第45話:聖域から漂う、饐えた善意の腐敗臭
"おえっ……げほっ、ごほっ!"
俺、アレンは、王都のメインストリートの真ん中で猛烈な嘔吐感に襲われ、膝をついた。喉の奥からせり上がる酸っぱい液体を、必死の思いで飲み下す。視界が、ぐにゃりと歪んだ。脳が、本能が、そして俺の魂の根幹にある潔癖症という名の"安全装置"が、大音量の警報を鳴らし続けている。
つい数時間前、俺はこの国の魔法回路をデフラグし、ゴミ一つない純白のシステムへと書き換えたはずだった。空気は澄み渡り、魔力の淀みは消え、世界は石鹸の香りに包まれていた。だが。今、俺の鼻腔を突き刺しているのは、そんな清涼感を一瞬で無に帰す、最悪の"異臭"だった。
それは、魔法回路の焦げた臭いでも、下水の悪臭でもない。もっと粘り気があり、もっと執拗に神経を逆撫でする、甘ったるい死臭。例えるなら、真夏の炎天下に放置された生ゴミの山に、最高級の香水をこれでもかとぶっかけ、さらにその上から糖蜜を塗りたくって一週間発酵させたような、吐き気を催す"善意の煮凝り"の臭いだ。
「……なんだ。なんなんだ、この、生理的に受け付けない不快感は。空気が……空気が情報の膿でベタついている」
俺は震える手で鼻を覆ったが、無駄だった。その臭いは物理的な粒子ではなく、"概念的な汚染"として、俺の脳に直接、真っ黒なカビの胞子を植え付けてくる。
「アレン様! いかがなさいましたの!? まさか、あまりの清々しさに、ご自身の美しさが耐えきれなくなってしまったのですか!?」
隣で、ティアナが能天気な声を上げる。清々しい? 俺は、震える指で王都の中央にそびえ立つ"大聖堂"を指差した。
「……ティアナ、お前、あれが見えないのか? あの、白亜の建物の隙間から、ドロドロとした黒い粘液が溢れ出しているのが。あの、空を不透明に染めている、情報の黒カビが見えないのか!?」
「! 黒カビ……? まあ! さすがアレン様! 私のような凡庸な目には、ただの神々しい後光にしか見えない聖堂の輝きを、すでに"不潔なノイズ"として捉えていらっしゃるのですね!?」
「違う! 後光じゃない、あれは発酵したメタンガスだ! 逃げるぞ、ティアナ! 今すぐここを離れないと、俺の脳内メモリが修復不可能なレベルで汚染される!」
俺は踵を返し、全力で走り出そうとした。だが。それよりも早く、俺の腕を強靭な力……もとい、狂信的な力で掴む者がいた。
「! 逃がしませんわ、アレン様!! アレン様がこれほどまでに激しい拒絶を示されるということは、あの中に、この世界で最も"不浄なバグ"が潜んでいるという証! これを見過ごすことは、アレン様の信徒として、あるいは掃除の申し子として許されませんわ!! さあ、参りましょう! 聖なる滅菌の旅路へ!!」
「やめろ! 放せ! 俺は掃除屋じゃない、ただの潔癖症なんだ! 頼むからあの情報のゴミ捨て場に近寄らせないでくれぇぇぇ!!」
俺の絶叫は、ティアナの歓喜の叫びにかき消された。ずるずると引きずられ、俺は王都で最も神聖とされ、そして俺にとって最も不衛生な地獄……大聖堂へと連行されていった。




