第9話:大魔術師の弟子(4)
木陰のベンチでヒルデガルトは、先ほどの自分のしたことを振り返っていた。
(うーんと、さっきのは「肉体・精神・魔力」の三要素の力の向きを逆転させる魔術、ということでいいのよね……)
通常は肉体や精神の力が一方的に魔力に流れ込むものだが、魔力制御によって魔力を肉体や精神の力に変換する……ヒルデガルトが思ったより高度な術式だった。
(それを曲がりなりにも使っていたのだから、殿下も相応の腕前をお持ちなのよね)
もちろん、より高度に扱っていたノルベルトは、ずっと優れた腕前だろう。
ヒルデガルトが勝てたのは、魔力制御の瞬発力が飛び抜けているからだ。
油断をついて差した。ただそれだけだった。次からはもう、勝てないだろう。
基盤となる肉体の強度が違い過ぎるのだから、それは当然だ。そしてヒルデガルトは、肉体を鍛えるつもりがなかった。
(でも、多少は鍛えた方がいいのかしら?)
悩ましい問題だった。マッチョにはなりたくないが、身体を鍛えることにメリットがあり過ぎる。
(でも、しかし、うーん……)
ヒルデガルトが目を瞑って頭を悩ませていると、ベンチの右側にノルベルトが腰を下ろした。
その気配に驚いたヒルデガルトが目を開け、ノルベルトの顔を見た。
「……ベルト様? あれ? 殿下はどうなさいましたの?」
ノルベルトは苦笑すると、「ヴォルフガング先生とマンツーマンで特訓中です」と答えた。
「まぁ……。課題の意味は、理解されたのかしら?」
ヒルデガルトは小首を傾げて尋ねた。
「そこは、ええ。ああもハッキリ見せていただければ、よほどの阿呆でもない限り気が付きます」
あの腕相撲は、より効率的に力を使った方が勝つ勝負だ。
相手の力を正しく読み取り、攻める時に攻め、守る時に守る。その反応速度も重要だった。
そんな魔力制御を身に着けるための課題だろう。
「殿下がその阿呆でないようで、安心しました!」
ヒルデガルトが笑うと、ノルベルトも苦笑で応えた。
笑いが収まると、ノルベルトがヒルデガルトに尋ねてきた。
「ヒルダ嬢は、まだ魔術を習い始めて間がない、と伺いました。どうやって、それほどの上達を成しえたのですか?」
ノルベルトの眼差しは真剣だ。自分がもっと上達する糸口がないか、常に探している人間の目だ。
その目を見たヒルデガルトは、少しでも力になればと言葉を探し始める。
(お役に立てるといいのだけど)
ヒルデガルトは目を瞑って、今日までの日々を思い返していた。
「そうですねぇ……私は、何も知りませんでしたし、できませんでした。ですから、基礎の基礎、できることを、とことんやりこみました。教科書を丁寧になぞり、その意味、行きつく先、そういったものに思考を向け、より洗練された基礎を作り上げてきた。もちろん、解らないことがあれば、お父様にすぐ質問しておりますけれどね?」
くすくすとヒルデガルトが笑うと、ノルベルトは妙に納得したように頷いていた。
「確かに、ヒルダ嬢の基礎は人並外れて洗練されています。そこまでの技術、熟練の魔術師ですらどれだけの人間が持ち合わせているのか。私も、まだまだ基礎を侮っていたようです。お恥ずかしい」
(褒め過ぎじゃない?)
ヒルデガルトは両手を振って否定した。
「そんな! ベルト様は充分な実力を備えた方だと感じておりましてよ? それに、わたくしたち、まだまだ若輩者。これから伸びればいいだけの話ではありませんか! ――ところで」
(さっきから、ずっと気になっていたのだけど)
「途中まで”ヒルダ”と呼び捨てにしておられたのに、いつのまに”ヒルダ嬢”になったんですの?」
ノルベルトは一瞬、きょとんとした後、自嘲するように目を伏せた。
「尊敬に値する人物を呼び捨てにするなど、私にはできかねますので」
(尊敬……尊敬?)
ヒルデガルトはきょとん、としたまま尋ねた。
「あら、わたくし、なにかいたしまして? 勝負の事でしたら、次からはもう勝ち目はないと思っておりますけれど。あれは一度きりの奇襲戦法。二度は通じませんでしょう?」
ノルベルトが伏せた目を上げ、ヒルデガルトの目を見ながら言う。
「圧倒的なフィジカルと経験の差。この条件下であなたが勝つ道は、あれ以外になかったでしょう。最初からすべてを見通し、勝利を確実にもぎ取っていった。勝利した後も、当然のように微笑んでいた。己が磨き上げた唯一の武器を信頼していた――いや違う、その武器に迷いなく命を預けられるほどの鍛錬を、日常的に行っていた。勝敗を分けたのは、日頃の研鑽に対する真摯な姿勢です。私は、あなたほど真摯に臨んでいなかった。それを痛感しました」
(べた褒めじゃない……そこまで言われると、さすがに照れる)
ヒルデガルトが真っ赤になりながらその言葉を否定した。
「いえあの……わたくしは毎日、自分にできることを必死にこなしているだけですので……」
ヒルデガルトがぱたぱたと手のひらで顔を扇いでいるが、その顔から熱が引く様子はない。
そんな彼女の横顔を、ノルベルトはじっと見つめている。
(ちょっとやめて欲しい。熱が上がる……)
「あなたの瞳は、とても美しいですね」
(えっ)
その想いと同時に、言いようのない虚無感がヒルデガルトの心を占めた。
孤児院からこちら、ヒルデガルトの目に触れる人間はほとんどいなかった。
精霊眼であること自体を口に乗せることはあったが、目の美醜を形容する人間はいなかった。
ヒルデガルトは俯き、苦笑を浮かべながら、呟くように言葉を返す。
「――精霊眼、というらしいです。宝石のようで、綺麗ですよね」
今の心を映すような、空虚な言葉だった。
ヒルデガルトはこの眼が未だに自分のものだという実感が湧かなかった。
だから、それを褒められても、どう反応していいのかわからないのだ。
だがそのヒルデガルトの言葉が意外なものだったかのようにノルベルトが言葉を返す。
「え? いえ、違います。あなたの右目の事ですよ」
ヒルデガルトは今度こそ本当にびっくりして、ノルベルトの瞳を見つめた。
(――右目? 左目の精霊眼じゃなく? どういう意味なの?)
ノルベルトは、優しい微笑みを浮かべて自分の心を述べた。
「あなたの右目は、とても表情豊かだ。どこか超常的な空気を纏った左目と違って、右目からはあなたの心がよく見えます。だから、あなたの心の美しさも、右の瞳に確かに映し出されています。こう言っては失礼かもしれませんが、私はあなたの右目が精霊眼でないことに、喜びすら感じているのですよ」
(喜び……そんなこと、自分ですら思ったことがなかったのに)
ポロリ、とヒルデガルトの両目から涙が溢れていた。
それを見たノルベルトが取り乱してハンカチを探し出す。
「あの、ヒルダ嬢? 申し訳ありません、言葉が過ぎました! どうかお許しを!」
慌ててハンカチをヒルデガルトに差し出してくるノルベルトを、彼女はきょとんと見た。
「――あら? わたくし、もしかして泣いているのかしら?」
頬を伝う涙の感触で、ようやくヒルデガルトは泣いている事を自覚した。ノルベルトのハンカチを受け取り、涙を拭う。
「あなたの心を傷つけるような言葉を述べたこと、深く反省いたします! ですからどうぞ泣かないでください!」
わたわたとヒルデガルトを気遣うノルベルトを見て、泣きながら彼女はくすくすと笑っていた。
その不思議な光景に、ノルベルトは戸惑った。
「――ヒルダ嬢?」
「いえ、これは多分、嬉し涙です。わたくしは、右目が残っていて良かった、などと考えたことすらなかったのに。”何故変わってしまったのか”とか、”どうして両方変わらなかったのか”とは考えましたけどね。でも、そうですよね。この身体は両親が残してくれたかけがえのないもの。その右目が残ってくれているのは、喜ばしいことのはずですものね」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。名前すら孤児院で付けられたヒルデガルトにとって、この五体こそが、両親と自分を繋ぐ唯一無二のものなのだ。
ヒルデガルトは精一杯の微笑みで、ノルベルトにお礼を言う。
「ありがとうございますベルト様。私はうっかり、大切なものを見落とすところでした。私はこれからも、この右目を大切にして生きていきたいと思います」
涙も止まり、ヒルデガルドは己の中から活力が湧いてくることを自覚した。
(なんだか元気が出てきた!)
「ではわたくしも、鍛錬に戻りますね」
ノルベルトにハンカチを返すと、ヒルデガルドは頭を下げてから砂時計の元へ小走りに駆けていった。
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ノルベルトは、走り去っていく少女の姿を見つめていた。
右手が、彼女の涙を吸ったハンカチを握りしめている。
(ありがとう、と言われた)
私の言葉が、涙が出るほど嬉しかったのだと、彼女は言った。この身体は、両親が残したかけがえのないものだと。
(孤児だと聞いていた。まさか、両親縁のものは一切ないのか)
瞳が美しい、と思ったのは心からの言葉だった。
女性に対して、あのようなことを言ったのも初めてだったし、思ったこともなかった。
ただ、彼女の姿を見ていたら、自然と口から言葉が出ていた。
(守りたい、そう思った。だが、彼女の内面は俺とは比べるのが烏滸がましいほど強く逞しいだろう)
それでも男として、彼女を守りたいと、強く願った。願ってしまった。
婚約者の居る身だ。こんな想いは、当然許されるはずがなかった。
(この想いに、蓋をせずに済むのであれば……その時、自分はどういう行動に出るのだろうか)
それはまだ、ノルベルト本人にもわからなかった。
遠く、小さく研鑽に励む彼女の姿を、ノルベルトはしばらく見つめていた。
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夕食の席で、ヒルデガルドはフランツ王子の首尾をヴォルフガングに聞いた。
「お父様、殿下の進捗はどの程度進まれましたか?」
ワインを傾け、楽しそうにヴォルフガングは微笑む。
「そうだね。しっかりと課題の意味を理解しようと努め、魔力制御の鍛錬に本腰を入れるようになったよ。今までずっと、退屈そうに手を抜いていたからね。とても良い傾向だ」
「それでマンツーマンで教えていらしたのですね……あら、そうすると、ベルト様は自習と言うことになるのかしら」
ヒルデガルドは小首を傾げて呟いた。
だがヴォルフガングが別の提案をする。
「ノルベルトは自習でも構わないだろうが、お前が鍛錬の相手を務めてもいいんじゃないかな。フィジカルを使わない方法であれば、まだまだお前に一日の長があるだろう。お前としても、そろそろ相手のいる駆け引きを覚えてもいい頃合いだからね」
(確かに、ベルト様が相手ならば魔力制御勝負は面白いことになりそうね)
「おや? 思ったよりも乗り気だね? じゃあ決まりだ。しばらくは私と殿下がマンツーマン、お前とノルベルトがペアで鍛錬、ジュリアスはまだしばらく砂時計の自己鍛錬が続くだろうね。お前に追いつくまで三か月、といったところか」
ヒルデガルドの表情を見たヴォルフガングが、今後の予定を口にした。
(――ちょっとまって?)
「ええっ! 三か月でジュリアス様が今の私に追いつくのですか?!」
ヒルデガルドは驚いて声を上げていた。
あの日の伸び具合では、三か月よりも多くの時間が必要に思われたのだ。
「言っただろう? 彼は魔術の天才だ、と。驕りを捨て、真摯に取り組めばお前に勝るとも劣らない伸びを見せる。油断をしていれば、簡単に抜かされてしまうよ?」
弟子たちの伸びしろに思いを馳せ、ヴォルフガングは実に楽しそうな笑顔になる。
「……結局三人とも、私をダシに使って計算通りに仕向けましたわね」
ヴォルフガングがワインを傾けながら、ニヤリと長し目をヒルデガルドに寄越した。
(もしかすると、私自身も計算通りに動かされているんじゃないかしら)
「お前はいつも、私の想定を超えて動いているよ。百点を期待すれば百二十点を出してくる。お前はそんな子だ。これからも、私を驚かせておくれ」
(だからお父様、心を読んで返事をするの、やめて……)
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「ふぅ。今日は本当に疲れました」
ヒルデガルドは珍しく講義の復習もせず、お風呂上りにベッドに大の字になっていた。
「お嬢様がそこまでお疲れになるだなんて、珍しいですね。今日のお二人はどんな感想をお持ちになられましたか?」
ウルリケがミルクティーを手渡し、ヒルデガルドは上半身を起こして受け取った。
「そうねぇ……殿下は、まだまだお子様ね。でも光るものもお持ちだわ。周りを確かな人物で固めれば、次代も安心できる、といったところかしら」
ヒルデガルドはフランツ王子に王の器を感じていた。お子様から脱却すれば、彼は良い王になると確信できた。やや危ういところは周囲が支えればいいだけの話だ。
ミルクティーを口に含み、喉を潤した。甘い香りが彼女の疲れを癒していった。
一息ついているヒルデガルトを見ながら、ウルリケも意見を述べる。
「それについては心配がないと思いますよ。殿下の婚約者はクラウディア様ですから。あの方が手綱を握る限り、道を間違えることはないと確信できます」
ヒルデガルトの動きが止まった。
「ええっ! クラウと殿下、婚約者なの?!」
ヒルデガルトはミルクティーを零しそうになりながら起き上がった。
ウルリケは冷静に受け応える。
「高位貴族は早いうちから婚約を結ぶことが多いのです。ヴィンケルマン公爵家は家格も申し分なく、当時からクラウディア様は評判のご令嬢でした。同世代で並ぶものはいらっしゃいませんので、必然的に殿下とご婚約を結ばれることになりました」
お茶会でも出たことのない話題に、ヒルデガルトは愕然としていた。
是非今度、クラウディアから直接聞きだしてやろうと内心決意していた。
「……あら? ということは、わたくし、次代の国王陛下と同門で、次代の王妃殿下とご友人、ということになるのかしら? あら? え? 嘘?」
ヒルデガルトは、ほんの二か月前まで、ただの孤児として孤児院住まいだった。
今では伯爵令嬢として伯爵邸に住み、未来の王や王妃と縁を結んだ人間となっている。
人生とは何があるか分からないものである。
そんな呆けているヒルデガルトを見たウルリケは、苦笑いを隠し切れないようだ。
「嘘ではございません。お嬢様は、逸材が豊富な世代のお生まれですので、様々な縁が重なり、そういうこととなりました。特等級魔術師のジュリアス様が同世代におられるのも、かなりの奇跡だと思いますよ?」
特等級は極稀にしか生まれない。
同世代に二人もいるなど、相当に珍しいことだろう。
「そもそも、お嬢様自身が精霊眼という稀有な体質を持っておいでです。お嬢様の世代は、黄金世代として後世に語り継がれてもおかしくはないのですよ」
ヴォルフガングの弟子も同世代が三人だ。
それにクラウディアが認める友であるルイーゼ、エミリ、アストリッドも、クラウディアが認める以上、優秀な人材であることは確実だった。
ヒルデガルトもそこに並ぶのである。言いようのないプレッシャーを感じていた。
「――あら? そういえば。ベルト様は、ウルリケから見てどんな方なの?」
ヒルデガルトは、ウルリケの口からノルベルトの名前が上がらなかったことに気が付いた。彼とてヴォルフガングの弟子の一人なのだが。
ウルリケは少し困った顔をしながら寸評を述べた。
「実直で誠実、騎士を絵に描いたような方ですね。成長すれば、近衛騎士や騎士団長も夢ではないでしょう」
次の言葉を待ったが、ウルリケの寸評はそこで終わっていた。
ヒルデガルトは不服に思う表情を隠す様子もなく、不満をあらわにした。
「うーん、あんなに人柄も素晴らしい方だというのに、華々しさに欠けるのかしら。学院でもおモテになりそうな美男子ですのに」
「第一印象でリードしているのは、ノルベルト様なのですね……」
というウルリケの呟きは、またしてもヒルデガルトの耳を素通りしていった。




