38 番外編 景綱の許嫁
特別閲覧室。
婚約が整ってしばらく経った頃のことだった。
エレオノーラは鉛筆を置いて、俯いたまま机の下で指をもじもじといじっていた。
昨夜ふと頭をよぎった疑問が、一日中、心を支配して離れない。
隣に座る景綱は、その様子をじっと見ていた。
「どうした? エレナ」
「……景綱様は、国にいらした時、藩主の嫡男であったと聞いたわ。……その、王国とは身分制度が異なるようなので自信がないのだけれど、きっと、それなりの地位にいたのよね?」
「まぁ、そうだね」
その先を言わない景綱に、エレオノーラは意を決して顔を上げた。
「……婚約者様は……いたの?」
上目遣いの問いは、なんともいじらしい。
だが、景綱は微笑んだまま固まった。
視線だけで助けを求めると、少し離れて座っていたアルベルトとエミリアは、首を横に振り、バツ印を作り、「言うな」と必死のサインを返す。
「……いなかった」
「若には千代様という許嫁がおられました」
「久蔵!!」
景綱の鋭い一喝に、一堂が震え上がった。
「武士は嘘をついてはなりませんぞ、若」
「今の私は武士ではない、王国男子だ」
「いたんだ……羨ましっ——ウッ」
つい本音を漏らしたアルベルトの額に、エミリアが投げた消しゴムがクリーンヒットする。
「やっぱり……いたのね……。いえ、仕方のないことだと思うわ。でも……ちょっと嫉妬してしまって……」
「……しっと」
不意にカタコトになった景綱の声に、エレオノーラの顔は熱くなる。
「その方は……素敵な方だった?」
景綱は少し窓の外を見やり、遠い国を想った。
「美しい女性だったと思う。けれど祝儀を交わす前で、あまり話したこともなかった。……これは本当だよ」
「……大切にしてくれてるって分かっているのに、どうしても気になってしまって。ふふっ、バカみたいでしょう?」
景綱は彼女の肩を抱き寄せた。
「そんなことはない」
「……っ! 濃厚接触だ! ……いてっ!」
またしてもアルベルトの抗議が飛ぶが、すぐさまエミリアの鉛筆が飛び、カランと音を立てて床に転がった。
景綱はそっとエレオノーラの鳶色の髪を撫でる。
彼女はその鼓動の音に耳を澄ませ、静かに目を閉じた。




