ラスト一球!
その出会いは、突然だった。
ここのところ忙しかったので、久しぶりの野球場だ。わくわくしながらグッズショップをのぞいてみると、さまざまな新商品が並んでいる。
懐具合と相談しながら、買い物を楽しむ私。かごの中は、商品でいっぱいになっていく。
レジで会計を済ませたあとに、たまたま見つけてしまった。
数メートル離れた場所に、一人の男性が立っている。その視線の先にあるのは、「選手の直筆サイン入りボール」だ。ワゴンの中には、それが一個だけ。
すでに男性は、この店の買い物袋を両手に提げている。そこからさらに、あのサイン入りボールを買うかどうかで、悩んでいるらしい。
私も足を止めた。
ワゴンについている「手書きポップ」の文面に、興味をひかれたのだ。
躍動感のある筆跡で、『ラスト一球!』と書いてある。
私は心の中でうなずいた。たしかに、ラスト一球だ。今の状況を、正確に伝えていると思う。
と同時に、次の光景を連想した。
九回裏ツーアウトで、フルカウント。あと一球で、試合が終わる。そんなシチュエーションだ。
想像と現実とが、頭の中で自然と連結する。
ゲームセットの瞬間が訪れるのは、このサイン入りボールを誰かが買った時だろう。『ラスト一球』ではなくなった時だ。
先にいた男性と同じように、私も悩み始める。懐具合は本当にぎりぎりなのだ。それに、このサインボール、すでに同じ物を持っているし・・・・・・。
先にいた男性が、こちらに気づいた。目で「どうぞ、どうぞ」とボールを勧めてくる。
私も「いえ、どうぞ、どうぞ」と返した。
互いに踏ん切りがつかない、この状況。
私としては、「このサイン入りボールが絶対に欲しい!」というわけではないのだ。
で、相手の男性も同様らしい。他に買いたい人がいるのなら喜んで譲る、そんな雰囲気を発している。
私は困ってしまった。
ここから立ち去ることも考えたが、まだ心の中に迷いがある。『ラスト一球』という状況で、このボールの時間は停止しているのだ。誰かが買うまでは、そのままの状態が継続する。
できることなら、この止まった時間を動かしてあげたい。
けれど、私も男性もすでに、大きな買い物袋を提げているのだ。自分の欲しい物は買い終えている。
タイミング的には、最悪の出会いだった。このボールが、いや、このポップさえ、目に入らなければ・・・・・・。
ここから先へと踏み込むためには、予算の限界突破を強いられる。簡単な決断ではない。
私の周囲で、他の人たちも次々と足を止めていく。
そして、全員が悩み出した。
これにより、さらなる心理的な負荷が加わる。十数人もいる中で、ボールは一個だけなのだ。ここで、このボールに手を伸ばすのは、結構な勇気がいる。
新たに一人が足を止めた。
大勢で集まっていれば、それだけ他人の目を引くことになる。
続いて、もう一人。
私は心の中で嘆いた。この場から立ち去りたい、そんな気持ちもある。でも、自分がここを離れた直後に、誰かがボールに手を伸ばすかもしれないのだ。
大事な場面を見逃すことになったら、絶対に後悔する。こうなった以上、決着の瞬間はぜひとも見届けたい。
重苦しい膠着状態が続く中、また一人が足を止めた。
やはり沈黙している。周囲からの「譲りますよ」という視線も、効果はないようだ。
これほどの人数がいるのだから、今からでも「やっぱり買います」、そんな勇者が一人くらいいても、良さそうなものなのに・・・・・・。
周囲の顔ぶれを見ていて、ふと私は気づいた。
最初からボールの前に立っていた男性、その表情が変わったのだ。
ひょっとして、ついに決意したのか?
私は期待で胸が高まる。
直後に、一人の青年が足を止めた。
最初の男性が両手の買い物袋を下に置いて、いきなり叫び出す。
「あと一球!」
手拍子をしながら、「あと一球! あと一球!」と、同じ言葉を繰り返し続ける。
その意図を素早く察して、私も続いた。
「あと一球!」
すると、他の人たちも次々と、「あと一球!」コールを始めた。
九回裏ツーアウトで、フルカウント。あと一球で、試合が終わる。そんなシチュエーションに、「あと一球!」コールは欠かせない。
最後に立ち止まった青年だけが、この異常事態に戸惑っている。
が、ここで畳みかける私たち。
すぐさま彼の前で、群衆が二つに割れた。ボールの真正面へと、道が開かれていく。
「あと一球!」
どうだ青年、この状況に抗えるか?
君はボールを手に取り、ここにいるみんなの「ヒーロー」になるんだ。
「あと一球!」
私たちの声が、彼を前へと進ませる。
そして、ついに青年がボールを取った。
最初からいた男性が宣言する。
「これにて、ゲームセット!」
周囲から一斉に拍手がわき起こる。
思い起こせば、本当に激闘だった。
でも、最後はつかみ取った。ここにいる全員での勝利、その興奮は格別だ。
次が最終回です。




