後編
「ねえ、私は嵐が怖いの。お願いだから一緒に寝てよ」
「そんな気分じゃないよ」
あっさり振られて心がくじけそうになるが、私は後ろからセルジュにしがみついた。
「絶対帰さないから」
全然ロマンチックじゃなくて、ホラーみたいな雰囲気だけどもうどうでも良かった。目を離すとセルジュが雷に打たれて死んでしまいそうで、心臓が痛かった。セルジュは再びため息をつく。
「……朝までここに立ってはいられないな。ディアナに風邪をひかせられないし」
「そ、そうでしょ?」
勢いで、私はセルジュをベッドルームへと引っ張っていく。脱力したセルジュは、仕方ないという体でついてきた。
明かりを消して、靴を脱ぐ。好きな人とこんな形でベッドインするとは思ってもみなかった。シナリオを外れるとロマンの欠片もなくなるらしい。
クイーンサイズのベッドは、セルジュと一緒に乗ると軋む音を立てた。
「僕は、こっち向いて寝るから」
私に背を向けてセルジュは横になる。
「そんなの寂しいんだけど」
「くっつくなよ……」
そう言われても、不安でたまらない私はセルジュの広い背中に張りつく。セルジュの体温が伝わってきて、ほんの少しだけ安心できた。ただし緊張もある。ディアナとしての18年間はまさにお姫様生活だったので、こんな大胆なことは初めてだ。
「ディアナ、本当にくっつかないで欲しい」
「だって怖いの」
「怖がるものを間違ってる。僕を試してるのか? 僕だって男だし、好きな女の子にこんなことされて、何も感じない訳じゃない」
急にセルジュが体を方向転換させて私に顔を向けた。熱い吐息がかかって、私の心臓がはね上がる。
「え……好きな……? セルジュが好きなのはクラリスでしょ?」
「誰にそんなこと聞いたんだ? 僕はディアナが好きだよ」
「え?」
セルジュのきれいな顔が目前にあって、声が私の鼓膜にすぐ届く。もう既に夢にでも落ちているような、信じられない事態が起きていた。
「入学してすぐ、ディアナの視線に気づいたよ。気になって、自然と僕もディアナを見るようになってた。そして、ディアナがすごく優しい人だって思うようになった」
「私は別に、大したことはしてないわ」
私がやってきたのは、シナリオに沿って貴族のルールをあまり知らないクラリスに色々と教え、相談に乗り、アンドリューのお世話をすること。あとはなるべく普通に、あり得る範囲の行動しかしていない。
「あの変人アンドリューの世話をして、見事にクラリスとくっつけたじゃないか。それでどれ程アンドリューがまともになったか。君は二人を結びつけた天使だよ」
「あ、あはは……」
そんなのゲームの記憶があるから簡単なことだ。
「二人以外にも、いつも困ってる人をさりげなく助けてることも知ってる」
「そんなのあったかな」
「覚えてないくらい、ディアナにとっては自然なことなんだろうね」
セルジュは苦笑した。言われるとあったかもしれない。まあお金と権力だけはあるから、本筋と関係なさそうな、雑草のように蔓延るいじめなどの行為は早めにやめさせた。シナリオを乱されては困ると思っての行為だけど。
「僕はディアナがずっと好きだったよ。この夏休みに誘ってくれて、本当は飛び上がりたいくらい嬉しかった」
「セルジュ……」
そんなことを言いながら、セルジュは私の額にキスをした。どういう顔をしたらいいかわからなくて、セルジュの胸に顔を埋める。心臓が破裂して、私こそ死んでしまいそうだった。多分今夜、私がセルジュの代わりに死ぬんだ。それもいいかもしれない。
遠くから雷鳴が聞こえていた。嵐はひどくなっている。なだめるように、セルジュが私の背中を撫でてくれた。
「悔しいなあ……ずっと好きだったディアナが僕の腕の中にいるのに、明日になればお別れだ」
「そんなこと言わないでよ」
「でも、事実だ。どれだけ勉強して良い成績を取っても、一番にはなれない。僕の国の領地は寒冷で狭くて、貧しい。とても帝国のお姫様との婚姻は望めない」
「そんな……」
セルジュの体温は温かいのに、その声は掠れて冷たい響きを持っていた。現実を語る、理性的な言葉の数々が私の胸を抉る。
「今日だけ、そんなこと忘れてよ。私は、本当にセルジュが好きなの」
頭の上で、ふっと笑った声がした。
「ありがとう。でも僕はほんの少しでもディアナの将来を傷つけたくないから、何もしないよ」
私は決定的な間違いを犯したとわかった。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?ディアナは悪くないよ」
「違うの……ごめんなさい」
こんなこと、セルジュがどれだけ好きでも伝えるべきじゃなかった。
私は3年もかけてセルジュを傷つけてしまった。セルジュが自分の国まで嫌になってしまうくらい、自尊心を壊して、チェスだって嫌みなやり方で勝って。
セルジュを好きだと自覚したなら、もっと冷たくするべきだったんだ。帝国の権威を振りかざして、夏休みはここに残るよう、傲慢に命令するだけで良かったんだ。
私はセルジュに近寄りたくて、振り向いて欲しくて、ひどいことをした。
セルジュの命を救ったつもりでいい気になっていた。セルジュはこんなにも優しい人で、私よりずっと私のことを考えてくれているのに。
「本当にごめんなさい。私、これからもっとちゃんと考えるから」
「僕もずっと考えてたけど、どうにもならないよ。泣かないで」
顔を上げた私の目尻をセルジュがそっとぬぐってくれた。これも何もかも、セルジュの傷を深くするだけの身勝手で感情的な行為に思えて、やめたいのに涙が止まらなかった。恋愛って、自分の足りないところばかりがどうしてこうも現れてしまうのだろう。
私たちは黙ったまま抱き合い、嵐の音を聞いていた。いつしかセルジュは穏やかな寝息をたてた。
私はときどき微睡んだけれど、いつまでも眠れなかった。セルジュの腕がだるくならないようにそうっと体を離す。すぐにセルジュは寝返りを打った。
こうして私のことを簡単に忘れてしまえとも思うけれど、そうはいかないだろう。暗闇の中で、なお白いセルジュの寝顔を見つめながら、私はいつまでも考え続けた。
何か、忘れていることがあるはずだ。私にひとつだけある有利性は、前世の記憶。靄にかかって読めない記憶の中のテキストを、読み解こうとあがき続ける。
そうして、私がセルジュの寝顔を見守っている間に静かに朝は訪れた。上部が半円形の窓から朝日が射し、くっきりとセルジュの形を描き出す。死んでしまう運命を無事乗り越えたセルジュは、昨日よりずっと精彩を放ち、美しかった。突然、彼のまぶたが開いて琥珀色の瞳がベッドの天蓋を見た。
「おはよう、セルジュ」
「お、おはようディアナ」
声をかけると、セルジュはびくっとした。さっき鏡で見たが、私は目が充血してひどい顔をしているせいかもしれない。セルジュは慌てて上半身を起こした。
「僕、寝ちゃったんだ?昨日が終わらなければいいと思ってたのに……」
「いいのよ。私に少し考えがあるから」
「考え?」
寝起きのセルジュの声は乾いていて少し裏返った。
「セルジュは本当に私のこと好き? 結婚まで考えてくれる?」
「そうなれたらと思ってたよ」
「じゃあ、いくつか質問に答えてくれる? 私はセルジュを諦めたくないの」
しばらく質疑応答をしていると、ベッドルームの向こう、廊下に繋がるドアからノックの音がした。思ったより早く、結果報告が来たようだ。
「セルジュはそのままでいて」
戸惑うセルジュを残して、私は急いでドアに向かう。ドアを開けたところに立っていたのは、予想外の人物だった。
「おはよう、ディアナ」
私の兄、アンドリューだった。私と同じく寝ていない顔をしている。
「あ、アンドリュー……あなたが来るとは思ってなかったわ。クラリスはいいの?」
アンドリューは深い青色の瞳を細め、にやりと笑う。アンドリューとクラリスは居残り組ではないので海辺の街で過ごしているはずだった。
「クラリスは別のところで待ってるよ。俺たちは、ディアナのおかげでアッシリア公国往復の旅を楽しんだ」
「え?」
それは、ゲームのシナリオでは夏休みが全て終わったあとのイベントのはずだ。もうこんなに話がずれているなんて。
というか私は、昨夜セルジュが乗って沈むはずだった船を止める手筈について、もうひとりの兄、帝国の皇太子クロードに依頼していた。クロードはとっくに学園を卒業して政治に携わっているからだ。
なのにそれがアンドリューに伝わっている。皇太子クロードと第二皇子アンドリューは犬猿の仲なのに、いつの間に結託したんだろう。それも、ずっと後の予定だった。
アンドリューは私と同じ栗色の髪をかく。
「まあ、万事うまくいった。船長は嵐が来ることをわかっていて無理に船を出そうとしていた。貨物室にある大量の武器を早く運びたかったみたいだな。ディアナがどうしてそんなことがわかったのか不明だが」
「とりあえず、罪もない人たちが死ななくて良かったわ。その船には一般人も大勢乗る予定だったし」
ほっと胸をなで下ろす。私は、セルジュだけ助ければいいとは流石に思っていなかったので、悲しい運命を止められて良かったと思う。
「なんか、急に俺みたいに頭が良くなったな。ディアナも実力を隠してたのか?クロードも今回の手柄を誉めて、何か褒美をやりたいって言ってたぜ」
私よりずっと背の高いアンドリューを見上げると、誇らしげに笑っていた。
「じゃあ、私の婚約者はセルジュにしてって伝えて」
アンドリューの笑顔が凍りつく。すぐにしかめっ面になってしまった。
「セルジュって、お前が急に居残りに誘ったやつだろ? 単に今回の件で、万が一にも武器輸送の関係者と疑われないように学園に残しただけじゃないのか?」
「いいえ。この件はセルジュとの世間話からヒントを得たから、実質セルジュの手柄なの。そして、私とセルジュは将来を誓い合った仲だから」
疑わしげに、アンドリューは部屋の奥を覗き込んだ。
「まさか……」
「ええそうよ。セルジュ! こっちに来て」
確かな足取りで、すぐにセルジュは戸口にやって来た。緊張はしているようだ。アンドリューが憎々しげな目付きで、セルジュと護衛を睨み付ける。
「何やってんだよ、ディアナ。セルジュとは今までろくに話したこともないだろ。それにな、こんなことをして、肩身の狭い思いをするのはセルジュだぞ。アッシリア公国の王子とお前とじゃ……」
私は思いきり息を吸い込んだ。
「アンドリューは、アッシリア公国を過小評価してる。これからアッシリアは帝国にとって重要な資源採掘国になるんだから。今回の件でわかったでしょう? 私とセルジュが組めば、誰にも予想できないすごいことが出来るんだから!」
半分本当で、半分はったりだ。
「資源採掘国? アッシリア公国が?」
「セルジュから聞いたの。アッシリア公国には、巨大な天然アスファルト湖がある」
それが、私が思い出した、ゲームの記憶の一端と前世の知識だ。
ゲーム内で、セルジュが馬の飲み水入れを、わざわざ国から送ってもらった特別な土で補修するシーンがあった。クラリスが見かけて優しいんですねなどと談笑していると、そこに嫉妬に駆られたアンドリューが来て、誰にも乗りこなせない暴れ馬を手懐けてしまうという、セルジュが当て馬にされちゃうエピソードだ。
特別な土とは、天然アスファルトだった。安価で熱を加えると固まり、水に強いという特徴がある。
「悪いけど、アスファルトって農業の用水路とかにたまに使うやつだろ。そんなに重要な資源か?」
アンドリューは、悲痛な表情でそう聞いた。私よりずっと頭の良い天才アンドリューでも、ピンと来ていないらしい。
「これからはアスファルトで道を全部舗装するのよ。馬車での陸の輸送効率が全然変わるし、雨でも車両がぬかるまないし、土ほこりでの眼病も減るわ」
「全部?!」
「冗談みたいに聞こえるかもしれないけど、計算したら帝国にとって利益は出るわ」
自信を持ってそう言える。いつまでも土を踏みかためただけの道でいる方が私は信じられない。
私は前世、東北のとある県に生きていた。そこは天然アスファルトが採取できたし、ついでに日本では珍しく石油も採油できた。天然アスファルトとは石油の軽い部分が蒸発したものだから、アッシリアには必ず石油もある。いずれ重要な資源になるものだ。
「だから、セルジュと私が結婚してアッシリア公国と繋がりを持つことは、帝国の繁栄に行きつくのよ。ね? セルジュ」
「まだあまり実感がないけど、ディアナを信じるよ。僕も覚悟を決めた」
セルジュは私を見て微笑む。
「ディアナが言い出したらきかない、すごく頑固な人だってもうわかったから。僕のシャツをこれ以上伸ばしてもらったら困るしね」
昨日から着たままのセルジュのシャツは、後ろが盛大に伸びきっていた。
「お、俺はまだ認められないぞ。ディアナにはまだ早い……」
「そんなことを言っても、もう遅いのよ」
アンドリューが呻くが、セルジュは意味ありげに私の肩を抱いた。セルジュは本当に紳士だったのに、私の演技に付き合って、力強く私を引き寄せてくれる。私はセルジュの温もりが何より嬉しかった。
もうセルジュは薄幸の美少年じゃない。逞しくこの世界を生き抜く人だ。私もシナリオを外れて、これからは何もわからなくなった。だけど、セルジュが横にいてくれるならそれだけで、私は幸せに思う。