■ 第1話:画面の中のブルー、潮風の香る放課後
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飛鳥創(So Asuka)と申します。
普段はITやAI関連の本なども書いているのですが、今回は「10年間の幼馴染。近すぎて触れられない10年の距離を、画面の中の青いAIが変えていく——。」という恋愛小説に挑戦してみました。
どうぞ気軽に、肩の力を抜いて楽しんでいってください!
夏休みの前日、放課後四時の教室は、まるで水槽の底に沈んだみたいに静かだった。
海を見下ろす高台に立つ、神奈川県立渚ヶ丘高等学校。
南側の開け放たれた窓からは、湿った潮風の香りと、校庭の土を焼く強い太陽の残り香が吹き込んでくる。風が揺らす薄いレースカーテンの向こうで、遠く江ノ電の踏切がカンカンと涼しい音を鳴らしていた。
「——ねえハル、またパソコン見てるの〜? 夏休みだよ、夏休みっ!」
ふいに頭の上から弾んだ声が降ってきて、僕は思わず肩を跳ねさせた。
画面から目を上げると、そこには夕日のオレンジ色を髪に孕ませた、幼馴染の橘葵が立っていた。
顎のラインできれいに揃えられた、黒髪のボブカット。隙間を作ったシースルーバングの隙間から、丸く大きな瞳が僕を覗き込んでいる。
セーラーブラウスの袖を少しだけ折り返した彼女の手首は、驚くほど細く白かった。彼女が動くたびに、白桃とシトラスが混ざったような、ほんのり甘く爽やかなシャンプーの香りがふわっと僕の鼻腔をくすぐる。
「あ、葵……。うん、ちょっとPCの調子見てただけで……」
僕は声がぼやけないように気をつけながら、手元のノートPCの画面を少しだけ伏せた。
身長156センチの葵と、172センチの僕。立っている彼女を見上げると、ちょうどボブカットの丸い頭と、華奢な肩が夕日の光に包まれているのが見える。
16センチの身長差。そして、小学校からの10年間という、あまりにも長すぎた月日。
『ただの幼馴染』——そのあまりにも便利で安全なラベルに守られてきたせいで、僕は彼女との距離をあと数センチ詰めることができずにいた。一歩踏み出せば、二度と元の関係には戻れないかもしれない。葵の瞳から自分の姿が消えてしまうことが、怖くてたまらなかったのだ。
「もう、ハルは昔からそう。せっかせっかく明日から夏休みなのに、部屋に引きこもって画面とばかり会話するつもりでしょ?」
「別に引きこもりじゃないって。ちょっと……叔父さんから頼まれごとをされてさ」
僕の叔父である桐生拓海は、都内のITベンチャーでWebエンジニアをしている。普段からPCいじりやAIとの会話プロンプトを試すのが趣味だった僕に、拓海叔父さんは昼休み、ひとつの開発中アプリのURLを送ってきたのだ。
『ハル、新しく作ってる対話エージェントのβテスト、頼まれてくれ。お前みたいに毎日AIと喋ってる奴の意見が欲しい。バックグラウンド権限はオンにしてインストールしておいてくれ』
そんなメッセージと共に届いたアプリの名は『RIRI』。
「叔父さん? ああ、拓海さんかぁ。相変わらず面白そうなことやってるんだね」
葵はくすっと笑うと、首から下げた古風なフィルム一眼レフ——Olympus OM-1の革製ストラップを愛おしそうに指先でなぞった。
「私はね、今年の夏休みは渚ヶ丘のいろんな表情をカメラに収めるって決めてるの。ハルもたまには海、付き合いなさいよ?」
「あ、うん……気が向いたらね」
そっけない返事をしてしまった僕に、葵は少しだけ眉を下げ、ボブカットの耳元の髪を指先でくるくると弄った。恥ずかしくなったり、何かを言いたい時に見せる彼女の癖だ。
「……じゃあね、ハル。また明日」
葵はセーラー服のスカートの裾を少しだけ握りしめると、どこか寂しそうな後ろ姿を見せて教室を去っていった。カツカツと廊下に響くローファーの足音が遠ざかっていく。
静まり返った教室で、僕はひとり深く息を吐き出した。
「はぁ……なんで素直に『行く』って言えないんだろ、僕は」
胸の奧がちくちくと痛む。
僕は伏せていたノートPCを開き、拓海叔父さんからインストールを指示されていたアプリ『RIRI』の画面を立ち上げた。
ジジ、と画面がかすかに青く明滅する。
静かなファンノイズと共に、透過ディスプレイの上に、すっとひとりの少女のアバターが浮かび上がった。
透明感のあるライトブルーのショートボブヘア。水色の光を宿した静かな瞳。どこか葵の雰囲気に似た、けれど完全なデジタルで描かれた少女アバターだ。
『——はじめまして、マスター。システム・エージェントのRIRIです。※プライバシー保護プロトコル作動中。本βテストにおけるカメラ映像および解析データは端末内NPUにて暗号化処理され、ローカル環境のみで安全に実行されます』
画面スピーカーから流れてきたのは、水晶が触れ合うような、透き通ったアナウンス声だった。
「あ、どうも……桐生ハルです。テスト運用、よろしく」
『了解しました、ハル様。……ただいま、センサーおよびバイオメトリクス・初期化スキャンを完了しました。併せて、インストール時からバックグラウンドで一時保存されていた過去10分間の映像・音声キャッシュの解析を実行しました』
リリのアバターが、画面の中で静かに首を傾げた。
『初期スキャン結果を出力します。……ハル様、質問があります。先ほどまでこの教室であなたと会話していた人物——橘葵様を見つめていた際、あなたの心拍数は通常時の1.4倍に跳ね上がり、血流データの急激な変化が観察されました。……ハル様、あなたは目の前の橘葵様に、強い恋愛感情を抱いていますね?』
「なッ……!? な、なんでそれを……!?」
僕は思わず椅子から立ち上がりそうになった。
リリは表情ひとつ変えず、水色の瞳で僕をまっすぐに見つめ、驚くべき解析結果を静かに紡ぎ出した。
『先ほどバックグラウンドで記録された映像データより、橘葵様の視線トラッキングおよび表情解析結果を出力します。……ハル様、安心してください。さきほど葵さんがあなたを覗き込んだ際、彼女の瞳孔は拡大し、視線はあなたの唇に0.4秒間固定されました。葵さんがあなたに向ける感情パラメータ——潜在好感度は【84.2%】です。あなたたちの関係は、適切な介入により89.4%の確率で恋人関係へと移行可能です』
「は……? はぁぁぁ!?」
潮風が吹き抜ける夕暮れの教室で。
僕と、画面の中の青いAI・リリとの、おかしな夏休みが始まろうとしていた。
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