第8話 休息と海の家
朝はいつも通り始まった。イースト菌、小麦粉、水、オーブンの温もり。だが今日のヴァルスの動きは、どこか鈍かった。戦い、初めての戦闘経験、新しいレシピ――すべてが彼に疲労を残していた。
「今日はなんか遅いな」リラがパン屋に顔を出す。いつものようにベンチにどっかり座り、焼きたてのパンに手を伸ばした。
「ちょっと……疲れたかもな」ヴァルスは首を回しながら認めた。「毎日焼いて、材料の在庫を管理して、戦いまでして。やりすぎかもしれない」
「それならわかった!」リラは跳び上がる。「お前には休息が必要だ。ただの石の板で寝るんじゃなくて、心からリラックスできる休息だ」
「そんなのどこにあるんだ?」
「海岸だよ!湾までなら半日もかからない。砂浜、太陽、波。仕事のことは全部忘れられる」
ヴァルスは考え込んだ。一方で、毎日のペースを楽しみにしている客のこともあった。だがもう一方で、久しぶりに体が休息を求めているのも確かだった。
「スライムたちの餌はどうするんだ?」
「一日くらい大丈夫だよ」リラは手を振った。「それに、余ってるパンを持って行かない? 海岸で売れば、休息と商売、一石二鳥だ」
ヴァルスの目に、商人の輝きが宿った。
「……それ、いいかもな」
一時間後、二人は海岸へ続く道を歩いていた。ヴァルスの背負った籠には、まだ温かいパン、甘いお菓子、数種類の蜂蜜入りパンがぎっしり詰まっている。リラはレジャーシートと水筒を担いでいた。
道のりは思いのほか楽しかった。潮風、カモメの声、遠くで聞こえる波の音。ヴァルスは久しぶりに、ただ歩いて何も考えていない自分に気づいた。小麦粉のことも、レシピのことも、明日早朝に起きなければいけないことも、頭から消えていた。
「きれいだな」彼は言った。
「湾はもっとすごいよ」リラが笑う。
湾は突然姿を現した。道が岩場から抜けると、広大な砂浜が弧を描き、青緑の海と寄り添っている。浜辺には数家族がシートを広げ、子供たちが砂の城を作り、遠くでは商人が店を開いていた。
「絵はがきみたいだ」ヴァルスは息を呑んだ。
「さあ、仕事だ!」リラは靴を脱ぎ捨てて波へ走り出す。「俺は泳いでくるから、お前は良い場所を見つけておけ!」
「……これが休息かよ」ヴァルスは毒づくが、悪態にはならなかった。
彼は人通りの多い場所にシートを広げ、一番美味しそうなパンを何個か並べた。まず子供たちが集まった。
「それ、食べてもいいの?」八歳くらいの男の子が、憧れの眼差しで蜂蜜入りのパンを見つめる。
「お金があるならな」ヴァルスは微笑んだ。
子供たちはすぐに小銭をかき集め、蜂蜜パンを奪い合うように買っていった。五分後には、彼の前には列ができていた。親たち、漁師、近くの商人までもが、この奇妙な角のある男が売っている美味いパンを確かめに来た。
「あれ、噂の地下のパン屋さんだよ」
「町のより美味いって聞いたよ」
日が傾き始めた頃、籠は空になった。ヴァルスはシートに座り、夕日が水面を金色に染めるのをぼんやりと眺めていた。疲れは消え、代わりに心地よい虚無が体を満たしていた。
「どうだった?」リラが隣に座る。まだ髪から水が滴っていた。
「悪くなかった」ヴァルスは正直に言った。「思ってたよりずっといい」
「いくら儲かった?」
ヴァルスは籠から銀貨をシートに広げた。夕日に照らされて、銀の粒がきらめく。
「数えてないけど……普段の一日よりは稼いだな」
「休息って言ったのに」リラがからかう。
「儲けも出る休息が一番だろ」ヴァルスは笑った。
二人は黙って海を眺めた。
「なあ」ヴァルスが静かに言った。「俺、まさか海辺でパンを売る日が来るなんて思わなかった。それに……パン屋になるなんて」
「じゃあ、何になりたかったんだ?」
「偉大な魔王だよ。世界を征服するとか、そういうの」彼は手を振った。「なのに今じゃ、パン屋、客、スライムの世話に、海辺の商売だ」
「で、どうなんだ?」
ヴァルスは長い間、水面を見つめていた。征服しなくても美しい夕日を。支配しなくても笑い合える人々を。奪わなくても満たされる心を。
「いいよ」彼はようやく言った。「思ってたよりずっといい」
<システム通知>
新規実績解除:海の休息
初めての海辺での休息と商売。
報酬:+20 EXP、称号「ビーチサイドベーカリー」
解説:「時には武器を置き、海風に生地をなじませるのも必要だ。利益も上がるとなお良し。」
太陽が水平線に沈みかけ、空がオレンジから紫へと移り変わる。二人は籠を抱えて帰路についた。
明日にはまた、パンが焼かれる。客が来る。スライムが餌をねだる。新しい問題も現れるだろう。
だが今夜は――ただ静かに疲れをほどく夜だ。
波の音を背中に、ヴァルスは思った。
今日はいい日だった。




