第12話:束の間の休息
夜になり、ヒルデガルトは風呂上りにベッドに身を投げ出していた。
「ウルリケー、ミルクティーちょうだーい」
ヒルデガルトが疲れ切った声でウルリケに甘え声を投げかけた。
ウルリケは微笑みながらヒルデガルトに甘いミルクティーを手渡す。
彼女はそれを、上体を起こして受け取った。
彼女が疲れた時の、ルーティーンのようなものだ。
「お茶会に陛下が出てこられるだなんて、聞いてなかったわ」
ヒルデガルトはミルクティーの甘い香りで疲れを癒しつつ、ウルリケに不満げに愚痴った。
さすがにカール国王、と聞いてウルリケも驚いていた。
いくら公爵家本家での茶会とは言え、彼女の情報網でもカール国王が動くような気配など感じられなかったからだ。
秘匿会合だったので、外部の人間が兆候を察知するのは難しかった。
「あら、陛下がおみえだったんですか?」
「そうなの! ほんっと緊張したんだから……」
ヒルデガルトはぷりぷりとしながらミルクティーを味わい続けている。よほど気疲れしたのだろう。
(お父様も、少しは事前に教えてくださったっていいじゃないの!)
「わたくしはてっきり、ライナー様主催のお茶会だと思っていたのに」
あの夜会直後の招待状だ。そう思うのが当然だろう。
ライナーがダンスにかこつけて茶会の詳細を伝えようとした、などあの場で分かる訳もないのだ。
ダンス中の会話は他者に聞かれる心配がない。機密を伝えるにはもってこいだ。
彼の思い通りに事が進まず、伯爵邸まで足を運ばねばならなくなったのは、日頃の行いの悪さ故である。
もちろん、招待状には秘匿会合とわかる符丁が記されている。ヴォルフガングは符丁で茶会の本質を見抜いた。
元々、ヴォルフガングが持ち込んだ情報である。このタイミングで重要な秘匿会合の招待状となれば、集う人間は自ずから解るという物だ。
ヒルデガルトは半分ほど残っていたミルクティーを一気に飲み干し、大きくため息を吐いた。
「わたくし、疲れたから早めに寝ますわね」
緩慢にカップをウルリケに手渡しながら伝えた。
その表情には、疲れがありありと浮かんでいる。
ウルリケも主人が疲れ切っているのが解り、気遣う笑みで応える。
「はい、わかりました。ごゆっくりおやすみください」
ウルリケは、ヒルデガルトがベッドにもぐりこむのを確認しながら明かりを消し、辞去していった。
ヒルデガルトは疲れた体でベッドの中に潜り込んだまま、暗闇を見つめている。
ヴォルフガングからは極僅かな古代魔法を教わった。だがそれはこれから訪れるだろう局面で活かせるようなものではない、ごく初歩的な魔法だった。
これだけでは足りない。そう考えているのだ。
古代遺跡に向かうまで、まだ時間はある。ならばヒルデガルトには、取れる選択肢がある。
疲れた体に気合を入れてヒルデガルトはベッドから起き上がった。
明かりが消えていても今夜は月夜だ。歩くのには困らない。
そのまま部屋の隅でハンガーにかかっている制服の元へ行く。
そのポケットからトネリコの葉を取り出し、見つめていた。
(この葉に念じれば、あそこに行けるはず……)
だが、過ごした時間がずれてしまう。朝までに戻ってこれなければ、ヒルデガルトを探して家中大騒ぎになるだろう。
ヒルデガルトはイングヴェイの気配を手繰って話しかける。
(ねぇイングヴェイ、こちらの時間とそちらの時間、どうして流れが異なるの?)
『それはしょうがない。人間の世界と神の世界だ。時の流れ方が異なるのは避けられないんだ』
(どうにかしてこちらと同じ時間の速さにすることはできないの?)
『そうだな……その葉を、半分に分けてその部屋に置いておいてごらん。その葉は君の魂と紐づいている。時の流れも、或いはそれで同期するかもしれない』
神の発言にしては、頼りないものだ。だがその提案は神の預言。やってみる価値はあると、ヒルデガルトは判断した。
ヒルデガルトは言われた通り、葉を二つに割いた。片方は再び制服のポケットに入れ、代わりに懐中時計を取り出して手に持つ。
今度は壁時計を見て、懐中時計の時刻を壁時計に揃えた。これなら、時刻がどの程度ずれたかを確認することもできるだろう。
(あとは残った葉に念じるだけ……)
ヒルデガルトは目を瞑り、一度訪れたあの泉の畔を強くイメージした。
次の瞬間には、ヒルデガルトの姿が泉の畔に在った。
彼女が目を開けると、そこは真っ暗闇。うっすらと泉が見えている。遠くにはちゃぷちゃぷ、という水音が聞こえている。
「来れたわね……」
ヒルデガルトは呆然と周囲の様子を伺っていた。
自分でやっておきながら、半信半疑なのだ。
(神の世界に、こんな簡単に来れていいのかしら)
「君は神の寵愛を受けた子だからね。それぐらいの特権は、私が許すよ」
聞こえてきた軽妙な声に、ヒルデガルトが振り返る。
彼女の近くには、いつのまにか笑みを浮かべるイングヴェイの姿があった。
「神様が許すなら、誰も文句は言えないわね」
ヒルデガルトも笑みを浮かべながら、親しい友人に歩み寄るかのようにイングヴェイに近づいていく。
最初の頃に比べれば、二人の心の距離は格段に近づいたようだ。
イングヴェイが試すような微笑でヒルデガルトに尋ねた。
「それで、今日は何の用だい?」
ヒルデガルトも、それに応じるように願いを口にしながら、笑みを返す。
「わかってるんでしょう? 古代魔法を教えて欲しいの」
そう、イングヴェイなら古代魔法について詳しく知っているはずだ、とヒルデガルトは考えたのだ。
彼ならもっと実用的な古代魔法を教えられるのではないかと。
ヒルデガルトが時刻を合わせたとき、時計は九時頃を示していた。
神に関することは、カール国王から”最高国家機密だからね”と念を押されている。ウルリケに神の世界の話はできない。
どこに行っているか説明できない以上、ここに来ていることを気取られる訳にはいかない。
寝不足で疑われない、ギリギリのタイムリミットは十二時が限度だろうとヒルデガルトは判断した。つまり、およそ三時間だ。
この三時間でどこまで古代魔法を習得できるかは分からないが、やらないよりはやっておいた方がかならず良い結果が出るはずだ。
それがヒルデガルトが出した結論だった。
イングヴェイはそんなヒルデガルトの心情を読み取り、実に楽しそうな笑い声をあげた。
「はははは! 相変わらず君は貪欲だね! いいとも、教えられることは教えよう。さぁおいで」
そう言って振り返り、イングヴェイが歩みだす――その進む先には、先程まで存在していなかった三階建ての館が現れていた。
「ねぇイングヴェイ、その館、いつのまに現れたの? さっきまでは確かになかったと思うの」
ヒルデガルトはイングヴェイの後を小走りで追いかけながら、疑問を投げかけた――歩幅が違うので、歩いていると置いて行かれるのだ。
イングヴェイは振り返らずに彼女に答える。
「私がそこに在れ、と願えば、それはそこに在る。神だからね。簡単なことさ」
それが当然、というように余裕の笑みで彼は言った。これまで永い時間、そう在った者。それが自然で常識の、超常の存在。まさに神だ。
ヒルデガルトは呆れた表情で感想を述べる。
「でたらめな力ね……それがあなたの権能なの?」
「私の権能はたくさんあるよ。その中の一つではあるね」
イングヴェイがニヤリ、と笑う――多くの神が持つ権能、その一つ。彼の所有物は、いつでもどこでも彼の手の中にあるのだ。
「お父様が、ここは知恵の泉じゃないかって仰ってたわ。知恵の神様はどこに行ってしまったの?」
「滅んだよ。昔、神同士が争ったことがあってね。その時に大多数の神が滅んだ。私はその数少ない生き残りさ」
イングヴェイの目が少し遠くを見る。彼でさえ気が遠くなるほど昔に起こった、神々の争いだ。今も力を維持して残っているのは、本当に一握りの神だけだ。
「では、あなたは何故ここに居るの?」
「私はここを守るべきだと思ったから守っている。結構危険な場所だからね、ここは」
その危険性は人間が知るべきでもない。彼は多くを告げない。彼ほど力のある者が守る意味も、彼女が知る必要はない。
「滅んだ神様は、どこへ行ってしまうの? それは人間の死とは別物?」
「滅んだ神の一部は創世の神の所に行ったよ。残りは消滅してしまった」
イングヴェイは旅立つ神々の魂をいくつも見送った。旅立てず力尽きた魂も、また多く見送った。今は遠く、懐かしい記憶。
「神様も、生まれ変わるの?」
それはイングヴェイにも分からない。彼にも力の限界はあるのだから。
「それを判断するのは、創世の神だ。彼らがどうなったかは、今の私にはわからないな――さぁ着いたよ。おはいり」
そうしてヒルデガルトは、再び館に招き入れられた。
****
館に入ったイングヴェイは、ヒルデガルトを書庫に案内した。
書庫を二人で歩きながら、イングヴェイが語りだす。
「実を言うと、私にも古代魔法そのものを教えることはできないんだ。言われた通りに力を貸しているだけだからね。その借り方のノウハウが書かれた本を、今集めた」
(今って言った? じゃすとなう?)
イングヴェイが”そこに在れ”と願っただけの、即席の書庫である。
古代魔法について現代語で書かれた書物を、それを集めた書庫を、彼が願っただけだ。
彼女が知りたいというので、彼女に馴染みのある言語で知識を用意したのだ。
「ねぇ、この本は現代語だけど、現代で書かれたものなの?」
「いいや? かつて古代魔法が盛んだった頃にあった書物だ。それを現代の言葉にしておいた」
(神様って何でもありすぎない?)
ヒルデガルトが呆れ顔を通り越し、ジト目でイングヴェイを見ている。
たしかに、人間からすれば規格外すぎて呆れるしかないだろう。だが、それが神の御業だ。
気を取り直したヒルデガルトは、並んだ書物の背表紙に目を走らせた後、とっかえひっかえ目次を流し読みしていく。
その様子をイングヴェイは微笑ましそうに見守っていた。
(さすがに端から全部、なんて時間はないものね)
流し読みをしながら何かに気が付いた様子のヒルデガルトが、イングヴェイに振り向いて尋ねた。
「ねぇイングヴェイ。ほとんどの本に出てくる”知識の神”って、どんな神様なの? とっても偉い方みたいだけど」
「ああ」と気づいたイングヴェイが、愉快そうに笑って応える。
「はははは! そうだね、当時の人間たちは理解していなかったみたいだけど、知識の神は創世の神の別名さ。知恵の泉の水を飲んだ創世の神は、知識の神にもなった。古代魔法も、知識とは無縁じゃない。余りに荒唐無稽な結果を望んでも、神の力を借りにくいんだ。神に願う時にはそれなりの説得力が必要になる。だから、古代の魔術師たちは、知識の神を信仰する者が多かったんだ」
知識の神が偉大な神である、という認識は古代の魔術師の間にもあった。だが二つの神を結び付けるだけの知識や想像力は、その時代の彼らになかった。
神は多くを語らない。真実を知る者も居たが、彼らは秘匿を貫いた。ヒルデガルトも、その秘匿を貫く一人になるだろう。
それが創世の神であるという認識を持たぬまま、知識を信奉し知識の神を信仰する。知に心を捧げた者たち――それが古代の魔術師だった。
「古代では、魔法を使う人を魔術師と呼んだの?」
「ああ。魔法を使う術を魔術と呼んでいた。今は魔力を使う術を、そう呼ぶね。古代魔法が失われてから、変化したんだ」
時代とともに言葉の意味が移り変わる……これもまた、人の世では普遍的な出来事だ。
流し読みを続けるヒルデガルトが、また何かに気づいたらしい。イングヴェイに振り向き、尋ねて来た。
「ねぇイングヴェイ。あなたの力を借りれば、私は古代遺跡を破壊できるのかしら?」
(こんなでたらめな力を持った神様の力なら、古代遺跡の破壊くらい簡単じゃないかな?)
だが、その質問にイングヴェイの笑顔が曇った。
「できるかできないか、で言えばできるよ。私の権能のひとつに、すべてを破壊する力がある」
イングヴェイの持つ破壊の権能――それは抗うことができない絶対の力。彼が持つ中でも、特筆すべき権能のひとつ。
全力で振るわれたその権能に抗える者は、神々にさえ居なかった。彼が神々から一目置かれた所以でもある。
イングヴェイの言葉を聞いて、ヒルデガルトがきょとんとした。
(なんで言葉を濁してるのかな?)
「はっきりしないなんて、神様らしくないわね? どういう意味なの?」
「私の権能そのものを使うには、君の負担が大きすぎるんだ。最悪、君自身が消滅してしまいかねない。つまり、魂が耐えられずに消えてしまうことも、有り得る」
イングヴェイの力ない微笑みに、寂しい色が加わった。
神の権能そのものを魔法として人の世界に現すのは、魂に大きな負荷がかかる。
今のヒルデガルトの魂は、イングヴェイの大きすぎる権能を現すのにきっと耐えられないだろう。
耐えられなかった魂は消滅し、生まれ変わりの世界からも弾き出され消えていってしまう。
神でさえ二度と会うことができない離別だ。
もしかしたら魂が耐えられるかもしれない――そんな一縷の望みに託すには、ヒルデガルトが愛おしすぎた。
だからイングヴェイも、できればそんな魔法を使ってほしくはないのだ。
ヒルデガルトも、己の魂の消滅が意味することは正確に理解した。深刻な表情でイングヴェイに頷いた。
「……それは、最後の手段ね。他の手はないの?」
「あの遺跡は、古代人が神の力を借りて作り上げたものだ。そんなものを完全に破壊するならば、神の力を以て破壊するしかない。加減をした私の権能で破壊できるかは、やってみないとわからないところだね」
(今、神様の力を借りられるのは私だけ……だから「私の頑張り次第」って言ったのね)
ヒルデガルトの表情に、覚悟の色が浮かんだ。イングヴェイの伝えた言葉の意味を、理解してしまったのだ。
今回の任務で、自分は最後の手段を採らざるを得ないかもしれない、と。
「だが、完全破壊をしなくても、結果を出せる可能性はある。それなら、私の権能を使う必要はないかもしれない。君の友人たちや父上の力に、期待したいところだな」
イングヴェイが、寂し気な微笑みで語った――一縷の望みより、ずっとか細い願いだ。不可能ではない、その程度の。それでも、ヒルデガルトの消滅のリスクを回避できるならば、託さずにはいられないのだ。
ヒルデガルトも、イングヴェイの表情でおおよそ感じ取ってしまっていた。
だが無邪気な表情で、イングヴェイに尋ねる。
「イングヴェイは、私が消滅するのは嫌?」
「当たり前だろう? 私は君を愛している。愛する者を失いたくないのは、人も神も変わらないさ」
「そっか……ありがとう」
ヒルデガルトが、可憐な心からの微笑みで礼を述べた――イングヴェイの愛を実感したのだ。愛で心が満たされることを、ただ喜んでいる。
イングヴェイはその愛おしい笑顔を、寂し気な微笑みで見つめ続けていた――どうか、この笑顔が失われませんようにと、願いを込めて。
****
ヒルデガルトは部屋に戻り、すぐに壁時計に目を向ける――手元の懐中時計と同じ、十二時を指していた。
(イングヴェイの提案、巧くいったみたいね)
安堵の吐息を漏らし、ベッドに潜り込んでいく。
ヒルデガルトはベッドの中で、暗闇を見つめている。
(次からは『蜃気楼』をベッドに寝かせておかないと、いつか見つかってしまいかねないわね)
ヒルデガルトは、今夜読んできた本で、古代魔法の概要は把握してきた。
いくつかの初歩的な古代魔法の術式も覚えてきた。要領は把握した筈だ。
だがまだ実用的なものに辿り着けていない実感があった。
これだけでは難しい局面を乗り切るのは困難だろうと、そう判断した。
(もう少しレパートリーを増やさないと……)
勉強疲れで、間もなくヒルデガルトの意識も闇に沈んでいった。
****
「お嬢様、おはようございます」
ヒルデガルトの耳にウルリケの声が届き、意識が覚醒する。
「……うー、おはよう、ウルリケ」
緩慢な動きでヒルデガルトがベッドから上体を起こした。
規則正しい生活をしばらく送っていたヒルデガルトは、急に不規則な睡眠をとった事が体調に響いていた。身体が慣れるまでもう数日かかるだろう。
「お嬢様にしては、寝覚めが悪いですね。あんなに早くお眠りになられたのに……」
ウルリケの猜疑の視線がヒルデガルトを貫いている。できる侍女は主人の体調にも敏感だ。「夜更かししてまで、何を?」と表情が物語っている。
ヒルデガルトが必死に「きっと陛下の前に居たから予想以上に疲れていたのね!」などと心にもないことで言い繕うが、その程度で誤魔化されるウルリケではない。
(これはちゃんと寝てるか、確実に確認されるなぁ……やっぱり次からは『蜃気楼』が必要ね)
ウルリケの視線を見て見ぬ振りでかわしつつ、制服に袖を通したヒルデガルトがダイニングに降りていく
ヴォルフガングに朝の挨拶をし、笑顔で朝食を済ませて馬車に乗る。
いつもの朝、いつもの道――
(この平穏を、私が守らないと!)
イングヴェイに見守られているかのような晴天の下、ヒルデガルトの決意を乗せて、馬車は学院に向けて走っていった。
****
カール国王との茶会から数日後。朝の教室――いつものメンバーの面持ちには、緊張が混じっていた。
(多分、お茶会の話を聞かされたのね)
むやみに語れる話でもない。表向きはいつもの雑談。だけどその目からは、不安が拭いきれていない。
ヒルデガルトは皆の表情に目を走らせた。
フランツ王子の目を見る。そこには確固たる決意が見えた。
不安を感じていないわけではない。だがそれ以上に、国を背負う者の務めを全うしようとする覚悟があった。
その姿には既に、王者の風格の兆しがあった。
クラウディアはいつもの儚い微笑――だが、ヒルデガルトを見る時だけ、わずかな不安が垣間見える。
(危険な任務だもんね……心配、させちゃってるな)
己も危険な任務に同行する身だ。だがそれ以上に、大役を任されている大切な友の身を案じているのだ。
ヴィンケルマン公爵家の令嬢という、強固なドレスを脱いだクラウディアの本質は、心優しく愛らしい、甘えたがりの少女だ。それをヒルデガルトはよく知っていた。
己が傷つくことより、大切な友が傷つく方を恐れてしまう。そんな人なのだ。
ディーターは前回の特別課外授業以来、一番様子が変わっていた。
おそらく、『蜃気楼』を自力で維持できたことが自信に繋がっているのだろう。もう”軟弱貴公子”などと呼ばれた時の姿は、そこにはなかった。
力強い眼差しで、不安を押し返していた。
彼とて、ファルケンシュタイン公爵家の男だ。ヴォルフガングの直系として、困難に立ち向かう気概を持ったのだ。
フィルとハーディは、何も知らされていないのだろう。いつも通りの様子で談笑している。
ノルベルトとジュリアスには、既に休日の魔術講義の時に話がされていた。
特に今回、ジュリアスは貴重な特等級の魔術師だ。遺跡破壊主力としての責任は重い。その目は、必死に重圧に耐えていた。
魔術師としての力量を鑑みれば、ヴォルフガングに次ぐ責任を負っているとも言える。
そして彼の願いは、ヒルデガルトの無事だ。危険な任務の達成と引き換えにヒルデガルトに怪我を負わせることなど、彼は許さない。命を落とさせるなど以ての外だ。
困難な二つの願いを共に叶えなければならない。気負ってしまうのは仕方のないことだろう。
ノルベルトの願いもまた、ジュリアスと同じものだ。
大切な存在を荒事に連れて行かねばならないことを、ずっと憂慮している。
隠せるのであれば、宝箱の中にでもしまい込んで鍵をかけてしまいたい気分だろう。
だがそんなことを、ヒルデガルトが許さないことも分かっている。
彼女は自分が許せる自分であり続けようとする。
我が身可愛さに引きこもっていろ、などといえば軽蔑されるだけだろう。
ノルベルトにできるのは、ヒルデガルトが任された役目を全うする手助けを、全身全霊ですることだ。それがたとえ、見守る事しかできなくとも。
ヒルデガルトは皆の顔を確認した後、自分の席に腰を下ろした。
そして、いつものように自習の本を開く。
(今更じたばたしても始まらないし! 自分ができることを精一杯やるだけね!)
自分の双肩に国家の存亡がかかっているなら尚更だ。
ヒルデガルトは”いつも通りの自分”、”己が許せる己”を貫くだけだ、と腹を決めた。
例えその道が、愛しいものとの離別となったとしても。
そうして、午前の講義が始まった。
****
午後の魔術講義の時間になり、ヴォルフガングから次回の特別課外授業の日程が告知された。
「次回の特別課外授業は七月、シュネーヴァイス山脈中腹にある古代遺跡の調査に向かう。三週間を予定しているが、前後することもある。最大で一か月程は見ておいて欲しい。午前のカリキュラムはその間、免除となる」
目的の古代遺跡は、山脈にある高山中腹にある。そこそこの山を登らねばならない。
グランツからシュネーヴァイス山脈までは馬車で一週間弱、そこから中腹まで登るのに三日から五日かかると言われている。
順調な旅程なら往復で三週間前後、ヴォルフガングの予定はこれに基づいたものだろう。
何かトラブルがあれば一週間程度のマージンを見る。そんなところだ。
鍛錬をしながら、クラウディアが不安げにぽつりと言った。
「随分な長旅になりそうですわね……」
ヒルデガルトは暢気に返す。
「道中の食事は食糧車を連れて行くみたいですから、まともなものが食べられると思いますよ?」
エミリが会話に参加してきた。
「どうも今回の特別課外授業、国外まで喧伝してるみたい。噂が広範囲に広がってるよー。”レブナント王国のエリート学生が古代遺跡調査に向かう”って。何か新しい発見でもしないと、がっかりされるかもね」
「え゛、それはさすがにどうなんですの……?」
情報工作の一環なのだが、目的は調査ではなく破壊である。発見できるものなどあるわけがない。
任務の成否にかかわらず”調査したけど何も分かりませんでした”というしかない。
大人の都合で自分たちが良いように振り回されてるな、とヒルデガルトは感じていた。表情が呆れたものになっている。
ヒルデガルトの目には、一同の面持ちにさらなる気負いが追加された気がした。
ルイーゼがエミリに応える。
「”遺跡に向かうのは学生”ってことを印象付けたいんでしょうけど、手ぶらで帰ったときのことも考えて欲しいわね……」
全員の意見を代表した一言だろう。
アストリッドは気楽に構えていた。
「なーに、エリートとはいえ所詮学生なんだ。専門家でも解らないことは、解らないのが当たり前。気負う必要なんてないさ」
確かに、それは一理ある。
アストリッドの言葉で、一同から余計な気負いが抜けたように見えた。
楽観主義のアストリッドは、こういう時にムードメーカーとして役に立つ。
ジュリアスはフィルとハーディを見やりながら言った。
「彼らは、詳細を知らされていないみたいですね」
ノルベルトがそれに応える。
「下手に教えて、情報が洩れても困ります。彼らは信用が置けるとは言い難いですからね。仕方がないでしょう」
彼らのことはクラウディアやエミリの情報網でもはっきりしない。何処に通じてるかもわからないのだ。懸念材料の一つとなっている。
最悪、現地で拘束して転がしておく事すら検討しなければならないとヒルデガルトは考えている。
そうでなければ、貴重な戦力でもあるのだ。有効活用できることをヒルデガルトは祈った。
フランツ王子が真剣な眼差しで皆に語りかけてきた。
「だが、日程が決まった以上、あとは腹を括って臨むだけだ。全員、万全を期してくれ。頼むぞ」
彼は既に、国家を背負う覚悟ができている。王者の風格で皆に発破をかけた。一同の顔が引き締まったのが解る。
(こういうところは、ちゃんと”王子”だよね……私も、負けていられないわね!)




