王と重圧
かけられた期待に応えること。それが私にとっての使命だと思えたし、事実そうだった。
私は、岡本涼は優秀な子供だった。勉学にしろスポーツにしろ、覚えは早く、上達も目まぐるしく、理知的で性格は明るく、常に誰かに囲まれていた。
そんな様子に両親が、ともに優秀な我が子の能力を、更に飛躍させようと躍起になった。物心ついた時には私の生活は常に習い事と塾で埋まり、私はそれをそつなくこなしていく毎日を送っていた。これといって特徴の無い、どこの家庭でも見られるようなつまらない話だ。
いつ、歯車が狂ったのか。日常と化していたはずのそんな日々に、いつしか亀裂が走る。私はまだ子供で、周囲には私の興味を引くもので溢れていた。友人たちは自由気ままに遊び、教室では流行のゲームの話題で盛り上がり、放課後には校庭で走り回っていた。
けれど私には、その輪に入っていくことは許されない。私にはやるべきことがあり、両親の期待に応えることが私の全てだった。私を囲んでいた友人達と、段々と話題がかみ合わなくなっても。気が付けば学校の休み時間を、学校の帰り道を、一人で過ごすことが多くなってきても。私は疑うことは無かった。私は正しく、両親は正しいのだと。
そしてそんな日々はあっけなく瓦解する。たくさんのものを犠牲にして、挑んだはずの中学受験に、私は失敗した。
それまでの全てが崩れ去った瞬間だった。茫然と掲示板の前に立ち尽くす私を見て、母親が微かに溜息をついたことに気が付いて、私は粉々に砕かれた。
些細な出来事だった。どこにでもあるようなつまらない話だ。それでも、私にとっては身を裂かれ、心臓を潰されるような心地だった。私にとっては両親こそが絶対だった。両親を失望させたのが、私自身だという事実に、それまでの私の自信全てが瓦解した。
そこから先は語る価値もない。私はそんな苦い絶望からやがて立ち上がり、そんな小さな事で世界の終わりのような心地だった自分自身を嘲り、そしてそんな自分を期待で押し潰した両親を恨み、ぬるま湯に浸かって無責任に生きる友人達を得た。中身の無い会話を好み、心にもない世辞を並べ、へらへらと笑いながら退屈に身を焦がす人生を得た。
「俺」は覚えていない。初めての絶望を。「俺」は忘れ始めている。あの時、「私」を殺して、粉々に砕き、心の奥底へ封じ込めたのを。這い上がれぬように、二度と頭をもたげないように私を何度も何度も何度も何度も何度も何度も!!
何度も押し潰して磨り潰して。どうして。こんなに頑張ったのに。全てを犠牲にして。助けて。何かの間違いだ。お母さん。そんな顔をしないで。頑張ったでしょう?こんなに努力したのにどうして。やめて。どうしてそんな顔をするんだ。どうして責めるんだ。やめて、くれ。壊れる。いやだ!!誰か助けて!!
「……泣いているの?」
渡り廊下の死角で携帯をいじっていた俺は、ふとかけられた声に顔を上げる。予想もしなかった相手に、硬直する。何で。目の前には瀬名さんが、後ろ手を組んで少し顔をかしげながらこちらを覗き込んでいた。やばい、マジで可愛い。何で瀬名さんが?今思い切り授業中なんじゃねーの?サボリ?まさか。瀬名さんに限ってそんなことするわけねえ。じゃあなんで?
混乱しながら何とか言葉を紡ぐ。
「瀬名さん?ど、どうしたの?こんなとこで……な、泣いてるって誰が?」
おかしい。思うように口が回らない。緊張?それにしちゃ異常だ。こんなチャンス、もう巡ってこないかもしれない。とにかく会話を繋げて、メルアドを聞き出す流れに持っていくんだ。
瀬名弥子。この学校で彼女を知らない奴は、……女は分かんないけど、男に関しては居ないだろう。「道行く人が振り返る。」そんな子がマジで存在するなんて思わなかったけど、初めて瀬名さんを見た時、俺は阿呆みたいに口を開けたまま彼女を見つめていたはずだ。それなりに女とは付き合ってきたし、自分のルックスに自信が無いわけじゃないけど、それにしても瀬名さんは圧倒的だった。恐ろしい程に整っている顔立ちに、歩き方ひとつとっても完璧で、一挙一動の存在感が尋常じゃなかった。彼女を見た初日の夜は、寝付きも悪かった程だ。
クラスメイトという立場を、利用しない手は無い。学校中の男が彼女を狙っているはずだった。事実、彼女に想いを告げ、振られる男達は冗談みたいな人数になっていた。誰もが彼女を欲しがった。でも彼女は誰のものにもならない。そんな彼女に、いつか被害者面した悪意が降りかかるんじゃないかと思うと冷や冷やしたけど、彼女に振られた奴らは妙にすっきりとしていて、彼女に想いを告げる前と後じゃ、明らかに振られた後の方が人間として成長してるような感じだった。
俺はずっと様子見だった。そもそも瀬名さんは一瀬さんと井上さんに常に囲まれていて、他の人とは話す様子ではなかったからだ。
他の奴らは知らないけれど、俺は少しはましに彼女に近づける自信があった。彼女を自分のものに出来たなら。そう思い浮かべただけで、心臓が鷲掴みにされたような気持ちになる。何だこれ。ちょっと異常だ。そう思いながらも、タイミングが掴めずに話しかけることさえ出来ない日々。
やっと巡ってきたチャンスだ。これを逃すわけにはいかない。
俺はそんなことをぐるぐると考えていた。自分の顔は見えないが、たぶん興奮で若干紅潮しているに違いない。それにしても何て綺麗な子なんだ。
「……そう?……おかしいわ。泣き声が聞こえたと思ったのだけど……」
少しだけ眉を寄せて首を傾げる瀬名さんにあり得ない位の勢いで心臓が跳ねた。
やばい。ちょっとこれは洒落にならない。やべー!!
「……ほら、ね?やっぱり岡本君だったのね」
「……は?」
瀬名さんが何を言っているのかが分からずに思わず呆ける。何言ってるんだ?俺が興奮しすぎて思考がおかしくなってんのかな。俺が何だって?
「……え?……は?」
瀬名さんが俺をじっと見つめている。俺は訳も分からずに顔を両手で擦った。
「は?何だこれ。あれ?は!?」
俺は泣いていた。後から後から涙が溢れてくる。視界がぼやけて瀬名さんの表情が揺れる。瀬名さんが微笑んだような気がした。
「え、ごめん……。瀬名さん。うわ、何だこれ……?止まんね……」
何だこれ?どうして俺泣いてるんだ?苦しい。息が。どうしてこんな。胸が苦しい。体が重い。どうして。
「……人って」
瀬名さんが口を開く。人?何の話だ。
「人って、いつからが始まりで、いつからが終わりなのか、知っている?」
優しくて、透き通るような声。ずっと聞いていたいような、柔らかな優しい声色。
「皆、忘れてしまっている。始まった時の記憶を。皆、消してしまうの。『はじめての痛み』も『はじめての絶望』も」
何を。言って。
「それは、些細なことだから。始まれば、続きがあるって、皆分かっているから。止まることは許されないから。だから、終わらせるの。そうやって、皆生きているの。何て事は無かったって。今思えば、いい思い出なんだって、そう言うの」
涙が止まらない。
「悲しい気持ちはどこに行くのかしら。つらい記憶は?苦しかったあの瞬間は?世界が歪んで、押し潰されて、助けて欲しくて、誰も助けてくれなくて。……ねえ、そんな『あなた』はどこへ行ったの?」
俺は。
「……『私』は……」
苦しい。瀬名さん。俺は、今どうなって
「……助けて……」
助けて下さい。
「お願いです……。『私』を……救ってください……」
ぼやけた視界。きっと微笑んでいるはずの彼女に向けて、声を振り絞る。
「やっぱり居たのね。……ずっと、泣いていたのね」
手を、握られる。温かくて、優しい。
「助けて、あげる」
あぁ、何てことだ。
「その代わり、お願いがあるの」
岡本君。私を守って。私の為に戦って、生きて、そして死んで欲しいの。
「……死ねるのですね」
「ええ」
「『私』は……生きて、死ねるのですね」
「そうよ」
さぁ、目を開けて。
「私と一緒に、『続き』と『終わり』を始めましょう」




