10.6 追想
窓から斜陽が差し込む。
寝室のベッドの上。
簡素な寝間着姿。
寝入った身体に寄り添う一人の子供を見て、「あぁ、これは夢だな」とボルヴェルグ・グレンデルは判断した。
いつだかの日常の景色が切り取られ、ただ感傷に浸るように脳内で再生される。
夢の中の自分が上体を起こすと、その小さな子供が目を覚ました。
寝ぼけ眼を擦り、欠伸をする。
そして少しの間を置いて、目を見開いて言う。
『お父しゃん!』
息子だ。まだ四歳の幼子だ。
同じ褐色肌だがほとんど妻にそっくりで、強いて言えば目元が少し、父たるボルヴェルグに近しいか。
「きっと将来、君みたいな美人になるぞ」と言うと、彼女は「あなた、毎回同じこと言ってるわよ」と笑いながら返してくれた。
ボルヴェルグ・グレンデルは英雄である。
それは紛れもない事実だ。
国を襲った巨大な魔物を退け、隣国のヴェルミまで追いかけ討ち果たしたのだ。
勿論、それには他者の協力があったからであり、また犠牲も決して無かったわけがない。
忌み嫌われる混血でありながら、彼の行いの尊さと偉大さは、民衆が認めていた。
由緒ある家から生まれた訳ではない彼は、武功を得るために剣を取って戦った。
血を流し、血を浴び、苛烈な道を歩み続けた。
そうして彼は傭兵から騎士――『英雄』となった。
功績が認められグレンデル家の婿養子となり、愛する人と結ばれた。
そうなれば、全て丸く収まると思っていた。
だが、彼には常にやっかみが付きまとう。
貴族たちは彼を『英雄』と呼ぶ事はなかった。
混血と蔑み、傭兵上がりと詰り、『死神』と嗤ったのだ。
『お父しゃん?』
『あ……、あぁあ! どうした?』
蔑称を投げかけられた記憶が蘇りかけたが、大事な息子の声に現実に引き戻された――夢であるのだが。
自分の意志に反して、というと少し語弊がある。当時のままに考えて動く肉体を俯瞰視点ではなく、自分の視点のまま再現されていた。
だから、次に来る言葉が何なのかわかる。
『ぼくも、ぼくも、“きし”になりたい! お父しゃんみたいな、かっこいい“きし”に!』
『…………そうかぁ! お前も騎士になりたいのかぁ!』
息子の頭を撫でる。無骨な大きな手が、銀色のさらさらとした髪をくすぐる。
『だから、あの……お父しゃん。……ぼくに、……たたかいかたも、おしえてくれる?』
どこか緊張して、照れ臭そうに言う我が子に、
『あぁ、いいぞ。であれば身体も鍛えねばならん! やれるか?』
ボルヴェルグは笑って答える。
『うん! ぼく、がんばる! けんもやりも、お父しゃんみたいにつよくなる!』
『ハハ。よく言った。それでこそ俺の子だ……!』
――あぁ、そうだ……
過去の記憶通りならば、この後の流れをよく知っている。
妻が旦那であるボルヴェルグを呼ぶ声。
それに返事をして、ベッドから降りる。
凝った肩に手を置き、腕を回して調子を確かめた動きも、確かにあの時やっていた。
――やめろ、やめてくれ……
だから――覆らない未来を、
これからやってくる絶望を、
全てが音を立て、壊れ始めた瞬間を――。
『? どうし……た?』
心が命じても、身体が勝手に振り返る。
視線の先には、ベッドの上に倒れる息子。
寝てしまったのかと当時のボルヴェルグは思いながら、彼に手を伸ばした時、
『……――!』
息子の尋常じゃない発汗に気づく。
苦悶して脂汗を流す我が子を見ると同時に、そこから想起された未来――つまりは体験した記憶が次々と駆け巡る。明滅する星の光の如き速さで、その先の地獄を流し込んできた。
ボルヴェルグ――未来の彼が耐えられず、絶叫し、その夢から覚めた。
「――ッァ!!」
大量の汗を流し、男は起き上がる。
周囲は暗く、自分が宿駅の貸し切り部屋に泊まった事を思い出すのに少し時間がかかった。
荒い呼吸をどうにか整えた時、夢であった事を認めた。そして夢の中で絶叫したが、どうやら現実では声に出ていなかったと知る――もう一つのベッドで連れである少年「ソウタ」と名乗った人族が静かに寝息を立てていたのだ。
数日続いた野宿で疲弊しきっていたのだろう。
愛馬であるニールを金を払って馬小屋に預け、宿を借りて部屋に到着後した途端、すぐに寝てしまったのだ。
宿の名前は「夜空と牧笛亭」。
どうやらプロクスと呼ばれる村が管理しているらしく、街道の途中に看板とその村へと続くであろう道が続いているのが見えた。
夜空と牧笛亭の一階部分は酒場も兼ねており、壁を沿う階段を登れば貸し切り部屋が並ぶ宿屋となっている。
自分の正体を隠すために顔や手足の肌が露出した部分に包帯を巻いた怪しい姿のまま、部屋に籠れば余計に怪しまれると踏み、酒屋で飲んでいる輩ならば多少なりと誤魔化せるとも考え交流する事を選んだのだが、それが裏目に出たのだろう……久方ぶりに飲んだ酒のせいで、あの“夢”を見てしまった。
肌を隠すために巻いた包帯を乱雑に取り外す。
顔だけ、露出させる。
銀の顎髭に触れて嘆息を吐いた。
「――…………!?」
そしてふと、隣のもう一つのベッドで寝息を立てている幼き少年に――何故か、自分の息子とが重なって見えた。
思わず目を見開いたが、それが幻となって消えてしまう。年も背丈も種族さえも、何もかも違うのに、つい重ねてしまったのだ。
そこでボルヴェルグは気づいてしまった。自分が何故、見ず知らずの少年の保護を進言したのか――理由としては双方を侮辱する最悪なものだと彼は己を恥じた。
追いやっていた記憶が蘇る事で自覚する。
――やはり、酒なんて飲むんじゃなかったな
有益な情報も喉を焼く旨みはあったが、その代償があまりに大きすぎた。
無論、忘れていいはずがない記憶である。
しかし今、彼にとって、それは心の負う傷が一層深まるだけなのも事実だ。
――まだ割り切れちゃあ、いない、か……
そっと両開きに窓を開けて熱を冷まそうとする。寝ている子もいるから、すぐに止めるつもりであった。
窓の外――夜は深く、遠く木々がぼんやりと光るのが見えた。名は「夜光の実」。この辺りにしか自生していない植物のはずだ。
幻想的な青い光は現実味を失わせる。
一瞬見惚れて、ボルヴェルグは我に帰り木製の窓を閉めようとした時だ。
ガタッと物が落ちる――壁に立て掛けた自身の剣が倒れた音がした。
そこへボルヴェルグが視線を送ると、鞘に納まった漆黒の剣が小刻みに震えているのがわかる。
「――む!」
鍔の装飾――紅い玉が煌めく。
それを見るや否や、ボルヴェルグは鞘ごとひったくるように持ち出し、宿から出て行く。
闇の中、蠢く存在に剣が共鳴していた。
――近くに、いる……! 間違いない!
最初は、冗談だと思った。
この国に足を踏み入れた時に現れたヴェルミの使者――いや監視者と言うべき者たちに渡された『王からの手紙』を見るまで信じていなかった。
その後、各地を回り――南部に“それ”の集中している事がわかっていた。
「鉄蜘蛛め……!」
それは、かつてヴァーミリアル大陸に跋扈した巨大な魔物の名であった。
ボルヴェルグ・グレンデルを『英雄』とたらしめた“巨神の再来”。
自身を栄光に導いたのと同時に、多くの命を奪った存在の残滓――鉄蜘蛛の「幼生体」だ。
酒場で酔っ払っていたが男たちが森で奇妙な魔物がいたと話していた事から、ほぼ間違いないだろう。
聞いた話であるが、その大きさも自身が見た「幼生体」と合致している。
本当は日が昇った後に村の方へ赴き、情報を集めてから狩ろうと考えていたが、人里に近いならば実害が出る前に倒そうと判断したのだ。
隣国の王からの「依頼」ではなく、これが自身の使命――成体の鉄蜘蛛を殺した者が成すべき事だと身体を走らせる。
「何匹いようが、叩き斬る!」
飢えた狼――或いは禿鷹の如く、獲物の仕留めに夜闇を進んでいく。
そんな阿修羅がいる一方で、何も知らぬ小さき少年――後に世界を揺るがす立花颯汰は硬いベッドでも満足そうに夢を見ていた。
次にベッドで寝られるのは一月後――そうとは当人は知らぬ事であり、今だけは安らかに眠る事を誰も咎めやしないだろう。
酒場での会話パートはカット。




