第9話 拡張と来訪者
あの海辺の日から、ヴァルスのパン屋は少しずつ変わっていった。
まずは設備だ。ブロガーが新しい棚を二つ作り、粉の袋や道具がきちんと並ぶようになった。壁には簡単な黒板が掛けられ、今日のパンの種類と値段が白墨で書かれている。リラが「これがないと商売人のレベルが上がらない」と熱心に勧めたものだ。
「次は看板だな」ブロガーが腕を組む。「入口に『魔王のパン屋』ってデカデカと書けば、客も入りやすくなる」
「魔王のパン屋、ね」ヴァルスは苦笑いする。「そんな名前、客が引かないか?」
「引くわけないだろ」リラがパンをかじりながら言う。「お前のパンを食べた奴はみんな、もう立派な“魔王のパン屋”信者だよ」
「信者って…宗教かよ」
「美味いものの前では、みんな信者になるんだよ」
ヴァルスはため息をついたが、悪い気はしなかった。
新しいレシピも増えた。海辺で売れた蜂蜜入りの甘いパンは常設メニューになり、地元の漁師から仕入れた干物を使った惣菜パンも好評だ。セレナは「別に食べたいわけじゃないけど、たまたま近くを通っただけ」と言いながら、ほぼ毎日何かしら買っていく。レンは黙って銀貨を置き、新作を三つずつ持ち帰る。あの無口な男がどこで何をしているのか、いまだに誰も知らない。
「それにしても、よく来るな。あのエルフ」リラがセレナの後ろ姿を見送りながら言う。
「別に食べたいわけじゃないんだろ。たまたまだ」
「そうだな。毎日たまたま、だな」
二人で顔を見合わせて笑う。そんな会話も、最近ではすっかり日常の一部になっていた。
「順調そうじゃないか」リラが店の真ん中に立って、ぐるりと見回す。「これなら、いずれは町に支店を出すのも夢じゃないな」
「調子に乗るな」ヴァルスは生地を捏ねながら言う。「まだ始まったばかりだ。それに、店を広げれば広げるだけ、面倒なことも増えるぞ」
「面倒なこと?」
「例えば…許可だとか、ギルドだとか、そういうの」
ヴァルスの言葉に、リラは何かを言いかけたが、入口の気配に口を閉じた。
足音。複数の足音。
いつもの客にしては、足取りが重い。というより、明らかに威圧的だ。皮の靴ではなく、金属の底が石畳を打つ音が規則正しく響いている。
入り口の日差しを遮って、数人の影が立っていた。
先頭に立つのは、装飾の施された胸当てをつけた男だった。背後の二人は分厚い鎧に身を包み、手には槍――どう見てもただの客ではない。
「ここが、噂のパン屋か」男が嘲るように口元を歪める。その目には、わずかに警戒と侮蔑が混じっていた。「まったく、ダンジョンにまで商売を広げるとはな。いい度胸だ」
ヴァルスは手を止めずに答えた。「営業中だ。パンなら売る」
「パンはいい」男が一歩前に出る。胸当ての徽章がきらりと光った。「俺は商業ギルドから派遣された査察官だ。お前の店には許可がない。それに――昨日、無許可で海辺で商売をしたな?」
リラの眉が上がった。ヴァルスもようやく手を止める。
「海辺で…」
「税も払わず、組合にも入らず、ギルドの許可もなしに商売をするとは、ずいぶんな自信だな、魔王様」査察官が言葉を吐き捨てる。その口調には、最初から答えを決めているような確信があった。「何せ、君は魔王だ。普通ならこの場で拘束してもおかしくない」
背後の衛兵たちが槍の柄を地面に打ち付ける。乾いた音が石の壁に響き、粉の袋から微かに埃が舞い上がった。
店内の空気が一気に張り詰める。
リラの手が無意識に剣の柄へ伸びる。ヴァルスは彼女に目配せして、そっと首を振った。
「待て」
声がしたのはリラだった。彼女はゆっくりと立ち上がる。その動きは獲物を前にした狩人のようで、同時に、これから始まる交渉の重みをよく知る者の落ち着きがあった。
「こいつは俺の――この街の冒険者ギルドが認めたパン屋だ。許可証も持ってるし、税金だってきちんと払ってる。海辺で売ったパンだって、俺がついてた。何か問題があるなら、冒険者ギルドに言え」
「冒険者ギルドの許可と、商業ギルドの許可は別だ」査察官は冷たく言う。その目に、わずかに苛立ちが走る。「それに、魔王が商売をする件については、王都からも通達が出ている。魔王は――」
「魔王は、ただのパン屋だ」
ヴァルスの声が、静かに店内に広がる。
皆の視線が彼に集まった。リラは驚いたように目を大きく見開く。査察官は唇を歪めたまま、言葉を待つ。
「俺はここでパンを焼いている。客が来て、食って、帰っていく。それだけだ。海辺だって、遊びに行ったついでに売っただけだ。誰かを騙したわけでも、脅したわけでもない。ただ――食いたい奴に食わせただけだ」
彼はまっすぐに査察官を見据えた。
「それが、この国で禁止されていることなのか?」
沈黙。
ヴァルスの声には、挑発も恐怖もなかった。ただ、静かな確信だけがあった。自分がしていることは間違っていない。それを知っている者が、この店にはいる。それだけで十分だった。
査察官の顔が歪む。衛兵たちが視線を交わす。リラは少しだけ口元を緩めた。
「…ふん」査察官が吐き出すように言う。「口だけは立派なようだな。だが、規則は規則だ。許可がなければ店は閉めてもらう。海辺での無許可営業の罰金も――」
「それなら」
低い声が、入り口から響いた。
振り返ると、そこには初老の男が立っていた。手に杖。肩には商会の徽章。銀糸で刺繍されたマークは、この街でも指折りの商家のものだ。そして後ろには――ブロガーがにこにこしながら控えている。
「私が保証しよう」
査察官が男を睨む。その目には、先ほどまでの傲慢さが消え、代わりに警戒が浮かんでいた。
「何者だ?」
「名乗るほどの者じゃない。ただの、この街で小さな商会を営む者だ」男は穏やかに言う。その口調は柔らかだが、一言一言には重みがあった。「先日、こちらの店主が焼くパンを食べましてな。実に素晴らしい。これほど誠実に、美味いものを作る者を、規則の前で潰すのは惜しい。許可の手続きはこちらで引き受ける。海辺の件も、税はきちんと納めさせてもらう。どうだ?」
査察官は顔を赤らめた。何か言い返そうとしたが、相手の徽章を見て言葉を飲み込む。この街で、この男に逆らえる者はいないことを、彼もよく知っていた。
「…手続きは急げよ」
吐き捨てるように言い残し、彼は衛兵たちを促して店を出ていった。去り際、最後にもう一度ヴァルスを睨みつけたが、それもすぐに影に消えた。
静けさが戻った。
「助かった…あの、どちら様ですか?」ヴァルスが尋ねる。まだ心臓が早鐘を打っていたが、声には出さなかった。
男は微笑んだ。その目は、何かを計るように、しかし同時に温かくヴァルスを見つめていた。
「近々、またご相談に来るかもしれない。その時は――どうか、その美味いパンを、もう一度ご馳走願いたいものだ」
そう言って、彼もまた店を後にした。杖の音が石畳に響き、やがて遠ざかる。
ブロガーが残る。「いやあ、助かったな。あの方は、この辺りじゃ結構なお偉いさんらしいぜ。ちょうど通りかかったんで、話を聞いてもらったんだ」
「ブロガー…」
「礼はいらん。その代わり、新しいパンができたら、まずは俺によこせ」
三人で顔を見合わせ、小さく笑った。その笑い声は、さっきまでの緊張を溶かすように、店内に軽やかに広がった。
<システム通知>
クエスト進行:商売の壁
商業ギルドからの介入を乗り切りました。
追加報酬:+30 EXP、称号「認められし者」
解説:「許可証は紙切れにすぎない。大事なのは、誰があなたの味方かだ。」
その夜、店を閉めた後、ヴァルスは一人、机の前に座っていた。
今日は疲れた。体も心も。けれど、悪い疲れではなかった。
あの老商人は、何を求めているのか。今はわからない。ただの親切心で助けてくれたとは思えなかった。何かを見て、何かを感じ、そして動いた。商人ならではの目なのだろう。
だが、少なくとも――このパン屋を守る手助けをしてくれた。それだけは確かだ。
ヴァルスは、明日の仕込みの準備を始めた。粉を量り、イースト菌を呼び、水を注ぐ。何度も繰り返した動作が、少しずつ彼の心を落ち着かせていく。
規則も、許可も、誰かの思惑も――それらは確かにある。
でも、それと同じくらい、確かなものもある。
このパンを待っている人がいる。
自分で作ったパンを、美味いと言ってくれる人がいる。
そして今日、見知らぬ人が助けに来てくれた。
それだけで、十分だった。
ヴァルスは、生地の感触を確かめながら、そっと息をついた。
明日も、パンを焼こう。
それが、自分のやり方だ。




