にしてしまうところがあるの。だから小説は私の分身みたいなものになるんだと思ってる。だからそれだけ自分の作品に愛着も憎悪も生まれてくる」
「分身か――」
自分が裸にされてしまうのなら、いい加減なことは通用しないということでもある。私はそこに書くことの厳しさがあるように思えた。
「私は、ひょっとしたら、私のすべてを小説の中に投げ込んで大博打を打ちたいのかもしれない」
大博打――桜子がきらびやかなドレスを身に纏って、手にシャンパンのグラスを片手に悠々と、モナコかどこかのカジノに悠々と出入りして、大金を緑色のビロードの張られたテーブルに、優雅な手つきで山積みにしたチップを突き出し、運否天賦の大勝負をしている様子が脳裏に浮かんだ。
「その博打に勝てるといいね」
「いや、勝てなくてもいい。とにかく一刻も早く作品を世の中に出してみたい。今はまだ賭け事のテーブルの前にも座れていない。チップも持っていない。まだ何も始まっていない」
桜子の中で、将来の夢と目標へ届かないことへの焦りが輻輳していた。しかし、どこか悲壮には感じられなかった。桜子は「まだ何も始まっていない」というところを笑顔で言ったからだろうか?
桜子自身、その目標へ届かない焦りを、小説を書くことの醍醐味や重要な経験として、プラスに考えている。敢えて言うなら楽しんでいるのかもしれないと、ふと思った。
「ところで、どういう作品を書くの?谷崎の『途上』のような犯罪小説みたいなの?」
「そうね……。それもいいかもしれないけど、女子学徒としてこの戦争を見つめた作品を書いてみたい」
「この戦争を扱うの?」
「そう」
それから桜子は今だからこそ、これをやらなきゃだめだと思うと付け加えた。ごく自然なことを私はするだけよと言いたげだった。
しかし私は緊張した。
戦争の話題は今、最も敏感で、まかり間違ったら大変なことになると思った。それに支那事変の時、軍部から好ましくないと判断されたために、逮捕され、掲載禁止になってしまった作家がいることは世の中に疎い私でも知っていた。噂では警察の総元締めの内務省では、危険思想を持っている作家には執筆の場を与えないように画策しているとかいう話まである。萎縮している自分自身を片隅に意識しながら、私は尋ねた。
「どういう風に戦争を切り取って行くの?」
「う~ん」
桜子は、頭の中で固まっていない構想の中から具体的な方向性を示そうと、頭を絞り始めた。私はその答え如何によっては桜子に書くのを止めた方がいいと言うつもりだった。
「そうね……戦争からしばらくして始まった物資の配給制や戦時経済の影響で、あれだけ栄えていた学園前の商店街が完全にさびれた。空襲に備えた強制疎開で、軒並み家が壊されて更地になってしまった。それを見ていると戦争と言うのは、敵の砲撃や攻撃に晒されるだけじゃないと思うの。戦争の間接的な影響がじわじわと私たちの生活に染み込んでいく、そんな感じが、さびれた学生街を見ていると私の中に湧き上がってくるの。その私の思ったその得体の知れないものを小説と言う形にして作り込んで行きたい……と今のところはそう考えているわ」
――ダメ、それは。
私は恐怖に駆られた。思わず桜子に向かって叫んだ。
「その内容だと戦争の暗い側面の描くことになるわ!それこそさっきの検閲官ごっこじゃないけれど、『反戦的』『反軍的』って見なされたら大変なことに……」
――桜子、あなた死んじゃうかもしれないのよ。
最後の言葉は呑み込んだ。桜子はそんなことはわかってるよと言った。
「もちろん、戦争が終わってからよ……戦意高揚が言い立てられる今じゃ、とてもこんな作品は出せないわ。……でも必ずいつか出して見せる」
私はほっと溜息をついた。戦争が終わった後ならさすがに大丈夫だろう。
「それをさきに言ってよ。怖かった。支那戦線の時、逮捕された作家がいるというじゃない。だから桜子がそうなったらどうしようかなって……」
「ごめんごめん」
桜子はどきどきとしていた私のことを軽く抱きしめて背中をさすってくれた。桜子の柔らかい乳房の感触と体温を感じて、私の心は落ち着いてきた。桜子は私の耳元で遠い地平線の向こうにある夢を語り続けた。
「それで、もし本を出版できたら、自分の書いたものにちゃんと共感してくれる読者に出会いたい。文脈の幅の広さを悪用して、今みたいな検閲官のような捻じ曲げた解釈をしてくる人じゃない本当の意味での理解者のような人が欲しい。そんな熱心で真剣な一人に巡り会いたい」
「でも、それもそれで大変そう――そういう人を持つというのは。付き合いとか色々」
「いいのよ。読者からの負荷でも、大切な理解者を持つ幸せでも、何でもいい。私は本を出すことで味わえる甘い味や、苦い味すべてを味わってみたい。そんな予測できない退屈しない文筆の世界に沈み込んでいたい」
私は桜子の言葉を噛みしめた。
「文筆の世界に沈み込むか……」
私はなんだか安心して冗談の一つでも飛ばしてやりたい気分になった。桜子の胸の中から飛び出すと、私はとにかく思いついたことを大袈裟に言ってみる。
「その表現からして文学者的だけど。女流作家・高木桜子女史の誕生する日か……。今のうちにサインでももらっておこうかしら?」
桜子は朗らかに笑った。
「本が売れたらそういうこともあるかもしれないわね。でもまだサインなんて考えてない。女流作家・高木桜子女史……」
桜子はここで何か思いついたらしい。でも「何だろうか」と私が見つめているのに気付くとなんでもなかったように続けた。
「でも呼び名なんかどうでもいい。まず作品を出さないと始まらない……あ、でも、もしサイン会をやるんだとしたら、そこの学生街のいきつけの樺太書店の店頭でやってみたいな」
私はその時のことを想像してみる。桜子の本が、まだ白紙の表紙ながら店頭にうずたかく積まれているのが見える。その本の紹介には「新鋭の女流作家」「戦時生活への鋭い視点」などといった美辞麗句が謳われている。樺太書店の顔馴染みの店主のおじさんが桜子の本を、売れ筋の本として丁寧に扱っている様。
自然と頬が緩んだ。
「最近まともな本を置いていないからね。樺太書店。でも桜子の本が出てる頃には昔みたいにまともな本が出てるよ、きっと。……『故郷へ凱旋! 女流作家 高木桜子女史サイン会』という横断幕があの銅版張りの壁に掲げられるんだろうね、きっと!……サイン会やるなんて言ったら店主のおじさんがまずびっくりしちゃうかも。結構、人が集まるかもしれないわ」
私の言葉に桜子は勇気づけられたみたいだった。ほっと息を吐いて言った。
「心の中が温かくなってくるよ。そんなことが私に出来る日が来るのかもしれないって思うと。まだ何にも始まっていないのに」
「うん。でもいいと思うよ」
「ありがとう」
「どうも。完成したら読ませて」
「わかった――あ、作品のことで思い出したけど、ところで私の小説の中で友枝をモデルにした人登場させていいかな」
「い、いきなりだね。別にいいけど――どういう名前で出てくるの、その登場人物」
「秋田友世。秋田県の秋田に、友達の友に、世界の世で友世。」
「あんまり、名前はひねってないのね」
「ごめん」
「――いや、別にいいけど。ところで次の読書会はどうする?」
「火野葦平の『麦と兵隊』とかどうかな」
「戦争を題材にした小説だよね?」
「そう」
「わかった。研究のためでしょう」
「当たり。自分一人でも読めるけど、友枝の意見も聞いた方より深く読める気がして。作品を書くときには先行している作品が一体何を書いて、何を書いていないのかをしっかりと押さえておかないといけないと思うの。だって、自分が思いついた斬新な発想が、もう誰かに使われているのを知らないで書いてしまったら一大事だもの」
「盗作と疑われてしまうよね」
「そう。だから研究が欠かせないなって――これも作品を自分で書きはじめてからわかったことなんだけどね」
私たちは夏の教室で、一瞬だけ二人の世界を構築していた。そこでは誰も国家への奉仕を求められることも無く、ただ静かに空を無為に眺めていても「非国民」とののしられることのない穏やかな一瞬の世界だった。




