ごめん。前言撤回、ときめいた
あの時シャルルティーユは確かに令嬢の名と家名を聞いた筈だったのだが、今の今までそのことをすっかりと忘れていたのだ。
「覚えていて、くださったのですね……」
そう言ってエミリアが花が綻ぶように笑った。
その笑顔を見たシャルルティーユの心臓がどくんと大きく跳ね、シャルルティーユは慌てた。
(え……可愛い……いやいや! 私にはローズがいるし!)
「あの時からずっと、お慕いしておりました。シャルル様がまだ婚約を済ませていないと知って、どうしても、とわたくしから父にお願いをしたのです」
それは光栄なことだが、あの十五の集いからすでに三年が経っている。なぜ今頃になっての婚約打診なのか、その理由がわからなかった。
「エミリア嬢。あの時から三年も経っています。その……婚約を打診するには、少々時間が空いているような気がするのですが」
シャルルティーユがそう問いかけると、エミリアが恥じるように視線を逸らし、わずかに瞼を伏せた。
「……お恥ずかしい話ですが、わたくし、昨年幼少期よりの婚約を解消しているのです」
「婚約を、解消?」
「はい。わたくしと婚約していた家との事業がなくなりましたので、双方納得の上での解消です。政略の上で結ばれた婚約など、脆いものですね。けれどわたくしとしてはそのおかげでこうしてシャルル様にもう一度お会いすることが出来ました。今では婚約解消に感謝しています」
エミリアがまっすぐにシャルルティーユの瞳を見つめた。
「シャルル様、突然のお話にさぞ戸惑った事でしょう。どうぞシャルル様の正直な心の内をお聞かせください。わたくしに遠慮はいりません。わたくしはあなたに恩があるのです」
「恩など……そんなおおげさな」
シャルルティーユとしてはむしろエミリアのおかげで面倒くさい集いから早く解放されたのだから、お礼など言われるほどのこととは思ってもいない。
むしろこちらが礼を言いたいくらいである。
「いいえ。あの時のわたくしは自分が恥ずかしくて、惨めで仕方なかったのです。ですがシャルル様が特別なことなど何事もなかったかのように、現実を変えてくださいました。いえ、何事もないどころか、あの事があったから、わたくしはシャルル様を知ることが出来たと思えば、あの時の方たちに感謝の念すら湧いてきます」
(やっぱりワイン、かけられたのか……)
エミリアにワインをかけたという相手にわずかな怒りを覚えたが、エミリア自身がもう気にしていなさそうなので、すぐにその怒りは静まった。
それよりもと、正直にとエミリアに言ってもらったのだから、シャルルティーユは己の心の内をエミリアに話すことにした。
「……エミリア嬢。申し訳ありませんが、私には想う相手がいるのです」
シャルルティーユの言葉を受けたエミリアが悲しそうに眉根を寄せた。その表情と全身から醸し出される雰囲気は悲壮そのものだ。だんだんと下がっていくエミリアの視線を、シャルルティーユは申し訳ないという思いいっぱいで見つめていた。
「……それでも良いのです」
エミリアが俯けていた顔を上げると、その瞳には涙が浮かんでいた。その涙を見たシャルルティーユの胸が、今度はツキリと痛む。
「ですが……」
「想う方がいて、まだ婚約を済ませておられないということは、そのお方とは身分が違うのではありませんか?」
確かに平民と名乗っているローズとは身分が違う。だが正確に言えば、ローズの身分ははっきりとはしていない。少なくともシャルルティーユはそう思っている。
「エミリア嬢……」
「もしも! ……もしもそのお方のことが忘れられないのなら、その方をお迎えすることも可能です」
エミリアの言葉に、シャルルティーユは一瞬頭の中が真っ白になった。
「それって……」
(それって、ローズを愛人にということ?)
「どうぞお考え下さい、シャルル様。そしてまた後日改めて、お返事を」
***
「で? まさかローズ殿を愛人になどなさるつもりじゃないでしょうね?」
訓練に顔を出すやいなやガスパールからかけられた言葉に、シャルルティーユは唾を飲み損ね、盛大に咽た。
げほげほと咽こんでいると、ガスパールが背中をさすってくれた。この男は妙なところで優しいのだ。
「大丈夫ですか? やましいことがあるからそんなに慌ててるんじゃないんでしょうね?」
「なん……なんで、知って」
そう言ってしまったあとに、シャルルティーユは己が失言したことを悟った。シャルルティーユの言葉を聞いた瞬間、ガスパールの顔がかつてない程の怒りの表情を浮かべたのだ。
その表情を見たシャルルティーユの背筋に、ダラダラと冷たい汗が伝う。
「誤解だ! なんで君が私とエミリア嬢の会話を知っているのかという意味だ!」
本当になぜあの時の会話の内容をこの男が知っているのかまったくわからない。よもや扉の向こう側で聞き耳を立てていたのかと疑っていたが、どうやら違っていたようだ。
シャルルティーユの顔色から言いたいことを読み取ったらしいガスパールが、先手を打って来た。
「別に会話を聞いていたわけじゃないですよ。坊ちゃんが先日公爵家のご令嬢とお見合いをしたことは邸内の全員が知ってます。当然、俺も知ってます。ご令嬢の情報を調べたのは俺ですからね。そんで、坊ちゃんの気持ちを知っている俺としては、ローズ殿のことをどうするのかなあと、心配になっただけですよ」
一応は己を心配してくれているらしい師に、それでもシャルルティーユは唇を尖らせた。
「……ローズを愛人になんか、するわけないだろ」
シャルルティーユがそう言えば、ガスパールのこめかみがピクリと動いた。
「するわけないですか。……へー」
「だから……そう言う意味じゃない! そんな失礼なことは出来ないという意味だ!」
シャルルティーユが大声でそう言うと、ガスパールは一瞬後静かに口を開いた。
「では、あの公爵家のご令嬢をお迎えするんですか?」
「……断った」
考えてくれと言ったエミリアに対し、シャルルティーユはあのあと正式に、エミリアに断りを入れた。
「……よく断れましたね」
エミリアは最初もっと考えて欲しいと言っていたが、最終的にはシャルルティーユの気持ちを受け入れてくれた。きっとそれ以上リーガン公爵家からの追及がなかったのも、エミリアが口添えしてくれたからだろう。
「エミリア嬢に感謝しなければね……」
(……結局私の身体のことがはっきりとわからない限り、誰を妻としても跡継ぎが出来るかはわからない。……というより、本当に本番で出来るのかもわからないってことが、一番の問題点なんだよな)
けれどさすがにこの問題に関しては試す気にすらならない。成功してもしなくても、いや、もし成功してしまった場合、自分の心とどう折り合いを付ければいいのかわからないからだ。
(こういうことを相談するとしたら……きっと一番適切な相手はガスパールなんだろうな)
シャルルティーユは己の目の前に立つ男を見上げた。
髪はボサボサで、髭面。けれど鋭くも目尻のスッとした瞳と高い鼻筋を見れば、髭を取ったあとのその顔は、おそらく整っているだろうことは明白だ。それに強い。
(多分、そこそこ女性に人気があるはず……)
ガスパールがこの領地へ来た当初、アーガスティン家の使用人の女性たちの間でガスパールの事が噂になっていたのを、シャルルティーユは何度か聞いたことがあった。
「……ねえ、ガスパール」
「なんですか?」
うっかりと話しかけてしまったシャルルティーユは、しまったと思い一瞬口を噤むも、だが話しかけてしまったものは仕方ないと開き直った。
多分、聞いたら驚かれる。
そして目的を言ったら軽蔑される恐れもあった。
だがぐだぐだ悩んでいるよりは聞いてしまえと、シャルルティーユは覚悟を決めた。
「あのさ……。娼館って行ったことある?」
「……あります、けれど」
ガスパールが普段とは異なり、かなり言いづらそうに口ごもった。こんな明け透けな男でも羞恥心があったのかとシャルルティーユは妙に感心した。
だがこれなら繊細な問題も相談できるのではないかと思い、シャルルティーユはずっと考えていたことを口にしてみた。
「一度、私を連れて行ってくれないか?」
「……! な、なんでいきなり、そんな」
目に見えて慌て出したガスパールに対し不審に思いながらも、シャルルティーユは己の考えを告げた。
「私は家の方針で、褥教育の実技を受けていない。だが妻を迎えるにあたって、さすがにそれでは駄目なのではないかと思っていたんだ」
本当は家の方針ではなくシャルルティーユの身体の問題なのだが、一生独身を通すならまだしも、妻を迎えるとしたらさすがに形だけというわけには行かなくなる。それでは嫁いで来てもらった妻に対して申し訳が立たない。
呪いの弊害なのかはわからないが、気持ちは別としても、シャルルティーユはおそらく同年代の男性に比べて性的欲求が弱いのではないかと思っている。むしろそういった欲求はほとんどないと言ってもいい。
それが正常か否か。娼館に行って女性の身体を見るだけでも、ある程度の感覚は掴めるのではないかと思ったのだ。
「……すみません。少々虐め過ぎました。坊ちゃまに娼館は早いです。やめときましょう」
「早くはないだろう。もう妻を迎えても良い歳だ」
「やめましょう! やめときましょう! 大丈夫です! その時になったら自然とどうにかなります!」
どうにかなるかどうか不安だから言っているのに、シャルルティーユのその焦りと不安は、ガスパールには伝わっていないようだった。
(仕方ないか……。ガスパールは私のことを正真正銘生まれた時からの男だと思っているんだ)
エミリア嬢の求婚を断るのは罪悪感もあったが、結婚後のことを考えれば、やはり断ったのは正解だったということだろう。
そもそも他に好きな相手がいるというのに妻を娶ることなど、甘いと言われようとも、シャルルティーユには出来ないのだ。
(どうすればいいんだろう、私は――)
シャルルティーユの悩みは尽きない。
いっそ、女性に戻ることをシャルルティーユが諦めたと両親に宣言してしまえば、それですむのだろうかとも思う。
(このまま男性として生きて行くか、いつか元に戻ると仮定して生きて行くか……)
しかし己に対するこの問いは、いつも堂々巡りなのだ。
先の見えない不安に、シャルルティーユの胸は押しつぶされそうだった。