13 親の務め
それから半刻ほど経った。一時、街は普段と異なるどよめきがあったが、今は落ち着きを取り戻している。
商業で賑わう港町ではあるため、人が多く集まるせいで時折事件や事故が起きてしまうのは避けられない事であるのだが、まさか領主の息子とその友人を恫喝して気絶させるという愚行を行う者が現れるなど、誰も予想していなかった。――そして、颯汰も予想していなかった事態が起こっている。
港町カルマンのとある場所――。
漆喰の壁が三方にあり、正面には鉄の格子が天井まで伸びている。非常に簡素な作りのベッドの上に毛布が一枚だけ畳まれている。窓はかなりの高所にあり、子供すら抜け出せない狭い四角形にまで鉄格子が掛けてあった。左端には簡易的なトイレと言っていいものなのか、排泄をするための穴と足場が設置されている。
そんな中に、騒ぎを起こした男がベッドに鎮座していた。
鉄の扉には南京錠の様なものが取り付けられ、普通ならば中からは簡単には抜け出せない。
「ふむ、困ったな」
「……困りましたね」
「困っちゃうなぁ……」
牢の中にいる男と、次いで牢の外にいる女と男が似たような台詞を吐く。三者三葉、言葉の意味は異なっているが。
その男女の後ろに立つ少年が、嘆声を漏らしているとき、留置所の外から恰幅のいい男がドタドタと小走りでやってきた。
走りつかれたのか少し息切れをして膝を突いて、しばらくゼーハーゼーハーと荒い呼吸を落ち着けるためにたっぷり十秒弱を使った後に、その男は汗をハンカチで拭いながら言葉を発した。
「いやぁ……さすがは早かったですなぁ。ユッグ殿は。デスクワークで身体が鈍っているのを痛感しましたぞ」
部下である男女――グレアムとウィルマはその上官である恰幅のいい男に対し、背筋を伸ばして敬礼をしたが、上官はニコニコした笑顔をする。顔の肉で細かった目がさらに細くなるが、どことなく愛嬌のある顔だ。楽にしていいよと言ってから、続けて牢屋に入っている怪しい男、ユッグに言う。
「今はナディム子爵も留守にしていますが、明後日の昼前にはお戻りになられるでしょう。事情と“例の書状”の存在を明かせばすぐにでも納得していただけるかと。今は形だけの留置ですが、騒ぎが収まった夜にはこの二人があなた様達をお送りしますので……。申し訳ないですが、しばし辛抱して頂けると助かりますぞ」
一部の目撃者に、先ほどの騒ぎの原因を見られたがため、ユッグは騒ぎが悪化しないように憲兵に身を任せてそのまま“留置所”に連行されることになった。
ユッグことボルヴェルグは、この上官の男――ベイルとこの場所で一刻も経たない内に会ったばかりである。例の書状を見せるとベイルは急いで憲兵の一人を王都へ向かわせることにしたのだ。
ちなみにこの場に居合わせている者に限り、ユッグの正体がボルヴェルグであると知っている。領民もまさかここに隣国の英雄がいるとは予想しまい。
書状はヴェルミ王国の現国王――
『ウィルフレッド=レイクラフト=ザン=バークハルト』からのものであった。書状の封蝋は国王のみが持つ指輪による印璽が捺されていたので間違いないとベイルは正しい判断を下す。(余談であるがザンは狼神名、バークハルトは土地神名を表している。どちらもヴァーミリアル大陸にいたとされる神々の名である)
書状の文面から、この客人たるボルヴェルグを拘束することは王命に間接的に反しているので、本当ならすぐにでも馬車を貸して王都まで護送したいところであった。しかし、騒ぎが起きて人目が付きやすい状態になってしまったのと、ナディム子爵の部下たち数名に知られたこと、包帯男がそれを拒否して『一応、親である子爵に直接謝罪したい』と言い始めたため事態がこじれて現在に至る。
ボルヴェルグは書状を見せ、街の入り口から王都ベルンへ向かう憲兵をベイルと共に見送った。その直後に息子役の颯汰が襲われているのを見てしまう。そして、ベイルも思わず目を見張り唸るほどの素早い身のこなしで近づいて行った。街中で目につく高い背丈を持ちながら、一瞬見失ってしまう――地を滑るように駆け抜けて行き……、結末は前話の通りである。
ボルヴェルグも明日にでも会えると踏んで、拘束されることを是としたのだが予想は違っていた。今はどこだかの街に訪れているらしく、部下の一人が早馬を走らせて迎えに行っている。しかしそれでも時間は掛かるほどの距離があり、明後日というのはベイルの予測に過ぎない。
「明後日、ですか」
表情は包帯のせいで見えないが、声の様子から誰もが困っているのを察する。
一方、例の書状とは何だろうかとその存在をただ一人知らない颯汰少年は首を傾げていた。
「こちらから事情を説明いたしますので、早朝にでもご出発すれば騒ぎも起きないでしょうぞ」
「ふむ、仕方あるまいか。そうさせて頂きます。…………ところであの小僧、ニコラスと言いましたか」
話題を変え、人族を嫌っていた貴族の少年の名を出したボルヴェルグ。続けて発した言葉はわざとらしいくらいに尖っていた。
「感心しませんな。まるで教育がなっていない! 貴族としてではなく、人として」
急にわざとらしい台詞を吐いたな、と颯汰は訝し気な瞳で様子を見ていたが、更に続けた。
「人族と手を取り合って生まれた国であるヴェルミにおいて……優劣の考えを持つのは自由だが、それを表に出すだけに飽き足らず、弱者を甚振ろうなど愚物である他何者でもない! 止める者もいないから増長している! 最悪だ! ここを離れる前に親の顔を見てやりたかったものだ!」
苦笑いを浮かべるベイル、その部下の一人ウィルマは相変わらず人形のように感情のなさそうな顔でいた。だが、残りの一人だけが、顔から笑みを消していた。
「…………アンタに、何が分かるんだよ」
グレアムが、ザッと音を立てて鉄格子の前に接近してはそれを両手で掴んだ。物理的に格子によって阻害されているが、もし無ければ胸倉を掴むくらいには肉薄していただろう。男は静かに火が付き、激情の火は油を得たかのように一気に燃え上がった。
「アンタに!! “魔族”のアンタに何が分か――」
言葉は遮られる。同僚であるウィルマが彼の後ろ襟を掴んで引っ張ったのだ。それに驚いて喚声を上げたグレアムにウィルマが容赦なく鉄拳を浴びせた。漆喰の壁に鈍い音が反響する。
「ぐ、グーパン!?」
握り締めた右の拳固で、流れるような無駄のない素早い動きで殴り切る。女性といえば頬を平手で打つイメージであったが、彼女は問答無用で男の頬を殴った。いろいろと衝撃的な光景に、パンチを喰らった本人ではなく颯汰だけが驚いていた。
「グレアム……! 撤回しなさい」
どうにも僅かながら堪えられなかった怒りが声の内から感じ取れた。……いや、今の行動を見れば間違いなく怒っているのは明白であるのだが。
“魔族”というのは、耳長族と人族以外のとある種族たち――魔人族、獣刃族などを総じて呼ぶ蔑称である。恐ろしい事に、魔物と魔族を混同して考えている野蛮な宗教がこの世界の三大宗教のひとつであるのだが、それは別の機会で紹介するとしよう。
ともかく、この蔑称を使う事は倫理的な観点と隣国を刺激しないために禁じられている。ボルヴェルグの故郷たる隣国――『アンバード』は魔族と呼ばれて蔑まれた者たちが造り上げた国なのだから、この言葉を使うのは王命を背くどころかアンバードそのものを侮辱しているに等しい行為であり、戦争の火種とも成り得るものなのだ。
悪口を言われたから殺し合いが起こるのだろうか、と疑問を持つ方もいるかもしれないが、存外、古来から些細な口論など小さな事がきっかけで起きた戦争は幾つもあるのが現実だ。
何かが盗まれた、競争の不正が発覚した、生き物が殺された、など。始まりは本当に小さくても、人々を巻き込む不穏な渦は徐々に拡大し戦争と成り得るのだ。
そして何よりこの男を怒らせて街の兵力では抑えきれたとしても、甚大な被害を被るのは必至だ。
ウィルマがグレアムの頭を掴み、地面へ伏せて謝罪させようとしたが、檻の中の男が止める。
「いや、お嬢さん、別にいい。小僧、続けろ」
正面の檻の中の特等席でそれを見ていたボルヴェルグであるが、大して動じずに視線をグレアムに向けた。グレアムは一瞬、腫れた左頬を触ってから、とてもばつの悪そうな顔で言う。
「……部外者である魔人族のおっさんが、母親のいないあの子の気持ちが分かるのかよ」
言葉遣いが悪いせいでウィルマに片足を思い切り踏まれて悶えていると、男は嘆息を吐いた後に言い切る。
「知らぬ」
「は?」
ボルヴェルグは冷たく、たった三文字で予想外の返しにグレアムは何を言っているんだと驚く。
「わかる筈もなかろう。他人の心なんてもの。例え、最長のエルフの王と同じ時を生きても、他者の考えなぞ生涯掛けて分かるものでない。結婚しても、親子でも真に理解する者なぞいない」
男は断言する。他人が他人の心――つまりは何を考えているかを理解する事は不可能であると。
「だから人の気持ちを考えて、悩む必要があるんだ。どうすれば真に相手のためになるのか。表面だけではなく、内面までを」
ベッドの上から立ち上がり、子に間違いを諭すような口調で続ける。グレアムは、ただ圧倒されていた。
「母親がいないのは可哀想だ。だがな! 叱るところで叱らない理由にならねえ! 子供の、――ましてや答えが明白な問題の間違いを、間違いであると正さないで何が大人か!」
子を叱る役目は親だけではない。先に生きた者としてそれを伝えて正すのが大人の義務である。……そこに親子である必要はないのだが、親であれば誰かに指摘される前に自らで正すのが責務だろう。(注意を受けて逆上する者は親ですらないが)。
「――父の叱責で子との関係に亀裂が入るかどうかは分からん。それこそ神々しか存じ上げないだろう。ただ、誰に言わなければあの小僧は歪んだまま大人になるだろう。それがあの子のためになるのか? 誰かが注意せなばならなかった問題だろう! 親子とか家族など関係ない、本当にあの少年を想っているならば踏み込まなければならない問題だろうが!」
グレアムは自身を恥じて噛みしめた奥歯から、悔しさが滲み出た。苦みが奥底から全身に広がった。――如何に自身が浅はかであっただろうかと、何かを理由にして立ち止まっていたと自覚したのだ。当たり前のことに目を伏せて、気づかないふりをしていたのだ。踏み込む度胸が無く、ただ眺めていただけだったのだ。変わって欲しいと願いながらも、大したことは何一つやってあげていなかった。導いていたと思い込んでいた。
――とんだ臆病者だ
鉄格子を掴んだまま項垂れていた若者に、再び諭すように声を掛ける。まるで、檻の中と外が逆転しているように映った。
グレアムはそのまま手すりで滑りながら、膝を折っては座り込む。ボルヴェルグは立ち上がって格子越しに肩を叩いた。
「叱られないで成長する人間なんて稀だ。いっぱい叱られて、ついでにいっぱい話す機会を得た今こそがチャンスになる。……支えてやるなら中途半端は余計なお世話になるだろうさ。やるなら徹底的にお節介を焼きやがれ」
沈む若者が顔を上げる。包帯男の表情は読めないが、ニカッと不器用な笑みを見せている気がした。
答えは多種多様であるため、中には古く固まった澱みのような考えを自己満足で語る者もいるだろう。だからそういった中で使えそうなものを選ぶのが受けとった当人の役目なのだ。決して言う通りにする必要はないが、その中で響くものを探し出すのが後に生まれた者の務めとなる。
ボルヴェルグのように『自身の中の規律を他者に破られたがために感情任せに怒る者もいる』、という事を少年が知る機会となった――などという捉え方もできる。
――ふむ、話の流れで言ってしまいましたが、正解でしたな
上官であるベイルはグレアムとウィルマの行動を把握していた。それでボルヴェルグと会話した際に口を滑らせたがため彼も知ることになっていた。中途半端な奴だな、とその時は一見、興味も無さそうな態度であったのだが、まさか挑発をするとは予想外であった。しかし、結果的に良い方向に落ち着いたので安堵の息を吐く。
肩に置いていた手を離し、ゆっくり振り返って安い造りのベッドに向かいながら少し言う。顔が見えないが彼なりの照れ隠しだろうか。
「俺と息子は知っての通り本当の親子じゃあない。それでも俺は勝手に世話を焼くと決めたからには、この子が間違いをしたら必ず注意はしている。……まぁ息子は手が掛からねえいい子ではあるが」
旅の中で颯汰が怒られることは殆どなかった。強いて言えば注意が幾つかあったくらいだが、
――……あの時は怖かったなぁ
思い出して少し苦笑いを浮かべる。一度だけ、この世界に自生している触るだけで皮膚が爛れてしまう猛毒の果実――“タイラントベリー”を知らずに掴もうとした時ぐらいだろう。ボルヴェルグは颯汰を止めるべくイチイの木のような独特な赤みのあるその幹に向けて短剣を投げ刺した事があったのだ。目の高さで後ろから通り抜けて刺さった短剣を見て戦慄したのを生涯、忘れられない思い出だろう。
大きな木苺を思わせる果実から漂う甘美な匂いに誘われ、その日の夕食の足しにしようとしていたが、もし口にすればここにはいなかったのは間違いない。
そんな思い出に浸っている中、突如留置所のドアが開かれた。
壁に打ちつける大きな音を出して、慌てながら憲兵の男が失礼しますと言い入室する。ベイルが何事かと問おうとする前に、部下の憲兵が叫んだ。
「か、か、海賊! 海賊が現れましたぁあああ!!」
その場に、緊張が走った。
次話は水曜日に投稿したいなと思いつつ、日曜日は予定で一日が潰れるのでおそらくズレると思います。
投稿している頃にはカップルがいちゃつく遠方の街で独り寂しく病院へ向かってます。
メンタル壊れる。




