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カメリア  作者:
6/6

 6.四月






 6. 四月


 みすずがいつか、春が嫌いだ、と言っていたのを思い出した。

 いつか――そう、最後に修司のアパートで会った日だ。性交のあと、シャワーを借りて戻ってきても裸のままソファでだらん、とのびたままでいる彼女に「風邪引くぞ」と声をかけた。


 ――ひかないもん。あったかいから。

 ――まあな、きょうは四月下旬並みの気温らしいから。


 風邪は引かないかもしれないけどおそわれちゃうぞー、とふざけて彼女に跨れば、そのしたでみすずは仏頂面になって「だからか」と言った。

 なにが『だから』? たしかに春だからいつもよりも発情しているかもしれない、と告白すれば、みすずは、馬鹿すけ、と呆れかえって言った。


 ――春って嫌い。いくら寝ても寝ても、からだが怠くて起きれない。

 ――たしかにそうかもしれないけど。


 春にだって、よき点はたくさんあるんだぜ、とおれは春嫌いだという彼女に説いた。

 たとえば、彩りうつくしい花々。それの上をふらりふらりと舞うモンシロ蝶も愛らしい。晴れた日に干した布団の匂いは、かくべつにこうばしいし、登下校に自転車で川沿いを走るのも気持ちいいだろ? おれは好きだったけど、晴れた春の日の通学ってさ。

 この日も、営業の合間を縫って、春休み中のみすずに会いにきていた。正午前。窓から差し込む太陽の光が白い。とおくの山々は白い空気にとけて、ぼんやりとしている。春霞。黄砂も飛んでいるかもしれないが。


 ――おひさまの匂い。


 とろん、とした目でみすずは言った。そうだ、いいだろ、と言えば、彼女は険しい顔をした。そいつがあたしの真の敵なのよ、と言って。

 一昨年の夏の事故のあと、みすずの精神バランスはひどく崩れた状態だったが、修司と一緒に暮らすようになってしばらく経つとなんとか持ち直し、回復に向かっていた。ところがそれからまたしばらくが経つ頃、ふたたびバランスは崩れ、不眠症に陥った時期があった。医者に処方された睡眠薬を摂っても夜は一向に眠たくならず、日がのぼると今度はどっと眠気が押し寄せてきて、高校で授業を受けている途中、食事をしている途中、歩いている途中、ひどいときには自転車を漕いでる途中などに、睡魔は容赦なく彼女を襲った。居眠り運転をして転び、幾度となくからだのあちこちに擦り傷をつくって帰ってきていた。


 ――やすませろよ、学校くらい。


 このままだと事故るぞ。真剣に危ない。修司にも散々そう言ったのだが、あいつは疲れたように首を振り、「言ってもきかない」と途方に暮れた顔で言った。

 実際、眠ってもいい状態にいるとまったく眠気はこないらしいのだ。精神科にしばらく通わせていたのだが、とくにいい効果はなく、しかしなにをきっかけにしたのか、唐突にそれは回復したのだった。


 ――ちょうど去年のいまごろだったっけ?

 ――おひさまの匂いとか、あったかい風とか感じると、どうしても思い出しちゃってさ。沈む。


 かわいそうに、とおれはみすずをぎゅうっと抱きしめた。落ち着くまで、しばらくのあいだそうしていようと思った矢先、困ったことに、おれの指が自分の意思とはまったく別の動きを取りはじめた。いやらしい、変態わびすけ、と彼女は目をつりあげ、おれを乱暴に押しのけると、のしのし大股でシャワーを浴びに行ってしまったのだった。


 いちばん悔やんでいることは、よりによってこんな時期に、彼女を置いて去るようなことになってしまった、ということだった。

 おれがしんでから、すでに七つの朝が去り、八つの夜が去ろうとしていた。


 からだがなくなってからというもの、意識は途切れ途切れになって空中を漂っている。この前は気づくと、実家の池のうえを浮遊していた。よく晴れた空気の白い日で、母が庭仕事をしているところだった。つばの広い麦藁帽子をかぶり軍手をはめ、白いボタンダウンシャツにジャージ、ゴムの黒い長靴といった格好で。首にはご丁寧にタオルまで巻かれていた。旅館などで貰えるような、白いタオルだ。こんな姿、彼女を「いつ見てもお綺麗で」だの「お上品な奥様よねえ」だのと崇拝しているご近所のオバチャン連中が見たらなんと言うか。おれは苦笑いをしたものだった。そこで、前回の意識は途切れている。

 春の宵。ここちよい夜風を感じたかと思えば――感じた、とは言っても肉体はすでにうしなわれ、意識だけになったおれだ。錯覚かもしれない――、おれは修司のアパートにいた。浴室の天井すれすれのところ。見下ろせば、兄妹が仲良く入浴中だった。ふたりが入浴をしているところを見るのはもちろんはじめてで、からだのあるころだったら、性欲の塊だったおれはひとしきり興奮しただろうな、と思った。しかし残念なことに、いまはアドレナリンを放出する脳もないし、脳からのいちいちの命令を受けて反応する肉体もすでになくなっている。喜んでいるような気もするが、まだ生きていたときの記憶の名残かもしれない。

 ふたりは他愛のない会話をぽつぽつとしていた。


 クラス替えどうだった?

 仲のいい子たちはみんな一緒。いいかんじ。

 それは良かった。

 学年いち人気の谷川くんがおんなじクラスなの。

 それは心配だな。


 おれという存在が完全に消滅してしまう前に、もう一度みすずに会えた。声がきけて嬉しかった。そして人気者の谷川くんに嫉妬した。つぎにちゃんと彼女に好きと言えなかったことを思い出し、かなしくなった。が、それらの感情は生前の名残だ。ただの記憶にすぎない。脳や心臓同様、おれには心だってもう残ってはいない。実際のおれは、兄妹の頭上を漂っているだけだ。実体もなく、ふわふわと。

 生前につよい執着心をもった魂は、成仏できずに地上にのこり地縛霊になるのだ、と聞いたことがある。しかしおれはそのケースにあてはまらないらしい。


 あのね、お兄ちゃん。

 何、お兄ちゃんって。あらたまってどうした。

 あたしさ、将来……。

 みすずの好きな道を選べばいいよ。

 ほんとう?

 就職するというならそれもいいと思うし反対しない。大学に行くなら喜んで。専門学校だってもちろん。

 あたし、デザイン関係の仕事がしたいんだ。

 いいね。応援する。

 うれしい。ありがとう。

 よし、明日からまた仕事頑張らなきゃ。

 無理しちゃだめだよ。


 彼らがすこしずつ遠ざかる。ふたりの話し声も遠ざかる。おれの彼女への思いは、成仏できぬほどのつよい執着心、とまではいかなかったらしい。すこし胸が痛んだ。その痛みもまた、かつての記憶による錯覚かもしれないが。


 遠ざかる。おれの実体のないからだは浴室の天井をすり抜け、アパートの三階の部屋も通過し、屋根を突き抜けて夜の空へととけはじめた。おれはどこへ行くのだろう。意識がぼやけ、からだとともに空気中に融解しはじめた。天国はあるのだろうか、と薄まったおれがかろうじて思考をつづける。

 天国。そんなものなくてもいい、と思った。存在が完全に抹消されることは、べつにこわくなかった。天国などで彼女と会えない時間を窮まりなく過ごすなら――そもそもはたして天国に行く権利がおれにあるのか?――いっそ潔くこの魂、消滅してしまったほうがいい。再会できるまでの茫々たる時間を待てない。待てる気がしない。死んでもおれはおれだな、と思った。笑ったつもりだったが風が吹いているせいで、声にはならなかった。


 そろそろお別れの時間のようです。意識の「い」の字だけになったおれの魂は言った。


 さようなら、いとしい君たち。振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない。おまえの言葉だろ、修司。まっとうに人生を歩むのだぞ。近親相姦がどうした、それもまたひとつの道だろう。上等だ。

 さようなら、「い」の字の半分でおれは思った。こうやって高いところに来てみれば、この世界もそれほど悪くないものに思えてきた。美しいじゃないか、ろくでもない世界だったけど。

 さようなら、いとしい君たち。

 さようなら、美しき、ろくでもない世界。

 さようなら、さようなら。


 さようなら。






 カメリア/FIN.

 ※創作にあたって、詩人寺山修司さんの言葉をTwitter「寺山修司bot」より引用させていただきました。『振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない』。




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