救世
光を宿さない真っ暗な瞳が驚愕に見開かれた。『魔王』が動揺している様子に俺も思わず彼女を凝視する。彼女の表情は穏やかで、動揺は微塵も見られない。俺を取り巻いていた絶望が、嘘のように溶けていくのが分かる。
「弥子……、君は……」
僕が分かるのか?
『魔王』の言葉に、彼女は僅かに微笑んだ。たった、それだけだ。それだけで俺の全身が多福感に包まれる。あまりの感情の奔流に、身を強張らせてしまう。どういうことだ。これではまるで。
これではまるで本当に俺が彼女の『従者』になったようだ。
そうして理解する。彼女に忠誠を誓った事。ただそれだけで俺は救われたのだと。今はもう、身を焦がす様だった『魔王』への憎しみも、嘘のように溶けてなくなっている。彼女にその両手で包まれた右手から、俺の持っていた全ての負の感情が吸い取られていったような心持ちだった。
彼女の為なら、俺は何でもしよう。俺を救ってくれた彼女に。
「あら、ごめんなさい。あなたを無視したつもりは無かったのよ。世良信也君」
穏やかな表情のまま彼女は、瀬名弥子は『魔王』を見つめる。見つめる。
「……凄く、不思議な気分」
彼女はゆっくりと『魔王』に近づいていく。俺はそれを止めることはしないし、『魔王』も微動だにしない。彼女は更に近づいて、『魔王』のすぐ傍で止まった。
「……私は、ずっと私自身の『本質』に『支配』という名前をつけていたわ。そして私自身を『王』と呼んでいたの。だって私に跪かない者は居なかった。私に逆らう者は、居なかったもの」
でも、もう違うの。
「私の力は、他者に依存する。他者を『支配』すればする程。その他者が優れていれば居る程、私の力は更に強くなる。そうして私は駒を集めてきた」
何の為に?
「……何の為に、私はそんな事をしてきたのかしら」
俺は耳を疑った。『本質』を持つ人間が、その意味を、意義を見失うことなど決してありえない。まして、彼女は唯一の存在である『王』なのだから。
「……私はね、救いとってあげたいと思ったの」
私が。私自身の意志で。
「何度も。何度も。もう忘れてしまったけれど。……ねえ、世良君。教えて。これは一体何度目なのかしら?」
何度、私はあなたを忘れたの?
「ずっと、救えなかった。歪められて、ずっとずっと、想像も及ばない位ずっと孤独でいたあなたを。何度もあなたと、お互いの『本質』を確かめ合って。力の及ばない私はその度に、あなたを忘れていたのね」
ずっと他者を『支配』し続けてきた。選び抜いた『従者』達を増やし続けてきた。力を蓄えてきた。駒を進める為に。
あなたを救う為に。
「……弥子」
『魔王』の表情は変わっていない。それでも、光を宿さない瞳から、零れ落ちているものがある。
「……『毒矢』は私に向けられたものだったんだわ」
彼女の言葉を理解した時、俺は喜びに震えた。そういうことだったのだ。俺は、俺の『毒矢』は確かに標的に届いたのだ。
「……私の『本質』は『支配』。他者を統べる者。でも最後の一つの駒は……私の『本質』でも『支配』出来ない力を持った者の忠誠」
それがこの世界を捻じ曲げるたった一つの駒。この世界を変えるたった一つの『毒矢』。
そして彼女は。
彼女が口を開く。
「改めてはじめまして。世良信也君。私は『救世主』。本質は『救世』」
世界が軋む。世界が歪む。『魔王』と『救世主』を取り巻いて。終わらせない。この物語を終わらせないと。
「……はじめまして。弥子。僕は『魔王』。……本質は……、『救世』」
俺は慄く。目を背けたくなるような歪みの中に、俺の主が飲み込まれていく。彼女は微笑んでいる。
「……心配しないで、大屋鳥君。すぐに、終わるわ」
そうして『魔王』と『救世主』は世界の歪みに消えていった。




