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一七:一〇〇戦目の行方




 桜が見頃を迎えている。


 日本橋三越では、春の大売り出しに向けて華やかなポスタァ・エンゼルが発表された。

 杉浦非水(ひすい)の筆によるそれを見た若い女性らは、壮大なる白色宮(ホワイトパレス)への憧れを大いに募らせた。広大な敷地を誇る売り場は、女性らの物欲と自尊心とで溢れかえっていることだろう。


 一方、こちらは銀座の片隅にある定食屋『いわた』。

 日本橋の花々しい喧騒とは打って変わって、こちらは常の佇まいを維持している。変わったことがあるといえば、定食の付け合わせに菜の花のおひたしが加えられたことぐらいだろうか。


 そんな細やかな春の訪れにもまるで気付かないのが、近所のおんぼろビル、通称・廃ビルに店を構える骨董屋亭主・蛇川(へびかわ)だ。

 彼が頼むのは通年変わらず、大阪は北極星直伝のオムライスである。いい歳をして食わず嫌いの悪癖が抜けない蛇川用にと、使う具材にも特別な配慮がなされている。


 亭主の気配りと真心がこもったそのオムライスを、しかし蛇川はいつも、まるで飲み物かのごとき勢いで口の中へとかきこんでいく。

 消化に悪く、何より行儀の悪いその食べ方には何度も指摘が入っているが、しかしいっかな改善されないのでうっちゃりになっているのが実際のところ。然るべき場では上品ぶって食事することもできるのだから、テーブルマナー自体を知らぬわけでもないだろうに、ここ『いわた』では好き放題にやっている。


 凄まじい勢いで食べ終えてしまうと、すぐさま店を飛び出して行くか、あるいはそのまま腰を落ち着けて吾妻(あがつま)と種々の雑談を交わすか、哀れな山岡巡査を揶揄(からか)うか、熱心に新聞を読むのが常の光景だ。


 しかし、今日はどうにも様子が違った。

 というのも、珍しいことに、蛇川が食事を終えるタイミングを見計らって亭主が声をかけてきたのだ。


言伝(ことづて)だ、あんたに」


 寡黙な亭主は、それだけを言ってメモ書きを差し出すと、すぐまた片付けへと戻ってしまう。


 何気なくメモ書きを受け取った蛇川だったが、しかしそこに書かれた内容を見るなり表情が一転した。

 ぎりり、と音が鳴りそうな勢いで眉間に険悪な皺がよる。濃紺の背広が風もないのにぶわりと膨れる。


 雷雲襲来。

 遠くで轟くおどろおどろしい嵐の音が、定食屋『いわた』を震わせる。


 これにいち早く反応したのは女給のりつ子だ。


「……吾妻さん、お願い」


「ええッ、アタシ?」


 のっぴきならない気配を察知し、りつ子が吾妻の袖を引く。若いうちから客商売に生き、酔っ払いやら無頼漢やらをあしらってきたりつ子は、危機回避能力がずば抜けているのだ。


 いわゆる厄介ごとを押し付けられた形の吾妻は、仕方なく蛇川の手元を覗き込んだ。


 そこには亭主の文字でこう書かれていた。


 ――二六七四殿(ドノ)


「……何、これ」


 さっぱり分からない。そもそも、言伝といっておきながら、この内容では相手が誰かすらも判然としない。


 途端、メモ書きを握り潰した蛇川が、ぐるんと首を廻らせて吾妻を睨みつけた。

 血走った目、振り乱された髪、獰猛な息を吐く唇。尋常でないその様子に、吾妻が思わず身を引きかける。しかしその胸ぐらに、蛇川が猛然と掴みかかった。


「へ、蛇川ちゃん、ちょっと……」


「髭の処理跡が少し荒れているのは慣れない剃刀に肌が負けたため、つまり朝の身支度は他所で済ませた、外泊の証拠だ。そして高級な白粉の匂い、ははあなるほど、昨夜は随分とお楽しみだったようだがしかし馴染みの店ではない」


 突然、題目を唱えるように蛇川がぶつぶつと呟き始めた。唇をほとんど動かさぬまま忙しなく言葉を吐き出しつつ、どこか焦点の合わない瞳を吾妻の全身に走らせている。

 熱に浮かされたように呟きが速さを増すにつれ、その声はどんどん大きくなっていく。


「あの店に行けば近くの山村屋で金平糖を買ってくるのが常のことだが懐に硝子瓶の膨らみはないし、それにあんたの口から漂うその臭いは敷島じゃない、そうだカメオだ! なるほど煙草を切らしていたな、僕の知る限り日常的にカメオを吸い且つあんたと女遊びに出掛ける程の仲の男といえば(ギン)ただひとり、つまりあんたは昨夜狐の紹介でいつもとは違う店で女を買ったが、少し浮腫(むく)んだその顔を見るに実際のところあまり満足できなかった……」


 ここまでを一気に、それも恐ろしい早口でまくし立てると、蛇川は髪を振り乱して吾妻に迫った。


「どうだ間違っているか、僕は愚かか!?」


 シン、と店内が静まり返る。

 聞こえるのは蛇川の荒い息だけだ。


 五分にも十分にも思われる長い長い沈黙の後、疲れ切ったようなため息が店内に満ちた。言わずともがな、ため息の主は吾妻だ。


「……全部、正解。だけど蛇川ちゃん、貴方は愚かよ」


「何故だ!」


「あのねェ……そういうことを昼日中から大声で叫ぶ奴がいるかってンだ、バカヤロウ」


 妙に甘ったるい常の声とは打って変わってドスのきいたその声に、蛇川がようやくはたと我を取り戻した。


 片手で顔を覆い、項垂れる吾妻の胸ぐらを掴んだままで店内を見回すと、りつ子や女性客らはもちろん、山岡巡査、『いわた』亭主までもが揃ってこちらを凝視していた。山岡などは、箸を取り落としたことにも気付かず、ぼんやりと右手を上げたままだ。


 転がる箸がテーブルから落ちると同時に、蛇川はゆっくりと胸ぐらから手を離した。


「……悪かった……のか?」


 途端、今度は吾妻がその両肩を掴んだ。きょとりとしたままの蛇川の身体を前後に揺さぶり、わっと甲高い声を上げる。


「悪いもなにも、最悪よ! ああッ、ほら、見てごらんなさいりっちゃんの顔を!」


「ええいッ、揺すったら見られんだろうが!」


 珍しく謝ったかと思えばすぐに怒る。蛇川は吾妻の両手を煩わしげに振り解くと、言われた通りにりつ子の顔を伺った。


「最ッ低」


 丸盆で顔の半分を覆い、冷ややかな目で両人を睨めつけると、りつ子はぷいと奥の方へと引っ込んでしまう。りつ子のこの科白――「最ッ低」――の輸出先は蛇川が独占していたはずであるのに、今日ばかりは吾妻にも非難の矢が飛ぶ。ああッ、と吾妻がまた泣き声を上げた。


「最悪よ……せっかく築き上げた信頼関係が。アタシになんの恨みがあるって言うのよぅ……」


「なんだ、あんた達そういう関係だったのか。そりゃ失敬」


「勘違いも無配慮もここまでくると天晴れだわ。アタシはねぇ、良き友人としての信頼関係を言ってるの!」


「クソッ、いちいち女々しい奴め。だいたい、行って悪いなら何故女郎屋がある!」


「行くのは自由でもおおっぴらに言うのは憚るものなの! もうッ」


 吾妻は腕を伸ばして皺だらけのメモ書きを奪い取ると、開いて蛇川の鼻先に突きつけた。


「恥をかかせた分の責任は取ってもらいますからね。これ。なんなの?」


 蛇川は今にも噛み付かんばかりの形相でメモ書きを睨んでいたが、これ以上吾妻を怒らせるのは下策と見たか、不貞腐れながら顔を逸らした。頬杖をつき、いかにも忌々しげに吐き棄てる。


「……二六七四は戦績の予言だ。二六勝七四敗……唯一僕が認めた敵からの、一〇〇度目となる頭脳対決への(いざな)いであり、許しがたい挑発だ」


 思いもよらないその言葉に、吾妻は怒りを忘れて目を瞬かせた。


 唯一、蛇川が認めた『敵』。

 凡愚を嘲笑(わら)い、人を人とも思っていないようなこの男ですら、その実力を認めざるを得ない相手とは。


「しかし、その敵とやらも大したもんね。蛇川ちゃんから二六勝も取るなんて」


「違う。二六勝は僕だ」


「……え?」


「現在の戦績は二六七三……だがあの言伝、野郎、面憎しくも『一〇〇戦目も己が勝つ』と挑発してきやがった! だが、いいか、この一戦を取るのは僕の方だ。二七七三と書き直したテクストを、奴のしたり顔に叩きつけてやる! わははは!」


 目を血走らせ、額に青筋を浮かべて蛇川が笑う。

 もはや見慣れてしまったその恐ろしい笑顔よりも、蛇川の放った言葉自体が吾妻を当惑させていた。


 毎度毎度、推理の細かさ・確かさ・そして早さで周囲を圧倒し、驚嘆させ、畏怖せしめ、時に恐怖をさえ抱かせるこの男が、幾度となく闘い、そしてその大半を負けに甘んじる。蛇川自身の口から聞いたとて、とても信じられることではない。


 吾妻の困惑を読み取ったか、蛇川が半ば自嘲気味に唇を歪めた。彼にしては珍しい、卑屈な色の混ざった笑みだった。


「仇敵の名は『アクツ』――蛇川(あくつ)。血を分けた僕の弟だ」




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