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九:泣く聖獣




 蛇川(へびかわ)を乗せたフォード車は真っ直ぐ京橋へと向かった。

 鴛鴦(おしどり)組の事務所は新橋にある。それを知る蛇川はすかさず不審の声を上げたが、ギンこと銀次は「ええから、ええから」と笑うばかりだ。


 やがて車は一軒の料亭の前で停められた。門前に立派な松の木が植わえられた老舗料亭だ。

 車を降りたのはギンと蛇川、それと若衆のうちひとりだけ。ハンドルを握るもうひとりは車に残った。


「あら、ギンさん」


 三人が門前に立つと、島田髷の仲居が迎えに出てきた。小さくて肉厚な唇が愛らしい女である。


「……ご参拝ですか?」


「そそ。チカちゃんは察しがよぉて助かるわあ。三名様でよろしゅう頼んます」


「はいはい、こちらへどうぞ」


 慣れた様子でぽんぽんと言葉を交わすと、仲居は先に立って歩き始めた。蛇川は頭上に疑問符を浮かべながらも、促されるまま靴を脱ぐ。


「なかなかええ女でっしゃろ」


 歩きながらギンが囁く。それには答えず蛇川が言った。


「どこへ連れて行くつもりだ」


「そら、事務所です。ま、すぐに分かりますわ」


 三人は奥まった座敷に通された。中には座布団が数枚敷かれていたが、膳はなく、仲居が障子を閉めてしまっても誰も席に座らない。蛇川がいっそう不審に思っていると、今度はギンが先頭に立った。

 案内も乞わずに部屋を突っ切ると、そのまま反対側の襖に手をかける。その先は薄暗い部屋に続いていた。


 そうして幾つかの部屋から部屋へ、ひと気のない空間ばかりを通り抜けると、やがて勝手口に出た。

 見れば、土間のところには入り口で脱いだ革靴が三足、きれいに並べられている。それを見て蛇川にも合点がいった。


「……通り抜けか」


「そうです。旦那は堅気のお人やからな。万が一にも妙な奴らに目を付けられんよう、念には念をっちゅうやつですわ。ご面倒でしょうけど、堪忍してください」


 なんせワシらには敵が多い。ぼそりとそう呟くギンの声は、薄っすらとどこか冷えていた。


 勝手口を抜けた先にもフォード車が停まっていた。先程とは別な男が運転席に座っている。

 それを見た若衆が傘も差さずに駆けてゆき、裏道の左右に素早く視線を巡らせる。再び慌てて戻ってくると、無言のままギンと頷き合い、手にしていたこうもり傘を広げてふたりに差し掛けた。


「ほな、行きましょか」


 平然と先を行く男の背中を、蛇川はまるで見知らぬ者を見るかのごとき心地で眺めた。



 次に走り出した車は、今度は新橋にある雑居ビルの裏口に停められた。廃ビルと同じく四階建てのこのビルは、ビル全体が鴛鴦組の所有物だ。

 一階には飯屋が入っており、こちらは近隣住民の出入りもあるが、二階・三階は鴛鴦組の事務所である。四階のバーもこれに類するものと思っていい。


 傘を差して後部座席に走り寄る若衆を片手で軽く制すると、蛇川は中折れ帽を目深にかぶり、裏口へと駆け込んだ。


「ああ、先生。悪かったな」


 三階に上がると吾妻(あがつま)に出迎えられた。

 今日の彼はもちろん、情報屋ではなく極道者としての出で立ちだ。いつもはざんばらに垂らしている長めの髪は、前髪もまとめて全部後ろへと撫でつけられている。


「変わったことはなかったか、ギン」


「へい、抜かりありません」


「ご苦労さん。先生、悪いが早速来てくれ。親仁(オヤジ)も奥で待っている」


 その言葉にひとつ肯くと、蛇川は吾妻の後についてビルの深部へと足を進めた。


 鴛鴦組の事務所を訪ねるのは初めてのことだ。見たところ、二階は若衆の詰め所で、ここ三階はいくつかの部屋に分かれているらしい。

 どんな用途があるとも知れない部屋を通り過ぎていくと、やがて頑強な扉の前に出た。錠の作りからして他の部屋とは趣が大きく異なる。


「親仁、先生が来ました」


「おう、入ってくれや」


 中から圧し殺したような低い声が返ってくる。吾妻は蛇川にちらりと目線を向けると、分厚い扉を押し開けた。


 中はどうやら居住スペースになっているらしい。ひと目見ただけで上質と知れる家具が並べられ、いくつかの調度品も飾られている。

 おそらくは組長が臨時で用いる仮住まいなのだろう。あまり生活臭がしないのは、普段は別場所にある自宅で過ごしているからに違いない。


 部屋の主・鴛鴦呉壱(ごいち)は、樫の杖をついて立っていた。


 正絹(しょうけん)の着物をどしりと着こなす、堂々とした立ち姿。重厚な品格を漂わす雪色の髪。加齢のために肌は黄色く、その表面にはシミも目立つが、眼光だけは今なお衰えず炯炯と鋭く光っている。

 しかしどうしたものか、この日ばかりはその目の周りを鉛色の隈が囲っていた。大正の怪物とまで言われたこの男でも、遅くに生まれた愛娘の大事とあっては心がすり減るものらしい。


「ああ、先生、よう来てくだすった。経緯は銀次から聞いてますかな」


「はい。娘さんは」


「奥に寝かせている。こちらへ」


 さらに扉をひとつ隔てた向こうには、大きな寝台が置かれていた。六尺近い蛇川の頭の先から爪先までを、横幅だけでまかなえそうな大きさだ。

 その中央をわずかに窪ませ、鴛鴦花乃(はなの)が眠っていた。


 失礼、と小さく断ってから、蛇川は寝台の上に腰掛けた。

 花乃の細っそりした腕を取ると、手首にそっと指を乗せて脈をはかる。その心の音は花乃の腕よりもさらに細く、か弱い。


 次に蛇川は花乃の口元に顔を寄せた。呼吸は、ある。幾分ゆるやかに感じられるが、就寝中と思えばそう異様ではない。

 しかし体温は低い。頰の色も薄い。なにより、心音の弱さが気掛かりだ。それに……


 目を閉じ、花乃の額に己の額をつけて窺っていた蛇川は、ゆっくりと寝台の上で起き上がった。


「やはり僕の領分だったか」


「先生」


 不安げな顔で立ち尽くす呉壱を振り返ると、蛇川は垂れた前髪を指で払った。


「どうやら、夢を喰われてしまったようですな」


 夢、と呉壱が繰り返す。長年の喫煙と怒声のために、呉壱の喉はすっかり潰れてしまっている。


「ええ、夢です。夢は、幽明の狭間に渡された橋のようなもの……悪い夢を見たことは?」


「あります。胸糞が悪くなるようなやつを」


「そういう時、貴方は限りなく彼方(あちら)の世に近付いてしまっているんですよ。眠りの中でね。()の世の悍ましい種々を写し取った橋、それが悪夢となる。そいつがすっかり失せてしまえば、彼方側から還ってこれず、眠りから覚めないままとなる。ところで、紙と書くものを借りられますか」


 用意された紙と鉛筆を手に取ると、蛇川は大急ぎで何事かを書き付け始めた。それを、呉壱の後ろで控えていた吾妻へと振って示す。


「ここに書いているものを店から持ってきてくれ。在り処はくず子さんに訊けば分かる」


「構わないが、先生はどうするんだ」


「僕は寝る」


 はあ、と吾妻と呉壱が同時に頓狂な声を上げた。


「彼女の夢を喰った輩を(とら)まえるのだ。そのためには奴を誘き寄せるための餌がいる」


「餌……先生が餌になるのか、それはまたご大層な。しかし、先生まで夢を喰われちまったらどうするんだ」


「ハハ! その時は僕も還ってこれなくなるだろうね……いや失敬、笑い事ではなかった。まあ、それを防ぐ仕掛けがそれらだ。そこに書かれている通りにやってくれればいい」


 吾妻は手渡された書き付けに目を落とした。根皮、薫陸(くんろく)甘松香(かんしょう)に云々……それと白梅香。

 最後の一点だけは吾妻にも分かった。どうやら書かれているのはどれも香の種類らしい。以前、鬼は白梅香の薫りを嫌う、と蛇川が言っていたことを覚えている。


 神妙な顔付きで書き付けを見つめる吾妻に、蛇川がくつくつと喉を鳴らした。


「頼むぞ、吾妻。まだ僕を死なせんでくれ」


 その口振りで冗談だろうとは分かったが、吾妻は眉を垂れ下げた。


「荷が重いな」




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