(3)東独製テレビに映る戦争
秘書課に戻ると丸山秘書課長と、私を除いた5人の女性職員全員が来ていた。和文タイプで一文字一文字打ち込む音や、電話の音が秘書課の質素な部屋じゅうに響いていた。
課長は布張りの椅子を窓の外の方へ向けた格好で――つまり私たち職員に背を向ける形で座ったままほとんど身じろぎもしなかった。生きているかさえ不安になるぼんやりとしてしまった背中に、近寄りがたいものをいつも感じる。
「課長・・・・・」
「知っています。大臣からの用でしょう?」
課長は顔を少しだけ私の方に向けて呟いた。飼い殺され続けてきたその目は完全に生気を失って死んでしまっていた。
私はこの目を極力見ないようにして報告を続ける。
「はい」
「原子炉の建設予定地と、プラント完成後の送電網の整備計画の素案で部外秘とされていました」
私は大臣の命令よりも私なりの義理を優先した。
「わかった。わざわざありがとう」
丸山課長はそう言って礼を言った。しかしぼんやりとした視線を窓の外へ漂わせるばかりで、何の精気も感じられない。私は軽く一礼してから、職員の机の方へ行った。
部下の上村久子が私の帰りを待ちわびていたようだった。
「友枝さん。石炭輸送列車の遅延情報で札幌火力発電所の方から石炭供給について問い合わせがありましたが、どうしましょうか?」
私は実権を与えられていない課長に代わって溜まっていた業務を片付けるべく指示を出す。
「久子ちゃんは第二局の石炭供給課で運転復旧予定時刻の詳細を聞いてきて。必要ならお隣の交通省運輸局まで行って確認。信子ちゃんは第三局の発電課と給電課で石炭到着がこれ以上遅れた場合、札幌全市に計画停電をする必要があるか、ないかを確認して来て。あ、それから今日の1時に講堂で映画鑑賞会をやるそうだから、秘書課のみんなは12時半には講堂に集合して。これで、大丈夫ですね、課長」
課長は軽く手を振っただけだった。
上村久子と森崎信子の二人は「突然映画鑑賞会って何なんだろう?」「あんまり面白くないと思うけど」と言い合いつつ、他の課へのお使いに出て行った。私はそれからいない間にあった書類の処理に取り掛かった。
12時に私と部下の女性職員五人は、食堂に上がった。
だだっ広いリノリウムの貼られた床に、ずらりとスチール枠の簡素な椅子とテーブルが並ぶ役所の食堂を、ぐるりと見回して空いているテーブルを探す。
「友枝さん、ここ六人分が空いていますよ。それにここからはぎりぎりテレビが見えます」
「じゃあ、そこにしとこうか」
「はい」
「じゃあ私はここで、梅子ちゃんはどこにする? 荷物置いたら、ご飯を取りに行こう」
「はい、ここにします。岩田同志」
「じゃあ私はこの席に」
「あ、私はここのテレビが見える席に」
「うん、信子ちゃんがそこなら私も。でもここちょっとテレビから遠くて見にくいよ」
「どこでもいいでしょう。テレビからの音は聞こえるんだから」
私はとにかく空いた席の一つに座り、疲れた肩を揉み、首をゆっくりと回した。
大食堂の天井にはユノストという東ドイツ製テレビが吊り下げられている。その歪曲したブラウン管の画面に北日本中央放送が流れていた。
お昼の国営ニュースの時間で、私たちより先に来た職員たちはこのテレビの前の特等席に陣取って、耳を傾けている。
『――次のニュースです。北日本人民空軍は、本日未明午前6時32分、北海道真駒内上空に南日本の偵察機が一機侵入したことを発表いたしました。発表によると人民空軍はすばやく迎撃機を発進させ撃退したとのこと。わが北日本の防空は鉄壁であり、蟻の一匹も寄せ付けるものではありません。
偉大なる指導者・伊那征太郎書記長同志は、今回の件を受け『北日本は一刻も早く南日本に軍を進め、アメリカ帝国主義の傀儡政権に牛耳られている南日本を解放する必要がある』との談話を発表。北日本人民に一致結束を求めました……』
そのニュースを聞いてやれやれという表情を上村は浮かべた。
「またですね。これも……南日本も威勢がいいというのか、厚かましいというのか」
「いつか戦争になるんでしょうか?……南北で分断された朝鮮半島では、8年前の”祖国解放戦争”の失敗で、多くの人間が亡くなったそうですし」
森崎が不安を滲ませた。南日本を少し小馬鹿にするような皺を口元に寄せていた上村も「戦争」という単語にぼんやりとした表情を浮かべる。
「私は10歳でだいたいのことは覚えている。砲弾、敵がいつ来るのかわからないという怖さが一杯あったのは覚えている。あの戦争で父親と叔父と叔母が亡くなった」
上村はずきずきと痛む古傷を開かないように、そっとガーゼで傷口をくるむような話し方をした。
「主任同志。主任同志は戦争の時どうでしたか?」
村野が目をくりくりとさせて質問してくる。純粋な興味で聞いてくるのに私はとまどう。
「私は“17歳”だった」
一瞬で「17歳」という年齢の意味を悟った森崎がすばやく、さりげない風に注意する。
「興味本位で戦争のことを聞いたらダメよ」
村野もはっとしたらしい。私と森崎の二人にそれぞれ頭を下げた。
「配慮が足りなくて申し訳ありません。森崎同志、岩田主任同志」
それから森崎も後輩を取り仕切る自分の立場を意識してか私に謝った。生半可な覚悟で聞けば、私も、そして久子自身も大怪我を負ってしまうことを悟ったようだ。
私も聞かれなくてよかったと思った。
あの本土決戦後、津軽海峡を境に北側の北海道はソ連に、それより南側の本州はアメリカに分割占領されてしまった。そして北ではソ連の息のかかった北日本労働党の一党独裁政権が誕生し、南ではアメリカの意を受けた傀儡政権が誕生。日本は朝鮮半島と同じく東西冷戦の代理的な対立を引き受けることになってしまった。
「昼食をとってきましょうか、時間はあまり無いですから」
「そうしましょう、そうしましょう」
森崎は本土決戦の話題から外れたことにほっとしたように、しきりに頷いた。
手早く質素な昼食を食べた後、私はデザートとしてポケットからチョコレートの箱を取り出した。ボール紙のパッケージをスライドさせると銀紙に包まれて鈍く光っているチョコレートの粒が顔を覗かせる。みんなの目がそれに釘づけになった。
「それは『鎌印』じゃないですかッ!」
森崎はチョコレートの粒を宝石を見るような目でうっとりと見つめた。赤いパッケージに鎌を握った農村の子どもを描いているから、人びとに『鎌印』と呼ばれるこのチョコは北日本では貴重品に分類される。
「中規模機械製作省のある真駒内の原子力研究都市で貰って来たもの。どう? みんな食べる?」
「チョコレートですか!・・・甘い物なんていつ以来なんだろう」
森崎が溜息をついた。
「原子力研究都市の中は極秘だから、私たちにも教えられていませんからわかりませんけど、機密漏えい防止のために、研究者であっても簡単に敷地外へ出られないと聞きます。
けれど研究者たちを鬱屈させないようにあらゆる娯楽や嗜好品のたくさん揃えられている、地上の楽園だとか……。いいなあ」
上村はふにゃっとした顔を浮かべて宙を仰いだ。
高層アパートの一室を官舎としてあてがわれる公務員は恵まれている。とは言え、安月給で親や姉妹の面倒も見なくてはならない上村や森崎は生活が厳しいとよくこぼしていた。
森崎や上村はチョコレートを一粒ずつ取って、丁寧に、壊れやすいものをいじるときのような手で銀紙を剥がして口の中に入れて目を丸くした。にっこりと口元を緩めてチョコレートの味を口中で楽しんでいる。
「おいしいです!でも友枝さんは凄いですよね。女性で原子力担当官まで兼任していて。将来の大臣官房長は友枝さんがなるかもって女性職員の中では噂になっていますよ」
「そう、ありがとう」
「頑張ってください、友枝さん」
「うん」
二人はとても喜んで、私を持ち上げる。ここまで喜んでくれるとなんだかくすぐったい。私は一粒取って含んだ。物資不足でカカオ豆純正というわけにはいかず、大豆粉とかで増量した香ばしさも、苦みも無い、ぱさぱさとした乾いたチョコレート。
戦時中に母が拵えてくれた里芋で作った甘味の薄いお萩のことを私は思い出す。
「あの、岩田同志。お尋ねしてもいいですか?」
村野が再びこちらをくりくりとした目で見つめていた。
私が返事をする前に村野は質問をぶつけてくる。
「大臣同志と丸山課長同志の関係のことですが……なんだかギクシャクしていませんか?」
私は代用チョコレートを飲み込んで、口の中をコップの水で潤してから、梅子に問い返した。
「それを聞いてどうするの?」
「いえ、特にどうという訳ではありませんが、おかしいじゃないですか。大臣官房の中心である秘書課の課長が、全く大臣と連携の取れない事態だなんて」
後ろで森崎が「まだ懲りていないの、この子は」と言わんばかりに村野の肩を掴んで、そのきわどい質問を引き留めようとする。
「世の中にはね、訊いてはいけないこともあるのよ」
ともっともらしいことを上村も言う。しかし私は言った。
「戦争のせいよ、あれも」
「あ……」
村野は森崎の方ちらりと見る。さっき本土決戦の質問を軽率にするなと暗に言ったばかりなのに!と森崎はしかめっ面をした。上村も「梅子ちゃん!」と目で暗に注意する顔だった。村野はぎこちない笑みを作って、ぺこりと可愛らしく謝った。
私は頭の中で説明文を組み立てて、ゆっくり話した。
「丸山さんは戦時中、大学の経済学部に在籍している優秀な学生だったのよ。だけれど戦局の悪化とともに、学徒出陣で満州の関東軍に送られた。しかし満足な武器もなく満州を“解放”するべく進軍して来たソ連軍にあっという間に関東軍は撃滅された。その結果丸山さんは捕虜になってシベリアの労働キャンプに送られた。時同じく本土決戦後の北海道では壮絶な地上戦のせいで、極端に人口が激減して労働力やそれを組織する知識水準の高い人材を早期に揃える必要を迫られた。それでシベリアに拘留されていた丸山課長のように優秀で、思想教育で共産主義に従順と判断された人たちが、北日本の官庁や重要なブレーンとして送り込まれた。丸山さんもその一人なの」
「それなら聞いたことがあります・・・・ソ連当局の“温情にあふれた思想改造”のおかげで更生して、今は北日本で生活している日本軍の元兵士、通称『シベリア組』ですよね?」
――まるで教科書から抜いてきたような平板な理解。
私は眉をひそめた。
丸山課長はもともと四国の出身で北海道の出身ではない。あの本土決戦後、国土が南北に分断されたこの状況下では、丸山課長は南日本領内の四国の故郷に帰ることが出来ない。
「何か不味いこと言いましたか?」
私が顔をしかめたのを見て、村野が不安そうに目をくりくりとさせていた。
「いえ。何も。問題はないわ」
私は温厚な表情を浮かべて言った。とにかく無難に、角を立てないように、慎重にふるまっていないと、この国では生きていくことは出来ない。
無邪気な村野はそんな私の気持ちなど知らないようだった。それが言葉を抑えなければならない状態と重なって、無性に腹が立ったし、村野の無垢なところが羨ましくもあった。
「しかし、どうして大臣同志が丸山課長同志を毛嫌いなさるのです。もう更生なさったのですから問題は無いはずでは?」
上村が鈍い村野に言う。
「そんな、甘くないんだよ。世の中は、梅子ちゃん」
私は続ける。
「大臣は『シベリア組』という前歴は消えないと思われている。いつ元の本性を出してこの北日本を裏切るかわからないとね。『人材の有効活用』を掲げる党の指導方針に従って、クビにはしないけれど、主要な仕事からは疎外するようにしている。大臣は丸山さんを“前科者”と見て毛嫌いしているの」
「そうなんですか」
ここで森崎が思い出したように尋ねる。
「ところで、そもそもいつから丸山さんは秘書課の課長になったんでしたっけ?」
私は秘書課で7年間働いてきた最古参なので、こういう質問には強い。
「2年前からよ。閑職の大臣官房付から秘書課に転任してきたのよ。閑職の大臣官房付のまま塩漬けにしていると、党組織からせっかくの人材を有効活用していないと注意を受けるから仕方なく、形ばかりに課長職を与えた。でも何の権限も与えない」
村野が目を瞠った。
「酷いですね。秘書課長になる前から飼い殺しにされてきたんですか?……主任同志の話だと大臣はそんなに悪い人ではないとのことでしたが……。」
私は複雑なものを感じながら答える。
「酷いけど、大臣の経歴からして無理からぬところもあるのかもしれない。大臣は戦時中、在野のマルクス経済学の研究者だった。しかし戦時中に特高警察に逮捕されて厳しい拷問を受けた。その時の傷跡が今も首筋の裏のところに残っているわ。大黒柱を失った彼の家族は離散。大臣は自分の研究と家族という大切なものすべてを日本帝国主義に奪われて、網走監獄にぶち込まれた。しかし本土決戦時にソ連軍の解放によって出所。その後ソ連軍の作戦に協力したことでソ連側の信頼を勝ち取り、北日本労働党中央委員会電力経済部長、つまり大臣の職を得た。栄達したように他の人からは見えるでしょうけれど、あの人はいまだに独身で孤独な人よ。あの戦争で奪われた大切な家族というものを回復できていない大臣にとってみれば、元とは言え、日本帝国主義の手先だった丸山課長は、自分の家族を奪った許せない奴の手先に見えるのだと思う」
「でも、学徒出陣でしたらほとんど強制ですよね? 丸山課長自身が日帝の手先になることを自ら望んだということにはならないでしょう。嫌々やらされただけかもしれないじゃないですか」
「そうよ。その可能性もある。でもかけがえのない家族すべてを失った大臣にしてみればたとえそうでも、そう簡単に割り切れないのだと思う」
村野は沈痛な表情になってうつむいた。
私は食堂に掲げられた時計を見る。12時20分。
「そろそろよ。出ようか」
私がそう言って立ち上がると、他の子たちもあわただしく立ち上がった。




