第61話 踏み出す勇気(中編)
少女は入口でしばらく立ち尽くしていた。
店の中へ入ったものの、どこへ座ればいいのか、何をすればいいのか分からない――そんな戸惑いが、肩に入った力や、リュックを抱きしめる手の強さから手に取るように伝わってくる。
サトルは、そんな少女を急かすことはしなかった。
相談に訪れる者の多くは、「話すこと」を決意するまでに、すでに大きな勇気を使い果たしている。だからこそ、この店では席に座ることさえ、その人にとっては最初の一歩になる。
みどりもまた、そのことを理解していた。
無理に「こちらへどうぞ」と促すことはしない。ただ柔らかな笑顔を浮かべたまま、少女が安心して動き出せる時間を待っていた。
店内には静かなジャズピアノが流れている。
音楽は決して自己主張をせず、珈琲の香りや木々のざわめきと溶け合いながら、穏やかな空気を作り出していた。
少女はゆっくりと店内を見回した。
窓際には丸く眠るきな。
棚の上から静かにこちらを見守るイチ。
カーテンの陰から半分だけ顔を覗かせるジル。
床ではチビがトラの尻尾を相手に遊び続け、ロンは少女から二歩ほど離れた場所で静かに伏せている。
そのどれもが、不思議なくらい自然だった。
猫たちは媚びることもなければ、無理に近付こうともしない。ただ「ここは安全な場所だ」とでも言うように、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。
その空気に触れた瞬間、少女の肩から少しだけ力が抜けた。
恐る恐る窓際の席へ歩き、静かに腰を下ろす。
その様子を見届けてから、サトルは一杯のハーブティーを淹れ始めた。
今日は珈琲ではない。
まだ緊張が強い相手には、刺激の少ない飲み物の方が向いている。
湯気とともに立ち上るのは、柑橘とカモミールが混じり合った優しい香りだった。
カップをテーブルへ置くと、サトルは短く言う。
「熱い。」
少女は小さく頷いた。
「……ありがとうございます。」
まだ視線は下を向いたままだ。
両手でカップを包み込むように持つと、立ち上る湯気を見つめながら、小さく息を吸った。
その香りだけでも、少し安心したようだった。
チビはいつの間にか少女の足元へやって来ている。
最初は少し距離を置いて座っていたが、少女が警戒しないと分かると、前足を伸ばしながらゆっくり近付いていった。
少女は恐る恐る手を差し出す。
チビはその手の匂いを一度だけ嗅ぐと、何事もなかったかのように頬を擦り寄せた。
少女の表情が少しだけ和らぐ。
その小さな変化を、サトルは見逃さなかった。
人は安心すると、まず呼吸が変わる。
浅く速かった呼吸が、少しずつ深くなり、肩の上下も穏やかになる。
言葉よりも先に、身体が「ここなら大丈夫かもしれない」と判断するのだ。
サトルはカウンターへ戻り、自分の珈琲を淹れ始めた。
相談は急ぐものではない。
話したくなれば、人は自然と口を開く。
その時間を奪わないことも、この店では大切な仕事だった。
しばらく沈黙が続いた。
聞こえるのは時計の秒針と、木々を揺らす風の音だけ。
やがて少女は、意を決したように口を開いた。
「……あの。」
「何だ。」
「ここって……何でも相談していいんですか。」
「話せる範囲でな。」
短い返事だった。
だが、その一言には「無理に全部話さなくていい」という意味も込められている。
少女は少し安心したように息を吐いた。
「私……学校へ行けなくなりました。」
その言葉は、まるで長い間胸の中へ閉じ込めていた重石を、ようやく外へ出したような響きを持っていた。
みどりは驚いた顔を見せない。
ただ静かに耳を傾ける。
少女は少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「最初は、本当に小さなことだったんです。」
「友達と少し気まずくなって……。」
「でも、そのうち教室へ入るのが怖くなって。」
「朝になると、お腹が痛くなって……。」
「玄関までは行けるんです。」
「でも……靴が履けないんです。」
言葉を話しながら、少女の手は少し震えていた。
それでも止まらなかった。
一度流れ始めた本音は、堰を切った川のように少しずつ外へ出ていく。
「親には怠けてるって思われたくなくて。」
「先生にも申し訳なくて。」
「友達にも連絡できなくて……。」
「気付いたら、一か月以上学校へ行けてません。」
少女は唇を噛んだ。
涙をこらえている。
泣きたくない。
弱いと思われたくない。
そんな気持ちが伝わってくる。
その時だった。
それまで少し離れた場所にいたジルが、ゆっくりと歩いてきた。
慎重な性格のジルが、自分から初対面の人へ近付くのは珍しい。
少女の隣へ座ると、何も言わず身体を寄せる。
少女は驚いたようにジルを見つめ、それからそっと背中を撫でた。
ジルは逃げなかった。
静かに喉を鳴らしながら、その手を受け入れている。
その温もりに触れた瞬間、少女の目から一粒の涙が零れ落ちた。
ずっと我慢していた涙だった。
サトルは何も言わない。
慰めもしない。
涙には、止めなくていい涙もあることを知っているからだ。
少女はしばらく泣き続けた。
店内には誰も急かす者はいない。
みどりも静かに見守り、猫たちもそれぞれの場所で穏やかに過ごしている。
その時間そのものが、少女にとっては「安心して泣ける場所」になっていた。
サトルは静かにカップを置き、少女の様子を見つめる。
――話は、まだ始まったばかりだった。




