静かな変化
私は洗濯が好きだ。特に縦型洗濯機の音が好き。水が渦巻く音を聞いていると、洗濯物の汚れが落ちてゆくのがよく分かるような気がするからだ。幼い頃はよく勝手にフタを開けて、母に叱られた。洗濯機が止まってしまうのは分かっていたが、どうしてもフタを開けてしまった。
その夜は、何度も何度も洗濯機のフタを開けて確認してしまった。ハンカチ1枚で洗濯機をまわすのはどうかと思ったが、私の服と一緒に洗う訳にもいかないので仕方なかった。彼の、隼人さんの、ハンカチがきちんと洗われているのか気になってしまい、そのハンカチを見るたび自分の気持ちが分からなくなった。静かな1LDKの部屋の中、洗濯機の音だけが響いて何も考えられなくなった。
まるで渦のようだった。
目を閉じると、この部屋がまるで洗濯機のようだった。その時々で水の混ざる音が変化し、自分が洗われている感覚になった。手足がふわふわして、私の中から嫌な汚いものが落ちていった。徹也の事も、あのゆるふわ女の事も、もう何も無かった様な気がした。残っていたのはハンカチだけだった。
次は明後日と思ったところで意識が無くなってしまい、ハンカチは洗濯機の底に沈んでしまっていた。
その明後日はとても寒かったが、よく晴れていた。
青いワンピースにダークグレーのコート。黒いマフラーを巻いて家を出た。もちろんバッグの中には洗濯したあのハンカチが入っていた。
10時に国分寺駅。
初めて会って、連絡先も知らない人と約束をするなんて思ってもみなかった。そして私がその約束を、楽しみに待っていた事も私自身が一番信じられ無かった。だからあえて暗い色の服を着て行った。あまり浮かれないように、あまり信じきらないように、と。
「おはよう、待たせちゃった?」
隼人さんのその一言はとても優しく、私をとても後悔させた。
「いえ、さっき来たところです」
「そっか。それなら良かったよ。寒いし申し訳ないなと思って」
「あの、この間は本当にありがとうございました。これちゃんと、」
「ねぇ」
彼は優しいけれどしっかりした声で、私の言葉を遮った。
「今日1日、僕にくれないかな?奈緒子ちゃんのこと知りたいんだ」
私は本当に心から後悔した。もっと明るい色の服を着てくれば良かったと。
私達は、ぎこちない距離を保ちながら殿ヶ谷戸庭園を散策した。
薄い青色の空に紅い葉がよく映えていた。隣接する公園から子供達の声が聞こえるが、かえって庭園内の静けさを強調しているようだった。
私達は、本当に初歩的な話をした。
隼人さんは3人兄妹の次男で、妹さんとは双子な事。生まれも育ちも東京な事。落ち着いた雰囲気だか、1つ年下な事。ご両親は教師で小さい頃から鍵っ子だった事。昔は左利きだった事。ジョギングが趣味な事。今までの彼女達には優しすぎるからフラれた事。ナンパしたのは初めてだった事。(あれは果たしてナンパに入るのだろうか…)
私も、2人姉妹の長女な事。妹とは6つ離れている事。千葉県出身な事。両親は共働きな事。(妹が生まれ、3歳まで母は専業主婦だった)小学生から高校生まで、バドミントンをしていた事。今までの彼氏達には散々なフラれ方をしている事。ナンパされたのは初めてだった事。
お互いがお互いの歩調に合わせて、ゆっくりと歩き、たまに触れる隼人さんの左手に、私の心臓は鷲掴みにされた様に感じた。
彼の左目尻にあるホクロは彼の優しさを強調し、同時にセクシーさをも強調した。
耳に心拍音がうるさかった。
1時間半程で庭園を一回りして、私達は昼食にする事にした。駅ビルにレストランが入っていたが、せっかくなので他にお店を探す事にした。しかしこれが大きな間違いだったのだ、なにせ国分寺駅前は坂道が多く、目的地のはっきりしない移動は大変だった。
「ちょっと坂道しんどいね」
隼人さんは苦笑いしながら私に微笑みかける。
「そうですね」
私の心臓は彼の左手と、この坂によって占領されてしまい、何か気の利いた事を言うための血液など送れる状態では無かった。このままだと死んでしまう、とさえ真剣に思った。
「メロンパンは好きですか?」
「え、まぁ甘いものは好きだよ」
「あの、お昼ご飯と言うにはあれですけど、メロンパンの専門店があるんです、駅の反対側なんですけど」
「そうなんだ。じゃぁ、そこに行こうか」
私達は坂を登り切り、駅を通過して北口を出た。
「国分寺駅は南口と北口で、だいぶ印象が違うね。こっちはみんな忙しそうだ」
「えぇ、南口は少し歩くと住宅街ですから。それにこっちはマンション工事をしているから騒がしいですよね」
「あれマンションだったんだ、駅ビルかと思ったよ」
「大きいマンションですよね」
北口からずっと真っ直ぐ歩いて、アルテリアベーカリーに着いた。ここに来るのは特別な事があった時だけだ。そしていつも全種類買って帰る。
「メロンパンなのにイチゴ味やシナモン味があるんだね、珍しいよね」
「まぁ、専門店ですからね」
「そうだね、専門店だからか」
結局、私はシナモン味を買い、隼人さんはプレーンを買った。
コンビニで飲み物を買って、並んでお昼にした。まるで学生みたいだった。
「あの、今日はなんかごめんね」
「はい?」
「完全に失敗しちゃったよ、もっとちゃんと下調べしておくんだった」
「いえ、私こそ気の利いた事も言わず…」
「だからさ、今度はちゃんとエスコートさせて欲しいんだけど」
「はい?」
「今日すぐに約束は出来ないから、連絡先教えて欲しいなーって思って」
「えっと、ハンカチを返さないと」
「連絡先を教えてくれたら受け取るよ」
隼人さんは意外と押しが強く、アグレッシブな人だった。
私達はラインを交換して駅に向かった。羊を被った狼では無く、迷彩服を着たライオンだと思った。彼は常に前線にいる。
「じゃぁ、また今度ね。連絡するから予定を立てようね」
「あぁ、はい。分かりました。今日はありがとうございました」
「あのさ、次からは敬語なしね。それと次回の日にちはまだ分からないけど、時間は夜ね」
彼は優しい顔で笑い、あっと言う間にJR線の人混みに消えてしまった。
私はきっと間抜けな顔で見送ったに違いない。確実なのは、私の口元は緩んでいた。
結局ハンカチは私の鞄の中にいた。




