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第5話:はじめてのお茶会(2)

 その後すぐ三人の貴族令嬢が合流し、ヒルデガルトたちは伯爵邸の庭に移動した。


 ガゼボに五人で座り、テーブルを取り囲む。



 ヴォルフガングたちはガゼボからわずかに離れたところでテーブルを囲んでいる。


 お互い、少し大きな声を出せば聞こえるくらいの距離だ。




 クラウディアは他の三人と友人らしく、代表してヒルデガルトに三人を紹介した。


「改めて私から紹介するわね。こちらがルイーゼ、エミリ、そしてアストリッドよ」


 ヒルデガルトは、クラウディアに名前を呼ばれた順に相手と礼を交わしていく。




(うーん、クラウは飛び抜けてお姫様だけど、他の三人も綺麗だなぁ……さすが高位貴族のご令嬢)


 ヒルデガルトは、自分一人が垢抜けないような気がして気後れしていた。


(だけどここで引いてはいけない。社交場は戦場だと教わったのだから!)


 初めての社交場で、ちょっとズレた覚悟をヒルデガルトは持っていた。


 今回は別に、戦場ではない。



「クラウが友人と認めた方なら、私たちとも友人よ。仲良くしましょうね」


 にこりと笑ったのがルイーゼだ。大人びていて、とても十五歳には見えない。


「それにしても、初対面でクラウが認めるなんて、珍しいこともあるものね。この人見知りが」


 クッキーをちまちま口に運んでいるのがエミリだ。こちらはルイーゼとは逆に、幼い印象で十五歳には見えない少女だ。


「それも、貴族になってまだ一か月なんだって? よくまぁクラウがそこまで気を許したね」


 少し口調が荒っぽいのがアストリッドだ。姉御肌、という感じだろうか。



「ルイーゼ様、エミリ様、アストリッド様……いえ、わたくしも驚いて居まして……夢じゃないかと、まだ疑っているくらいなんです」


 ヒルデガルトは、はにかみながら三人に応えた。


 彼女は紅茶を口にしていたが、その味も判らないだろう程に緊張しているのが見て取れるくらいだった。


 本人は気付いていないが、ティーカップを持つ手も小刻みに震えていた。



 それを見てルイーゼが愛おしそうに言葉を発する。


「あら、可愛らしい。クラウにもこれくらいの可愛げがあったらいいのにねぇ」


(可愛げ、とは。クラウディアになかったら、他の誰にあるの?)


「ルイズ? 口が過ぎると後で後悔するわよ?」


 儚げな笑みを浮かべたクラウディアは、しかしどこか圧を感じる笑みだった。


「ヒルデガルト様、今の、ご覧になった? クラウの本性はね、すっごく怖い子なのよ?」


 エミリが言い終わると同時に、クラウディアの顔(だけ)がグリンとエミリに向いた。


(あれ? なんか怖い?)


「ねぇエマ? 先日の夜会で、豚子爵からあなたを守ってあげたのは誰だったかしら? 覚えてらっしゃる?」


 ”豚子爵”という強烈な単語がヒルデガルトの耳に飛び込んできた。


(今、クラウの口から、聞いてはいけない単語が飛び出たような気がする)


 ヒルデガルトは俄かには信じられず、”気のせいだろう”と思うことにした。


「感謝してるってばー。あの豚しつこいんですもの。人間の言葉が通じない相手ほど困ることはないわね」


 辟易したように両手を広げるエミリ。余程しつこかったのだろう。


「その人間の言葉が通じない豚の相手を私、一時間もしてあげたのよ? ちゃんとお返しはしてもらいますからね?」


 またしてもクラウディアの口から聞いてはいけない単語が飛び出た。


「何言ってんのよ。その後、自分の親衛隊にそれとなく匂わせて豚を制裁してたの、知ってるんだから」


(Oh……神様、これは私、聞いていてもいい会話なのでしょうか?)



 ヒルデガルトが自分の耳を信じられずに呆けていると、エミリがくすくすと笑いだした。


「ほーらー。ヒルデガルト様、困っちゃってるじゃない。初心者なんだからもう少し加減してあげましょう?」


 エミリの気遣った言葉にヒルデガルトはハッと我に返り、「あの、私のことはヒルダとお呼びください」と口走っていた。


(あれ? 私今、何を口走った?!)


 ヒルデガルトは完全に混乱していた。


 顔を真っ赤にし、手がわたわたと忙しなく動く。なんとか場を取り繕おうと必死になっていたが、言葉を続けることができない。



 クラウディアたち四人は顔を見合わせ、にんまり笑うと、ヒルデガルトに振り向いて各々が自分の顔を指差しだした。


「私はルイズ」


「私はエマ」


「私はリッド」


「そして、私がクラウよ。私たち、いい友人になれそうじゃない?」


 クラウディアのその微笑みを見て「まるで新しいおもちゃを手に入れたような笑みだな」と、ヒルデガルトは思っていた。


 新しいおもちゃとはつまり、ヒルデガルト本人である。


(――そうか、それが本性なのか)


 今まで儚い微笑みに見えていた。だがその裏にある本性をヒルデガルトは痛感したのだ。


 ヒルデガルトは”クラウディアには逆らわないでおこう”と心に刻んでいた。




 ヒルデガルトは乾いた笑いをあげながら紅茶を一口飲み、深呼吸をした。


(飲まれてはいけない。ここは戦場ここは戦場……)


 ヒルデガルトは相変わらず、戦場の意味を理解していなかった。


 その肩からはまだ、力が抜けていない。



「ねぇヒルダ。あなた、私たちと同い年だったわよね?」


 クラウディアに問いかけられ、ヒルデガルトは頷いた。


 この場に居る五人全員が今年で十五歳になると記憶していた。


「グランツ中央魔術学院には春から通うことになります。私は初年度からカリキュラムを受けるので、みなさまとは学年が異なると思いますけれど……」



 ヒルデガルトたちの会話が聞こえていたのか、隣の席からヴォルフガングが声をかけてきた。


「ヒルダ、お前は編入だ。五人とも同学年だよ!」


(……はい?)


 今年十五歳になるクラウディアたちは二年目のカリキュラム中で、春から三年生だ。


 一方ヒルデガルトは入学前で、まだ一切のカリキュラムを受けていない。


(それってつまり、いきなり最終学年のカリキュラムを受けろと?!)


「お父様? そんなこと初めて耳にしましたが? わたくし、まだ一週間しかお父様から魔術を教わっていません」


 ヒルデガルトは呆然とした顔でヴォルフガングに問い返した。


 今から最終学年に間に合うようにするなど、さすがにスパルタが過ぎるだろう。


 クラウディアが硬い表情でヴォルフガングに疑問を呈する。


「ヴォルフガング様、それはさすがに無謀じゃありませんこと?」


 クラウディアの言い分は尤もだ。普通ならそう考える。いや、無謀ですらない何かだ。


 他の三人も同じ気持ちなのだろう。ヴォルフガングを見る表情は硬いものだった。



 ヴォルフガングが他の四人を引き連れながらガゼボにやってきて、ヒルデガルトの肩を叩いた。


「ヒルダ、アレをみんなに見せてごらん。納得してもらえるはずだ」


(アレって、最近練習していたアレのことかな……)


「まだ、人様にお見せするようなものではないと思うのですが?」


 ヒルデガルトは抗議の目でヴォルフガングを見たが、にこにこと楽し気なヴォルフガングは聞いてくれそうになかった。


(……仕方ない、やるか)


 ヒルデガルトは覚悟を決めた。


 彼女一人がガゼボから少し離れ、芝の上に立ち、皆に振り向いた。


 深呼吸をし、心を鎮める――集中し、風のない湖面のような心を取り戻す。


 ヒルデガルトは手を真横に伸ばし、その手の中に火を生み出す――そのまま手のひらから、芝の上に火を落とした。


 火はみるみる大きくなり、ヒルデガルトと同じ大きさに広がった後、そのままもう一人のヒルデガルトとなった。


 その姿は、今着ている服も一糸違わず再現している。


 そこにはまったく同じ姿をした二人のヒルデガルトが並んでいた。



 二人のヒルデガルトは淑女の笑みを浮かべ、ゆっくりと淑女の礼の動作を行う。


 そのままゆっくりと顔を上げ――その途中で片方のヒルデガルトは火に戻り、立ち消えてしまった。


「あー……やっぱりまだ、持続時間がたりませんわね」


 魔力が尽きて魔術が中断したわけではない。この魔術は制御がとても難しいのだ。


 自転車を練習中の子供のようなもの――まだヒルデガルトは最後まで走り切ることができていない。



 己の未熟さを改めて思い知ったヒルデガルトは、ため息をついてから皆の所へ戻ろうとした。


 だが、ヴォルフガング以外の皆が呆けているのを見て、思わず足が止まっていた。


(まだ続きがあると思われてる?)


「……あの、以上です。申し訳ありません。まだまだ未熟でして」


 ヒルデガルトは真っ赤になり俯いていた。


 これ以上のものを期待されたと思い、それに至らぬ自分を恥じていた。



 辺りに沈黙が続いた。誰も言葉を発しようとしなかった。


 ヒルデガルト以外が呆然自失している中、ただ一人ヴォルフガングだけが得意げに笑っていた。



 気まずい沈黙を破ったのは、クラウディアだった。


「今のは、ヒルダの魔術ですの?」


 ヴォルフガングがクラウディアに応える。


「ああそうだよ。三日前から練習を初めて、今はまだこの段階だ」


「”今は”?! ”まだ”?! っていうか三日?!」


 クラウディアらしくない声と口調に驚き、ヒルデガルトが思わず顔を上げた。


 クラウディアの発言と同時に、ヴィンケルマン公爵がヴォルフガングに詰め寄っていた。


「今のはお前の『蜃気楼』ではないのか? 魔法だろう?! 孤児の養子に魔法を教える魔術師がどこにいる?!」




 魔術師に取っての魔法、それは門外不出の魔術。一族以外には伝える事がないものだ。なので、”秘儀”や”秘術”とも呼ばれる。


 魔法を伝える家系も、そう多い訳ではない。


 さっきヒルデガルトが披露したものは、ヴォルフガングが編み出したファルケンシュタイン公爵家の魔法『蜃気楼』だ。ヴォルフガングの代名詞である。


 本来魔法はおいそれと他人に見せるものではないのだが、ヴォルフガングは自分が編み出した魔法を見せつけるように現役時代から使ってきた。


 故に、ファルケンシュタイン公爵家以外の多くの人間がその存在を知っているという、珍しい魔法だった。




「目の前にいるだろう? それに、私以外には一族の誰も使えないものだ。使えるものに伝えて何が悪い――それと、ヒルダはれっきとした私の娘だ。訂正してくれないか」


 ヴォルフガングはやや不機嫌そうにヴィンケルマン公爵を睨みつけた。ヒルデガルトを”孤児の養子”と蔑んだ事に怒りを覚えているようだった。


(いえあの、孤児なのも養子なのも事実ですから、どうか落ち着いてください……)


 ヒルデガルトは必死に目で訴えたが、ヴォルフガングに伝わった様子はない。


 ヴィンケルマン公爵はヴォルフガングに睨みつけられ「すまん、興奮して言葉が過ぎた」と、ヒルデガルトとヴォルフガングに頭を下げ、謝罪を口にした。



「だが、いくら才能があると言っても、魔術歴一週間の初心者にあのような消耗の激しい魔術を教えるなど、貴公らしくない判断だぞ。こんなことをさせていたら命がいくつあっても足りん」


 ヒルデガルトを見るヴィンケルマン公爵の目は、心から彼女を慮るものだった。


(――杞憂であることをお見せしなければ!)



 ヒルデガルトはヴィンケルマン公爵に笑みを返した。


「大丈夫です公爵様。一度の持続時間がまだ短いだけですし、動かさなければ、もっとずっと長く持続させることはできていますから――ほら」


 ヒルデガルトは再び炎で自分を形作った――今回は直立不動の『蜃気楼』だ。


「こうして動かさない状態であれば、最大一時間は持続できます――自分と同期して動かすのは、とても難しいんですよね。なかなかお父様のようには巧くできなくて」




 ヴォルフガングは自分と同じ動きをする『蜃気楼』を四人以上作ってみせていた。バラバラに自律行動させたり、まさに自由自在だ。


 特等級の魔力を生かして、消耗が著しく激しい複数の自律行動型ですら持続時間は数十分に及ぶ。


 ヒルデガルトは、自分がまだその足元にも及んでいない事を痛感している。




「ねぇヒルダ、少し触ってみても大丈夫かしら?」


 クラウディアが恐る恐る、ヒルデガルトの作り出した『蜃気楼』に近づいていく――興味津々の様だ。


「ええ、大丈夫です。触っても火傷なんてしませんから、安心してください」


 クラウディアの手が伸びた先は……『蜃気楼』の頬っぺただった。


 無遠慮にひっつかみ、思い切り横に引き伸ばしている。


(うーんダイナミック)


「凄いわヒルダ! まるであなたの頬を実際に引っ張ってるみたい!」


(いえあなた、私の頬っぺたを引っ張った経験、ありませんよね?)



 アストリッドは『蜃気楼』の水月に肘鉄を何度も突きこんでいる。


「すごい、本物の感触がする!」


(……いえ、私はあなたから水月に肘鉄を食らった覚えはないんですけれど? 本物っていったい?)



「わー、ちゃんと布の感触がするー!」


 エミリは『蜃気楼』のスカートをばっさばっさとめくっていた――ヴォルフガングたちはその反対側に居るから中身は見えないが、公衆の面前で淑女のスカートがめくれあがっている。中々に”はしたない”絵面だ。


(さすがに恥ずかしすぎるんですが?)



 ちなみにルイーゼは、クラウディアたち三人より少し離れた場所から静かに見守っていた。


 見た目通り、一番大人なのだろう。




 三人の狼藉が留まることを知らずに続くので、さすがにヒルデガルトも我慢の限界に達した。


「――ッ!」


 彼女がパチン、と指を鳴らすと、『蜃気楼』は瞬く間にヒルデガルトからクラウディアの姿に変わった。


「あら」

「ゲッ!」

「やだ!」


 三者三様の声が上がる。


 自分の頬を引っ張るクラウディア。


 クラウディアの水月に肘鉄をいれるアストリッド


 クラウディアのスカートをめくり続けるエミリ。


「「うわっ! こわっ!」」


 エミリとアストリッドはすかさず後ずさりをした。二人とも中々俊敏らしい。青い顔で具合が悪そうにしている。


 おそらく「クラウディアにこんなことをしたら、後が怖い」と思っているのだろう。



「私の頬、こんなに伸びるのね!」


 気にせず頬をぐにぐにと全力でひっぱり続けるクラウディアは、他の二人と違う大物ぶりを発揮していた。


 その姿にヒルデガルトは驚き、呆然と眺めていた。





****


 ヴォルフガングたちは、じゃれあう娘たちを遠くから眺めていた。




「今日会ったばかりの人間を、あそこまで模倣するか――ヴォルフガングよ、貴公の若いころにアレができたか?」


 シャーヴァン辺境伯がヴォルフガングに問いかけた。


「愚問だな。あれは私が全盛期に発案し、晩年にかけて完成させた私の集大成だ。ヒルダぐらいの年に使えるわけがなかろう――私と同等の教師に師事していれば、あるいは使えたかもわからんがな。だが、あの子を最終学年に編入させるには十分な実力だろう?」


 ヴォルフガングは得意げに笑った。二年程度の遅れは既に、この一週間で取り返すどころか追い越している。最終学年のカリキュラムすら霞む成果だ。


 ヴォルフガングにとっても、これは嬉しい誤算だった。



「精霊眼、か。片目だけであれだけの芸当ができるのだ。もしも両目だったら、と思うと惜しいな」


 レーカー侯爵の視線はヒルデガルトの右目を見ていた。


 片目ですら特等級、両目だったなら計り知れない魔力を持っていた可能性があるのだ。



「なに、体質ならば仕方あるまい。それより、よくぞあれだけの逸材を逃さず確保できたな。だが今後が問題になるやもしれん」


 ヴィンケルマン公爵が憂いた目で、じゃれあう娘たちを眺めた。



 かつて、近隣諸国でも並び立つ者がいないとまで称された魔術師が、英才教育を施している結婚適齢期間近の貴族令嬢である。しかもその魔力は特等級――己の派閥に組み込もうとする魑魅魍魎は後を絶たないだろう。


 その実力の前に、孤児の平民上がりなどという彼女の来歴はなんの障害にもならない。


 俗物共が彼女を蹂躙するのが、彼らには容易に想像できた。



「そのために貴公らと彼女らに顔見せをしたのだ。あの子が他国へ逃げ出す破目にならぬよう、我々も目を光らせておかねばならん――なにせ、あの子の譲れない夢は、恋愛結婚の末の幸福な家庭、だからな」


「それはそれは……随分と苦難の道を選んだものだ」


 誰かの発した言葉だが、想いは同じだった。


 ヒルデガルトの境遇でそれを望むには、数多あまたの障害が待ち受けていることだろう。




 大人たちが見守る中、子供たちは飽きることなくじゃれ合い続けていた。





****


「はああああああ。やっと終わりましたわ……」




 ヒルデガルトは四家族を見送った後、サロンのソファで潰れていた。気疲れである。



(友達を一気に四人も作れたのはいいんだけど、格上過ぎたわ……)


 国内の実力トップ集団、そしてその子供たちである。


 その発言権や影響力は、ヒルデガルトの想像の外だ。


「お父様……お恨み申し上げますわ……」



「何がだい? 無事やり通せたじゃないか」


 ヒルデガルトの心労を、何もわかっていなさそうな口ぶりでヴォルフガングは笑った。


(もう少し私の気持ちも考えて欲しいな……スパルタにも程があるわよ?)



「先月まで孤児院に居た子供に、突然、高位貴族相手のお茶会をやり通せ、というのが無茶だと申し上げているのです。わたくし寿命がどれほど縮んだことか」


 はぁ、とため息を吐いて起き上がり、ヒルデガルトは紅茶で喉を潤した。


 やっと味わうことのできた紅茶は、随分久しぶりに飲んだような錯覚さえ覚えていた。



「それに、学院に編入するというのも初耳です。遅れている分を、どうやって取り戻すおつもりなんですか?」


 ヒルデガルトが、じとーっとした視線でヴォルフガングを刺し貫く。だがヴォルフガングはまるで意に介していない。



「魔術においては、むしろお前の方が進んでいるから安心しなさい。他の教科についても、これから三か月でお釣りがくるとも」


 ヴォルフガングはにこにこと上機嫌だ。


 一方、ヒルデガルトはこれから自分の身に降りかかる苦労を思い、どんよりとした表情をしている。


 魔術だけ先を進んでいても、他の教養科目がある。三か月で二年分のカリキュラムを突破しなければならない。


 また寝不足の日々がやってくるだろう。



「お前はまだ気が付いていないのかい?」


「なにがですか?」


「あれほど気にしていた所作について、誰一人突っ込んでこなかっただろう?」


 ヒルデガルトがきょとんとした。


 ヒルデガルトの所作について、あの場に居た誰もが咎めることをしなかった。つまり、ヒルデガルトはマナー違反を犯さなかったのだ。


「確かにそうですわね……」


「傍から見ていても、お前たち五人は問題なく貴族令嬢の一団として見えていたよ。あれだけの高位貴族の中に混じることができた、というだけで、もう十分すぎるというのが少しは理解できたかな?」


「ええ、まぁ……そうですわね。ようやく少しだけ実感が湧きました」



 ヒルデガルトは渋々と認めた。


 客観的に見て、所作の出来栄えは満点以上だったろう。


 おそらくルイーゼ以上、クラウディア未満、今後の研鑽次第ではクラウディアに匹敵するのではないか。そのくらい上品な振る舞いができていた。


 ヒルデガルト本人はそこまで自覚はないが、一番大雑把だったアストリッドよりは上品に振る舞えたとは思っていた。



「所作は問題なく、国内や周辺諸国の知識もぼちぼち及第点と言える――後者は、教師を付けていなかったのだから仕方がないことだね。急いで手配するとしよう。教師がつけば、お前の事だ。睡眠時間を削るまでもなく、足りない分を補えるだろう」


 確かに無理をする必要はない。


 そして望外の友人たちまで得た。




「お父様、どこまで計算に入れてらしたんですの?」


「なんのことだい?」


 人の悪い笑みを浮かべたまま、ヴォルフガングはとぼけた。


(……まったくこの人は)


 ヒルデガルトは大きくため息を吐いた。


「つまり、大成功に終わった、ということでよろしいのかしら?」


 人の悪い笑みのまま、ヴォルフガングはそれを認めた。


「そうだね。概ね思った通りだ。だが、お前に親しい友人ができたのは、私の計算外だよ?」


「そうでしたの? 全部計算通りかと思っていましたが」


 ヒルデガルトはきょとんとして聞き返した。


「クラウディア嬢はね。ああ見えてとても人見知りなんだ。あまり親しい友人を作る方ではない。懐に入れる人間を吟味するタイプの人間、と言った方がいいかもしれないね。あの短時間で彼女のお眼鏡にかなったのは、すべてお前の力に拠るところだよ」



 クラウディアは懐に入れてもいいか、相手の資質を厳しく査定するタイプの人間だ。


 余程その人間を認めない限り、”友”と呼ばない。


 彼女が友人と呼ぶのは、今日集った三人くらいだった。


 彼女たちにだけは、クラウディアは素の自分をさらけ出していた。


 今日、ヒルデガルトはその仲間に入れてもらえたのだ。


 クラウディアが心を開いたからこそ、他の三人もヒルデガルトに心を開いた。


 彼女が心を開くというのは、それだけ意味と価値があることなのだ。



「私はせいぜい、お前の事を彼女たちに認知させるだけで終わるだろうと思っていたからね。クラウディア嬢が今日、お前の味方になってくれたのは、とても頼もしいことだ。もっと時間がかかると思っていたからね」


 ヴォルフガングは、近いうちにクラウディアが味方になる、という計算をしていた。ここまで見てきたヒルデガルトの資質は、クラウディアの査定に耐えられるものだと判断したのだ。


 だがヒルデガルトは、孤児院育ちの自分のどこにそんな価値があるのか、全く理解できず、小首を傾げていた。


「ふふふ……私の親しい友人たちはね。人を上辺で判断することはない。その人間の真価を見抜ける者たちだ。もちろん、その子供たちも同じように育てられている。人を見る目がなければ、上に立つ資格がないからね。必然的に磨かれるべき能力だ――上に立つ者すべてがそうであればよいのだけれどね」



 今日、ヴォルフガングが招待したのは相手の真価を見抜ける人間たちだった。


 人の上に立つべくして立つ人間たち――それがたまたま高位貴族だっただけだ。


 或いはそれは、高位貴族として当然の能力とも言えただろう。


 彼ら、そして彼女らは、日々弛まぬ研鑽を続けるヒルデガルトに人間的価値を見出したのだ。



「……お心遣い、感謝いたします。お父様」


 ヒルデガルトは姿勢を正し、改めてヴォルフガングに頭を下げた。


 今日一日だけで、ヒルデガルトは自分の確かな立場を作った。それは今後、彼女を大きく助けてくれるだろう。


 ヒルデガルトは、全てヴォルフガングのお膳立てのような気がしていた。それに自分はただ乗せてもらっただけなのだと、そう感じていた。



 だがヴォルフガングは、それは違うと否定した。


「全てはお前がこの一か月、研鑽に励み続けた結果だ。それがたまたま実ったに過ぎない。用意はしたが、勝ち取ったのはお前の力だよ。そこは自信を持ちなさい」



 ヒルデガルトは、ヴォルフガングの言葉を噛み締めた。


(このまま自分を卑下し続けるのは、ここまで評価をしてくれるお父様に失礼だな)



 ヒルデガルトは微笑んでヴォルフガングを見据えた。


「わかりました。これからもこの自信を胸に、より励みたいと思います」


 微笑みで決意を表明する。その姿にヴォルフガングは満足そうに頷いた。


「今日はもう疲れただろう。夕食まで少しの間、休むといい」


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


 ヒルデガルトは部屋を退出し、ウルリケと共に自分の部屋へと向かった。




「お嬢様、ナイスファイトでした」


 そっとヒルデガルトの背後からウルリケが声をかけた。それに振り返り、ヒルデガルトは微笑みを返す。


「ウルリケ、あなたにも感謝しています。ありがとう」


 彼女がこの一か月、ヒルデガルトに尽くしてくれたことを、忘れていなかったのだ。




 ヒルデガルトはドレスを着替え、ベッドにもぐりこむとすぐに微睡まどろみに囚われていった。


 思った以上に疲れていた彼女の意識は、そのまま暗闇に沈んでいった。


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