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(4)思想警察の影

 大講堂は庁舎の10階にあった。二階席のついた全職員を収容することが可能な大規模ホールで、全職員を集めての音楽会もしばしば行われる。またこのホールには控室もついており、そのうちの一つに私たちは集まることになっていた。


しかし、部屋に入ろうとして私たちは思わず立ち止まってしまった。


 茶色の制服を着た警官が二人、壁を背に立っているのが見えたからだ。さらに大臣の隣には見慣れない灰色の人民服を着た中年の男。周りの状況から見てどうも茶色の制服警官の上司らしい。


――ヤバイのが来ている。


「通常警察じゃありませんよ、あれは!」誰かが言った。


――だとしたら、この男は……


大臣は私たちに自分の隣に立っていた灰色の人民服の男を紹介する。


「来たか。諸君に紹介しておこう。こちらは国家(こっか)()衛省(えいしょう)思想宣伝局第三課の三浦少佐だ」


「ほ・・・ほ・えい・しょう?」森崎はカチカチと歯を鳴らした。

――やっぱり。


悪い予感が当たった。国家保衛省、と聞いてこの国で平然としていられる人間などいない、そう私は断言できる。


国家保衛省は、国家や社会主義を破壊しようと企む“反動分子”、“反革命分子”の摘発を目的とする秘密警察だ。役所や会社の電話や通信を盗聴したり、多数の密告者をあらゆるところに“浸透”させて、近所での世間話すら収集させたりしていると言われている。

 中でも、国家保衛省防諜局(ぼうちょうきょく)第四課はイスラエルのモサドや南朝鮮のKCIAに匹敵すると言われていて、国内のスパイ狩りだけでなく、南日本に亡命した北日本人の拉致や、国内の“目障りな”要人を事故死に見せかけて抹殺するなどの非合法的手法も厭わない極秘精鋭部隊と言われていた。


 これは余談だが、北日本では、母親がぐずる子どもに対して「そんなわがまま言ってると保衛省の第四課のおじさんが来るよ」と言うと、子どもは、ぱったりとわがままを言わなくなるほどだった。



 国家保衛省・三浦少佐は、にこりと笑った。

 軍服ではなく平常の人民服を着ていることや、髪の毛の薄い地味な風貌から、どこにでもいる中年の親父という雰囲気が滲んでいたが、目元だけはすっと細い光が宿っているようで、いかにもそれっぽい感じだと思わせるものがあった。こんな人物に隠密されて果たして私は秘密警察官だと気づけるのだろうか?という考えが頭をもたげた。


三浦は歯切れよく丁寧な言葉で挨拶する。


「我々は国家保衛省で、人民の“思想検討”を行っております。しかし、別に取って喰うわけじゃありません。この国に暮らす人民への“啓蒙教育”をしてその成果を確認するだけです。ご安心いただければ」


 この挨拶には一つ補足がいる、と私は思った。確かに人民に対する啓蒙教育はやるが、その内容に対する異議申し立ては認めず、異議申し立てをしたり、反対したりする人間を排除する。私からしてみれば、取り締まる対象が違うだけで業務は戦時中の特高警察と何ら選ぶところが無い。


「今日上映する映画の感想を視聴した全職員から聞きたい。まぁ、教育の効果を測るためだ。君たちには視聴開始までにこのレポート用紙を全職員に配っていただきたい、わかりましたね?」


三浦少佐は真綿で首を締めるような口調で、命令してくる。有無は言えない状況なので、とりあえず了承することにして、一同を代表して返事をしようとしたとき、質問の手が挙がった。

「三浦少佐同志、一つご質問があります」

突如の質問に、私は襟髪を掴まれて引き戻されるようなものを覚えた。ふと横を見ると森崎の口元が「また?」と言いたげなへの字になっている。その視線の先を追うと色白の丸っこいお餅のような村野の顔が目に入った。


「何のための“思想検討”なのでしょうか?」

――ちょっと、梅子ちゃん。そんな率直すぎる!


それを聞いてはいけない雰囲気の中で、それを聞いていいのか?そんなとまどいをみんなが示す中で、梅子はこちらが心配になる程の無邪気な笑顔を浮かべて少佐の顔を覗きこんでいる。


「同志、君の氏名と役職は何かな?」三浦少佐は逆にそう尋ねた。

――ここで氏名を聞いて、後で処分するときに利用しようと考えているのか?


緊張が走った。私は村野と三浦少佐の顔を交互に見比べた。


「電力経済省大臣官房秘書課職員の村野梅子です」

「そうか。今日見る映画は盟邦・朝鮮民主主義人民共和国の祖国解放戦争についてだ。そして今回の思想検討の目的は、今の朝鮮半島をめぐる政治情勢について人民の思想を探るということにある」


三浦少佐は演説を続ける。時折大仰な身振りを使ってその声は熱気を帯びていく。


「朝鮮半島は本来我が盟主であるソ連邦の力によって“解放”されるはずの土地であったにも関わらず、強欲なる米帝国主義は、原子爆弾による威圧のもとに、この北日本の建国を認める代わりに、38度線以南の半島の領域を渡せと強欲な要求を出して南朝鮮を食い取った。そのため朝鮮半島は南北に分断され、我盟邦・朝鮮民主主義人民共和国政府は8年前、祖国解放戦争を行った。この際、我が北日本は米帝国主義の朝鮮人民の殺戮のための基地と化した南日本を叩き、朝鮮人民の支援を敢行せんとしたが、高度な政治的理由のため参戦することが出来なかった。一方中国共産党は朝鮮人民を救うため抗美援朝軍を送った。この北日本は、今まで通りソ連偏重のままで行くのか、それとも中国共産党とも連携して、南日本を牽制するべきなのか。人民の一致結束が求められる秋なのだ」


――早い話、上の人間も中国共産党に接近するか、今まで通りモスクワに追随するのか、決めかねているだけに過ぎないのだと。そのくせ国民への思想教育を行おうとしているのだ。私は心の中で首を傾げた。


 粗末な八つ切りの配布用の藁半紙が私たち秘書課職員のそれぞれに割り当てられた。配られた藁半紙に手汗が染み込みそうになって、私はあわてて人民服の裾で手の平をぬぐった。「国家保衛省・思想検討用紙」と印刷された赤い罫紙を持つ手が震えた。


これが何よりも恐ろしいものだった。


 どういった考えや文章が“反動的”で“反革命的”なのかという基準が非常に曖昧で、私たちは、具体的に何が“反動的”で“反革命的”に該当するのかがわからない。それぞれの文がどうであるのか判断するのは国家保衛省の役人だ。


“反革命的”で“反動的”なことを思っていなくても、あるいは無難で模範的な文章を書いたつもりでも、役人側でこちらの書いた文を恣意的に拡大解釈して“反動的”“反革命的”と断定してしまうことが可能だった。


しかも、国家保衛省の役人の中には、自分の実績水増しと点数稼ぎのため、絶対にそうじゃないというものですら、「この○○という文面は反動的だ」と難癖をつけて、書いた人間を「反動分子」として逮捕するという噂もあった。


――この目の前にいる三浦少佐は、どうなのだろうか?

 自分の手柄のために無実の人間を「反動分子」に仕立て上げる口か、それとも、変な言い方になるけれど、“誠実に”職務を全うする口なのか。


 演説を終えた後の三浦少佐は無表情で、読めなかった。

三浦の意向を探ることを諦めた私たちは、大講堂に集まった職員に専用用紙を配り始めた。受け取った人間もこの後に思想検討が待っていることを悟り、ぎくっという表情を浮かべ、スクリーンの脇に立つ茶色の制服の男たちに怯えた視線を送った。見る前からどういう文章を書けば無事に済むだろうかと思案していると思われる表情も垣間見えた。


――見た後に配ればいいのに。

 無表情で立っている秘密警察の存在を背中に感じながら、そう思った。


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