第19話 気持ちの重さ
19.気持ちの重さ
今日は二人の二回目のデートだ。淳哉が知り合いの伝手で取れたという サッカーの日本代表戦を見に来ていた。アジアカップ予選通過を賭けた試合だ。しかし、サッカーの詳しいルールをまるで知らない正子とは対照的に、淳哉は始まる前からテンションが上がっていて戦闘態勢だ。今日は二人でGパンで行こうねと淳哉が言うので、正子もその通りに着て来ていた。試合が始まる前に売店でユニフォームを二着買って、淳哉に言われるまま上に着る。まるでペアルックだ。しかし日本のサポーターという建前が 正子のその気恥ずかしさを軽くしてくれていた。
「まずは あっちが日本のゴールだから」
「うん、わかった」
「大体は分かる?」
「ゴールに入れたらいいんでしょ?」
「ま、そうだね」
そんな初歩的な事しか分からない正子に、淳哉は試合中、時々説明を加えながら楽しませた。前半13分でゴールのチャンスがあったが惜しくも点とならず、前半が終了する。0-0のまま後半を迎え、どちらも何とか後半始まりの勢いに乗って点を取りたいと躍起になっているのが、サポーター達の応援の熱からも感じられる。惜しいチャンスは何度かあったものの、なかなか点に結びつかない。いつの間にか正子まで身を乗り出して応援している。そして残りあと5分を切ったところで、日本がゴールを決める。会場中がわぁっと湧き上がる。思わず、淳哉とハイタッチなんかをしてしまう正子だった。そのまま1-0で試合が終了し、日本代表は予選通過を決めた。
帰り道も駅まで続く大きな道路は、道一面びっしり青いユニホームのサポーターで埋め尽くされていて、淳哉と正子もその中に混じっていた。話題はやはり、興奮冷めやらぬ先程の試合についてだった。
「やっぱ生で観ると迫力とか臨場感半端ないでしょ?」
「うん。初めて見たけど、楽しかった」
「また行こうよ。ワールドカップの試合観てみたいなぁ。海外まで応援に行ったりしてさ」
はしゃぐ様に話す淳哉の左手は、やはり正子の手を優しく包んでいた。この間も新宿の人混みで淳哉との距離が近かったが、今日はもっと近い。その上皆同じ方向へ進む為 足並みも同じだ。淳哉とは肩や腕までぶつかりそうだ。この前はそれが緊張材料の一つでしかなかったが、今日は少し違う。安心感を感じられる。人混みではぐれない為だろうか。それとも、正子の中の壁が少し外れかけてきているのだろうか。
「今度は野球観に行こうよ」
「うん」
「野球は行った事ある?」
「ううん」
「そっか。お父さんとか野球観ない?」
「子供の頃、お父さんとお兄ちゃんは行ってたけど、私は行かなかった」
「やっぱ横浜だからベイスターズファン?」
「別に・・・。あっちゃんはどこか好きなチームがあるの?」
「俺は西武ファン。今度西武ドームに野球観に行こうよ」
また淳哉の顔がぱぁっと明るくなるのを見て、正子は次も楽しくなりそうだと思うのだった。
夜の風がすっかり秋が深まっている事を感じさせる。昼間暖かくても上着を羽織らないと肌寒く感じる様になり、季節が駆け足で過ぎている様に感じる。正子も淳哉との次のデートを楽しみに、仕事の休みを調べてメールするのだった。
「月曜日のお休みが無くて、ごめんね。でも、もしあっちゃんが昼間大丈夫だったら、私のお休みの日 会いに行くよ」
「うん」
しかし、淳哉がそれ以上日にちを決めようとしない。そして正子が言った。
「今度の水曜日の昼間はどう?」
「水曜は、店の冷蔵庫の点検で業者が来るから、立ち会わないといけない」
「じゃ、何曜日なら平気?」
「今週は・・・金曜が平気だけど、まーこダメでしょ?」
「うん・・・」
噛み合わない予定にがっかりする正子だった。
「月曜日、私早番に変わったの。だから、終わったらそっち行ってもいい?」
正子が仕事帰りに、真っ先に淳哉に電話していた。
「月曜の夜は、もう友達と約束しちゃった」
「そうか・・・」
「ごめん・・・」
「ううん。急だもんね」
がっかりして暫く黙ったままでいると、淳哉が言った。
「ごめん。今仕事中だから、切るね」
はっとして電話を切った正子の胸に、悲しい風が吹いていった。
その晩、淳哉から電話が来るかもしれないと待っていた正子。しかし、夜中の3時を回っても、電話は無かった。
『お疲れ様。さっきは仕事中に電話しちゃってごめんね。まだ帰ってない?』
『ごめん。今友達と一緒』
短いメールだ。きっと今は友達との時間を邪魔されたくないのだ・・・そう正子が思うと、携帯をベッドへ置いた。すると、急に思い出す。先日店に行った時に、淳哉と美樹の関係を教えてくれてた山根という常連客の言葉を。『ここの帰り、一緒に帰るとこ見たんだよ』
正子はもう一度携帯を手に取る。
『美樹さんと一緒?』
そう打ち込んで、消す正子。疑ったら駄目だ。疑ったらキリがない。前に淳哉も言っていた。相手を信用する事が大切だって。淳哉を信じたい・・・。そう思って、携帯を置いた。
『あっちゃん、昨日遅かったの?』
仕事の合間にメールをする正子。淳哉からすぐの返信は無い。まだ寝てるのかな・・・そう思おうとする正子だった。休憩の合間に携帯を確認する正子。しかしまだ返信がない。
『今日も昼間から忙しいの?』
そう送って、また鞄にしまった。
仕事を終えて鞄の中の携帯を見ると、新着メールが届いている。慌てて確認すると、それは淳哉から3時間前に来ていたものだった。
『急用?』
返信に喜んだものの、読んでがっかりする。たった一言だけだ。昨日から待っていた正子には素気なく感じてしまう。しかし、今はもう 淳哉の仕事の時間だ。きっと今メールしたって、また同じ事の繰り返しだ。
『急用ではないです。ごめんね』
これを送って、一旦気持ちを落ち着ける正子。仕事で忙しい淳哉の邪魔をしちゃいけない。『仕事と私どっちが大事?』なんて聞く女にはなっちゃいけないって、よく聞く。きっと今夜仕事が終わったら連絡をくれて、淳哉の声を聞いたら嘘みたいに私の気持ちも落ち着くんだろう・・・そう正子は自分をなだめた。
ウトウトしていた正子が目を覚ましたのは、もうすぐ夜中の3時になろうとしているところだった。目が覚めて意識が現実に戻ったと同時に、正子は携帯を見る。淳哉からの着信もメールもない。
「どうして?」
思わずそう声が漏れる。今日はもうメールではなく 直接電話をかけてみよう。そう決心して淳哉の電話を呼び出す。何度か呼び出した後、淳哉の電話が繋がる。淳哉が『もしもし』と言う前に、電話の向こうが賑やかなのが 正子の耳に届く。
「どうした?」
「ごめんね、忙しかったね」
「友達が家来てて」
そこまで聞くと、正子は淳哉の言葉を遮った。
「ごめんね。じゃあね」
一方的に切ったのには、正子なりの理由があった。淳哉の友達の間で話題になりたくなかったのだ。『どんな子?』なんて聞かれたら、淳哉が困るに決まっている。すると、淳哉からメールが来る。
『昼間もメールもらったけど、何かあった?』
返信するかを迷う正子。友達と楽しく過ごしているのに、私とのメールに気を取られていたら、きっと何か聞かれてしまう。正子は一言だけで終わる文章を考えて、メールした。
『何でもないから気にしないで下さい。ごめんなさい』
「昨日あんなにすぐ切らなくても大丈夫だったのに」
次の日、仕事帰りの淳哉が正子に電話を掛けてきていた。
「この前から何度も連絡もらっててごめんね。タイミング合わなくて。どうした?」
『どうした?』と聞かれると困る。別にどうもしていない。
「何もないけど・・・」
『何もなかったら電話しちゃいけないの?』という言葉を飲み込んだ。出会った初めの頃は毎日の様にメールしていたのに、どうして?会って、ちゃんとつき合える様になったら、そこから愛情が深まって もっともっと愛おしくなるものなんじゃないのか。なのにどうして、淳哉は何日も声が聞けなくても平気なのだろう。そんな疑問を胸の中にしまって、正子は会話を続けた。
「普段・・・あっちゃん、何考えてる?」
「え?何?いきなり」
「・・・変?」
「質問の意味がよく・・・」
これで分からないという事は、きっと淳哉はそんな事考えた事がないのだろう。会えない時間に相手の事を思って過ごしているのは、きっと自分だけなのだ。そう正子が気が付いてしまった途端、何故か片思いの様な、失恋した様な、何とも言い難い気持ちが込み上げてくる。
「ごめんね、変な質問したね。気にしないで」
「まーこは何考えてるの?普段」
まさかの質問返しだ。
「・・・そう聞かれると困るね、やっぱり」
はははと作り笑いを絞り出す。
淳哉との電話を切った後で、正子は携帯の中の 以前淳哉が送ってきたコスモスや月の写メを眺める。あの時よりも淳哉の中で自分の占める割合が減っている様な気がする。さっきの電話で正直に聞けば良かったのだ。しかし電話を切ってしまった今更、もう一度かけるのは、気持ちを聞くのと同じ位ハードルが高い。コスモスの写真を見ながら、正子の瞳からは一すじの涙が頬を伝い落ちた。
そんな困った時に正子が縋りつくのは、決まって仁美だ。またランチ相談室となっている。
「しっかり恋愛しちゃってんじゃな~い」
仁美は辛い顔の正子を軽く笑い飛ばした。しかし深刻な正子は、仁美の腕をペシッと叩いた。
「茶化さないで!」
膨れている頬を、仁美は面白がって人差し指でつついた。
「そういう顔、広瀬さんにもしたら?」
「簡単に言わないでよ・・・」
「どうして出来ないのか、そっちのが不思議」
「でしょうね・・・」
「だって、正子の一番自信の無い所全部見せたんだよ。他に隠す所ないでしょ?あれだけの嘘を告白して、それを越えてくれた人なんだよ。何を怖がる必要があるの?正子が全部でぶつかっていかないから、向こうにも 全部で向かってきてもらえないんだよ」
サンドイッチを食べるのをやめ、正子が聞いた。
「私に興味が無くなってるんじゃないの?」
ニヤニヤとしながら、仁美が言った。
「そのまんま聞いてみたらいいじゃない」
「聞けないから困ってんじゃない」
「私に聞かれてもね~。私は広瀬さんじゃないし・・・」
食べかけのサンドイッチを袋にしまう正子。
「友達、友達って、そんなに友達と遊ぶものなの?」
「まぁ・・・広瀬さんは友達多そうだもんね」
溜め息をつく正子。
「じゃあさ、正子は 友達が少ない地味なタイプが好きなの?」
「そういう訳じゃないけど・・・」
「あっ、じゃぁ 友達より彼女を一番にする様な男がいいんだ?」
そう言葉で言われると違和感がある。正子が首を傾げる。
「普段、彼女の事なんか考えたり思い出したりしないの?男の人は」
「そりゃ一日中は考えてないでしょう」
「一日中じゃなくてもさ・・・」
「男の人にとっての仕事はさ、やっぱ真剣勝負だと思うんだよね。今、今日こなす仕事だけじゃなくて、将来の展望とか目標とか 色んな事を考えての今 この瞬間の仕事だろうから。そりゃ 恋愛とは全く別の次元での回路が働いてる瞬間だと思う。だから男の人の仕事してる姿って格好良いんだと思う。広瀬さんの仕事してるとこ見て、格好良いと思ったでしょ?」
「うん・・・」
「その仕事に打ち込めるかどうかは、それ以外の時間の恋愛の充実感なんだと思うんだ。以前よりも安心して、仕事に打ち込める様になったって事かもよ」
説得力がある話し方に、正子の心も段々にほぐれてくる。弁当箱をしまいながら、仁美が言った。
「今までは夜中の電話とかメールしか繋がってる方法が無かったでしょ?メールとか電話ってさ、その人に丸ごと時間遣わなくても連絡が取れる手段じゃない?でもさ、会うとなるとそうじゃない訳で・・・。自分の為に使ってくれてる時間が減ったんじゃなくて、つきあい方が変わったから そう感じるだけなのかもよ」
分かった様な分からない様な曖昧な顔で、正子はその日 家路に着いた。