第61話 踏み出す勇気(後編)
少女の涙は、決して激しいものではなかった。
声を上げて泣くわけでもなく、肩を震わせるわけでもない。ただ静かに、堰を切ったように頬を伝い、膝の上へと落ちていく。その涙には、一か月という時間の重みが詰まっていた。
人は限界まで我慢すると、泣くことすら忘れてしまう。
だからこそ、泣けるということは決して弱さではない。
心がまだ壊れ切っていない証拠なのだと、サトルはこれまで何人もの相談者を見てきた経験から知っていた。
店内には時計の針が進む音だけが静かに響いている。
誰も少女を急かさない。
誰も「頑張れ」とは言わない。
それが、この店の流儀だった。
十分ほど経った頃だろうか。
少女はポケットからハンカチを取り出し、涙を拭った。
「……すみません。」
「謝ることじゃない。」
サトルの短い言葉に、少女は小さく首を横へ振った。
「でも……初対面なのに。」
「泣いてしまって。」
「泣きたかったんだろ。」
少女は答えられなかった。
代わりに、小さく頷いた。
その仕草だけで十分だった。
サトルは新しく温かいハーブティーを淹れ直した。
冷めた飲み物は、話し終えた心には少し寂しい。
湯気の立つ新しい一杯を少女の前へ置くと、優しい柑橘の香りが再び二人の間へ広がった。
「ありがとうございます……。」
「飲め。」
少女は両手でカップを包み込み、小さく口をつけた。
温かさが喉を通り、冷え切っていた身体へゆっくりと染み込んでいく。
その様子を見届けたサトルは、静かに口を開いた。
「学校へ行きたいか。」
少女は驚いたように顔を上げた。
その質問は予想していなかったのだろう。
しばらく考え込み、そして小さな声で答えた。
「……行きたいです。」
「本当は。」
「友達とも話したいし。」
「卒業もしたい。」
「でも……。」
そこで言葉が止まる。
サトルは続きを促さない。
少女は自分の中で言葉を探しながら、ゆっくりと続けた。
「学校の門を見るだけで。」
「胸が苦しくなるんです。」
「教室のことを考えるだけで。」
「息ができなくなるんです。」
「だから……。」
「自分でもどうしたらいいのか分からなくて。」
みどりは少女の話を聞きながら、自分が高校生だった頃を思い出していた。
誰にでも、学校へ行くことが苦しかった日はある。
けれど、それが毎日続く苦しみは経験したことがない。
だから軽々しく「分かる」とは言えなかった。
分からないからこそ、今はただ聞く。
それだけでいいのだと、サトルの背中を見て学んできた。
サトルはしばらく考え込んでから、立ち上がった。
カウンターの奥にある木製の棚を開ける。
そこには異世界から届いた品々が並んでいた。
光を蓄える小瓶。
心を落ち着かせる香り水。
自分の本音を聞く鈴。
選択を後押しする石。
そのどれもが「答え」を与える道具ではない。
人が前を向くための、小さなきっかけに過ぎない。
サトルはその中から、小さな革袋を取り出した。
中には白く丸い、小石のようなものが一つ入っている。
よく見ると、石ではない。
半透明の種だった。
「これは……?」
少女が不思議そうに見つめる。
「異世界の。」
「一歩の種だ。」
「種……ですか?」
「花になるんですか?」
サトルは首を横へ振った。
「花じゃない。」
「これは持ち主の『最初の一歩』を覚える。」
「最初の一歩?」
「そうだ。」
「大きなことじゃない。」
「小さな一歩だ。」
少女は種を手のひらへ乗せた。
驚くほど軽い。
そして、ほんのり温かかった。
「これを持って。」
「最初の一歩を踏み出せ。」
「学校へ行くことじゃない。」
「え?」
「もっと小さくていい。」
少女は首を傾げる。
「例えば。」
「制服を着る。」
「学校まで散歩する。」
「先生へ一通だけ連絡する。」
「教科書を開く。」
「玄関で靴を履く。」
「それでもいい。」
「……。」
「一歩を覚える。」
「そのための種だ。」
少女は種を見つめ続けた。
今までの自分は、いつも「学校へ行かなければならない」と考えていた。
だから行けない自分を責め続けていた。
しかしサトルが言ったのは、「学校へ行け」ではない。
「もっと小さな一歩でいい」ということだった。
その言葉は、張り詰めていた心の糸を少しだけ緩めた。
「……それなら。」
「できるかもしれません。」
「やってみろ。」
「はい。」
「失敗してもいい。」
「え?」
「失敗したら。」
「次の日にもう一回やれ。」
「……。」
「一歩は。」
「逃げなければ消えない。」
少女はその言葉を何度も心の中で繰り返した。
逃げなければ消えない。
その一言は、彼女にとって何よりも救いだった。
これまでの彼女は、一度できなかっただけで「もう駄目だ」と決めつけていた。
しかし違う。
昨日できなくても、今日やればいい。
今日できなくても、明日やればいい。
その積み重ねが、一歩になる。
それでいいのだ。
チビが少女の膝へ飛び乗り、小さく「にゃ」と鳴いた。
まるで「その通りだよ」とでも言うようだった。
少女は自然と笑みを浮かべる。
その笑顔は、店へ入ってきた時とはまるで違っていた。
まだ不安は消えていない。
悩みも解決していない。
それでも、前を向こうとする力が、その瞳の中に確かに宿っていた。
「ありがとうございました。」
「また来ます。」
「来い。」
「報告します。」
「待ってる。」
少女は大切そうに革袋を胸へ抱えた。
ドアを開けると、森を吹き抜ける爽やかな風が頬を撫でる。
来た時よりも足取りは少し軽い。
その背中を、ロンが入口まで見送り、イチは棚の上から静かに見守っていた。
少女の姿が木々の向こうへ消えるまで、サトルは何も言わなかった。
やがて姿が見えなくなると、みどりが温かいコーヒーを差し出す。
「優しい種でしたね。」
「道具じゃない。」
「え?」
「きっかけだ。」
サトルは湯気の向こうを見つめながら、静かに微笑んだ。
「人は。」
「自分で歩いた一歩しか。」
「自分の力にならない。」
みどりはその言葉を胸の中でゆっくりと反芻した。
異世界の品は、奇跡を起こすためにあるのではない。
誰かの人生を代わりに変えるためでもない。
ほんの少しだけ勇気を渡し、踏み出すきっかけを作る。
その先を歩くのは、いつだって本人なのだ。
店内ではトラが大きくあくびをし、チビはその背中へ飛び乗って遊び始める。
ジルは窓辺へ移動し、柔らかな陽射しを浴びながら目を細めた。
きなは相変わらずソファの主として微動だにせず、イチは穏やかな眼差しで店全体を見守っている。
ロンは入口へ戻ると、次の来客を待つように静かに伏せた。
森のカフェしっぽっぽには、今日も穏やかな時間が流れていた。
そしてその地下では、異世界へと続く扉が静かに主を待っている。
サトルはコーヒーを一口飲み、ふと地下への扉へ視線を向けた。
異世界でも、新しい相談者が彼を待っていることを、まだ誰も知らなかった。




