第20話 長い一日
20.長い一日
3回目のデートで、淳哉と正子の二人はボーリングに来ていた。もちろん正子は初めてで、淳哉が一から手取り足取り教えていた。ボールの持ち方から投げ方、分かりやすく教えているのだが、正子のボールはなかなか真っ直ぐは転がらない。勢いも無い為、すぐガターだ。周りのレーンからは、ピンが弾け飛ぶ小気味良い音が聞こえてくる。
「ごめんね・・・私、全然上手くならなくて」
せっかく教えてくれる淳哉に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、楽しむどころではない。こんな鈍くさい自分と一緒にボーリングをしたって、楽しくないどころか、嫌われてしまうかもしれないと思うと、正子は変にそわそわして落ち着かなくなるのだった。それでも ようやく1ゲーム終えると、どっと疲れが押し寄せる。正子のそんな些細な表情に気付き、淳哉が声を掛ける。
「まーこ、つまんないよね。出よ」
せっかくのデートなのに 自分のせいで楽しくならないと 正子が肩を落としていると、淳哉がその肩にポンと手を乗せた。
「次、ビリヤード行く?」
「ビリヤード?」
正子の中では夜の大人の遊びのイメージがある。
「やってみよう。ね?教えてあげるから」
「うん・・・」
「あっ、また上手く出来なかったらどうしようとか マイナスな事思ったでしょう?」
「私、ほんと 何やっても鈍くさいから、多分あっちゃん、楽しくないよ・・・」
「俺は楽しいよ。鈍くさいまーこ見んの、結構面白いから」
あははははと明るく笑って、ビリヤードの階までエレベーターに乗る。この狭い囲まれた空間に心臓が飛び出しそうな正子だった。早くドアが開いてくれる事だけを願ってじっと待つ。
ビリヤードでも、持ち方構え方 遊び方、一から手取り足取り淳哉が教える。構え方を教わる時には、淳哉が近くて 正子には肝心の説明など聞こえてはこなかった。淳哉の格好を真似して構えてみるが、正子の手の位置など少しずつ手直しする淳哉だったが、その時に触れる淳哉の手に いちいちドキッとして体が固まってしまう。
「この辺狙って打ってみて」
言われた通りにやってみる正子。先程の至近距離の淳哉に変な汗をかいた正子の手が、滑らずに上手く動かない。もう泣きたい気持ちの正子だった。
「大丈夫、大丈夫。ゆっくりでいいから、もう一回やってみて」
すると、まぐれか 言われた通りの方向に球が転がり、狙っていた球が穴に落ちる。
「おお~!」
淳哉がそう言っておだてるが、正子はまだ慎重だった。きっとまぐれだ。そう思いながら、次も淳哉に言われるままに、球を突いてみる。すると次もやはり 予想通りの方向へ転がり、的にしていた球を落とす正子。
「やるじゃ~ん!」
そうやって次、次と教わる通りに狙っては球を落としていく正子。すると、淳哉が言った。
「鈍くさくないと、まーこ面白くないな」
「え~、たまたまだよ。あっちゃんが教えてくれる通りにやってるだけだもん」
「じゃ、次はどこ狙ったらいいか、ラインを自分で読んでごらんよ」
そして正子が初めて自分の頭で考えて、球を狙ってみる。慎重に慎重に球を突くと、狙った球が穴に見事に落ちていった。
「まーこ、やるね~!」
淳哉がハイタッチを求めてきて、思わずそれに応じる。
「凄いよ~。俺負けちゃうから、もう教えんのやめようかな」
正子も淳哉に教わった様に出来て、内心ホッとしていた。
ボーリング、ビリヤード、卓球、バッティングと 二人は午前中から遊び続け、居酒屋でご飯を食べた。
「あっちゃんは、こうやって色んな事してお友達と遊んでるの?」
「まぁ・・・ね。まーこは全然友達と遊びに行かないの?」
「あっちゃんみたいに友達多くないし、あんまり外に出歩くの・・・得意じゃないっていうか・・・」
「家派かぁ、まーこは」
そう言って少し考えてから、淳哉が言った。
「じゃ、今度はうち来る?」
また正子が固まる。
「あっちゃん・・・ち?」
「うん」
「・・・・・・」
心臓の音が聞こえてきそうな程の爆音がしている。
「ま、来ても、部屋片付けに来る様なもんだけどね」
淳哉のその一言で救われる。正子の心臓が再び動き出した様な感じがする。
「今の所、もう長いの?」
「そうだなぁ。今の店勤めてから、住んでる」
それを聞いた途端、この間店に行った時に見た美樹と愛の顔が 正子の脳裏に思い出される。きっとあの二人とも過ごしたのだろうと思うと、嫉妬心が邪魔をして行きたくない気持ちに傾く。
「何でそんな事聞くの?」
正子の微妙な表情に気が付いたのか、淳哉が尋ねる。すると、正子は慌てて首を横に振った。
「ううん、別に何でもない」
決して何でもない訳はない顔をしていたのを淳哉は知っていたが、それ以上深く追求はしなかった。一方・・・正子の中で湧き起こる嫉妬心に、正子自身戸惑っていた。今まで味わった事のない穏やかでない感情、何か面白くない、それに近い感情を、正子は人生で初めて味わっていた。
居酒屋を出てから、淳哉が正子の手を繋いで歩き出す。今まではまるで気にしていなかったが、街中を見渡すと、手を繋いで歩くカップルもいれば腕を組んでいるカップルもいる。彼氏が彼女の肩を抱いて歩くカップルも僅かにいる。色んな形があるが、皆自然でとても幸せそうだ。正子は思い切って聞いてみる。
「あっちゃんはさ・・・昔から、手繋ぐ派なの?」
急に淳哉が正子の方を向くから、視界の中に入ってきた顔が近くて思わず身構えてしまう正子。
「昔からって、どういう意味?」
「・・・・・・」
昔の恋愛の事を聞いてる事などバレバレだ。過去をほじくり返している事も、嫉妬心を燃やしている事も、きっと皆バレた筈だ。そう思って下を向いていると、淳哉が言った。
「まーこが、どっか行っちゃわない様に手繋いでんの」
予想外の答えに正子が驚いて淳哉の方に顔を向けると、既にこっちを向いて笑っている淳哉の顔が真正面に見えて、目をむく。どっと変な汗が出そうになる。挙動不審の正子を面白がる様に、淳哉が言った。
「腕組んでみる?」
手を一旦解いて肘を突き出す。しかし、腕をどの位絡ませたらいいのかが分からない正子は、首を横に振った。
「じゃ、肩組む?」
その語尾を聞き終えるかどうかの時には、もう既に淳哉の腕は正子の肩に回されていた。体がさっきよりももっと密着して、正子は一、二歩淳哉から体を離した。
「ほらね、逃げちゃうでしょ。だから、やっぱりこれがいいんじゃない?」
そして再び、淳哉が正子の手を取った。
「俺、まーこの手好きなんだ。小っちゃい手」
そんな事言われたら、どう返事をしたらいいか、正子の中に引き出しがない。
「あっ、からかってないよ。本当に思った事言ってんだよ」
そう言われても、まだ困る。
「あぁでも、ちょっと照れてるまーこ見るのも好きかも」
どんどん追い詰められていく気がする。心臓がドキドキして、まるで聞こえてきそうだ。すると、淳哉が繋いだ手を持ち上げた。
「まーこ、手に汗凄い。照れたの?」
明るく冗談で笑いにしたつもりだったが、正子には耐えられなかった。手を振りほどいて、急に走り出す。
「まーこ?まーこ」
後から追ってくる淳哉から、必死で逃げる正子。人の流れに逆流して走る正子の腕をかろうじて捕まえて、謝る淳哉。
「ごめん。ごめんなさい」
立ち止まった正子の目からは涙が溢れてしまって、淳哉の方を向けない。しかし淳哉は正子の目の前に立とうとする。正子が顔を見られたくなくて、ぐるぐる回っていると、淳哉が正子の腕だけを掴んだまま 背中を向けた正子に話し始めた。
「悪ふざけが過ぎたね。ごめんなさい。意地悪で言ったんじゃなくて、困るまーこが可愛いから、つい・・・。もうしないから。もう絶対言わないから」
流れる涙を必死に止めようと、正子は得意の息を止めて奥歯を噛みしめた。泣いていた事も知られたくないから、掴まれていない方の手で涙を拭う。
「怒ったよね。ごめんなさい」
怒ったんじゃない。そう言えない分、背中を向けたまま首を横に振る正子。
「無神経だったよね」
そうじゃない。恥ずかし過ぎてどうしていいか分からなかっただけなのに、何故か涙まで溢れてきちゃって、正子は自分の気持ちを持て余していた。まだ振り返るには、涙が乾いていない。涙が止まると、正子は深呼吸をした。
「腕・・・離して」
「・・・また逃げちゃう?」
背中を向けたまま首を振る正子。迷った挙句、腕をゆっくりと解く淳哉。そのまま歩き出す正子の後を、黙って歩き始める淳哉。
「どこ、行くの?」
暫く経って、後ろからそう声を掛ける淳哉。しかし、どこに向かっているのかなんて正子にも分からない。ただ涙が乾くまで、呼吸が整うまで、淳哉と顔を合わせられる様になるまで歩いているだけだ。とにかく行き先も分からず、この道がどこに繋がっているかなんて考える余裕もなく歩いて行くと、いつの間にか広い公園の中に来ていた。昼間は色づいた木々の葉が綺麗な公園だが、夜は所々に灯る外灯が それを照らしていた。
「まーこ」
後ろから声を掛ける淳哉。そしてようやく立ち止まる正子。意を決して、大きく息を吸い込んでから、正子はゆっくりと振り返った。
「急にごめんね。別に怒ってないからね」
何も無かった事にしたい。恥ずかしすぎて、あの瞬間を記憶から抹消したい。だから、その空気を一変したかったのだ。そう話す正子は笑顔の一歩手前の、泣いていた事など感じさせない表情を作っている。
「ごめんなさい」
「謝らないでよ。別にあっちゃん何も悪くないし。・・・もう、その話よそう」
頭を下げ続けている淳哉が、ゆっくり顔を上げて 正子の目をじっと見つめた。
「泣くほど傷付けたのに、どうして何も無かったみたいな顔するの?」
バレていた。泣いていた事がバレていた事に驚く正子。
「・・・泣いてない」
必死に嘘をつき通す。
「・・・どうして?」
何が『どうして?』なのか分からない。泣いていた事がバレていたショックで、正子の頭は軽いパニックとなり、淳哉の言葉が理解できない。ひたすら正子は首を横に振り続けた。
「どうして、俺に全部を見せてくれないの?まだ俺の事、信用できない?」
まだ首を振り続けている。髪もボサボサで顔が見えない程だ。
「もういいよ。まーこ、落ち着いて」
その声に反応して、振っていた首も止まる。
「どっか、まず座ろっか」
近くのベンチに腰掛けるが、正子は淳哉との距離を少し空けた。どちらも相手が口を開くのを待っている様な微妙な空気が立ち込める。
「紅葉・・・綺麗だね」
淳哉が言う。正子が黙って頷く。しかしそれ以上会話が続かない。淳哉が少し明るい声で話し掛けた。
「まーこ、今日楽しかった?」
黙って頷く正子。
「でも、ボーリングはつまんなかったでしょ?」
正子は首を横に振った。
「私が下手くそだから、あっちゃんがつまらないだろうと思って・・・」
「そうなの?じゃ、俺が楽しかったって言ったら、また行きたい?」
首を傾げる正子。
「ほらぁ、やっぱね。じゃ、ビリヤードは?楽しかった?」
「うん」
「俺と会ってて・・・嬉しい?」
正子が黙ってこくりと首を動かす。
「良かった。俺も、まーこと会うの嬉しい」
満面の笑みを正子の方へ向けて、淳哉は続けた。
「今日は忙しい一日だったね」
確かに午前中から色々な遊びをして回ったから、その事を言っているのか・・・正子はその意味を確かめる様に、淳哉の方へ少し顔を向けた。
「嬉しいし楽しかったけど、さっきはまーこを怒らせて泣かせたから、喜怒哀楽 全部あった。気持ちが忙しかったでしょ。ごめんね」
「私・・・怒ってないし、泣いてない」
「じゃ、何で急に走って逃げたの?」
それには答えられない。
「嫌な事、嫌って言えなかったからじゃないの?」
「・・・」
「それとも、悲しくて泣いちゃって、それ俺に見られたくなくて逃げたの?」
何の返事も相槌もしない正子。
「泣いたって怒ったっていいんだよ。つきあってれば 色んな感情が湧くし、それを見せ合って近付いてくんだから」
そう話してから、淳哉がもう一度正子の横顔をじっと見つめながら言った。
「どうしてまーこは、あんなに辛そうに涙を堪えるの?」
正子が思わず淳哉の方を向きそうになる。それ程驚いたのだ。淳哉には泣いていた事も、涙を必死に止めていた事も見られていたのだ。
「あんなにまでして、俺に見られたくない?」
正子の横顔が硬直しているのを感じ、淳哉が笑って言った。
「まだ、俺に全部見せられる程 親しくないもんね」
半分笑って言うその淳哉の言葉が、かえって悲しい。
「あっちゃんに・・・って訳じゃない」
ようやく話した正子に、淳哉が慎重に近寄る。
「俺・・・だけじゃないって事?皆に?誰にも見せられないの?」
頷く正子。
「どうして?小さい頃から?」
すると、正子は深く息を吸ってから話し始めた。
「3年前、お母さんが病気で倒れてから、泣かない方法を見つけちゃって・・・それからは ずっとそうやって涙を止めてるの」
「お母さん、病気なの?」
淳哉の表情が一変する。
「今はリハビリしながら、家に帰れる準備してるんだけど・・・多分もう一人で歩いたりは・・・出来ない」
「・・・知らなかった・・・」
「ごめんね、言ってなくて。元気なお母さんがいなくなっちゃって、もう二度と元の状態には戻れないって思っただけで 今でも凄く悲しくなっちゃうけど、あの時に泣かないで乗り切ったんだから、大抵の事は我慢できるって自分に言い聞かせる癖がついちゃって。あれ以上の悲しい事なんか滅多にないから」
悲しい筈の話を、少し笑顔を見せながら話す正子に、淳哉は心を痛めた。
「まーこの大好きなお母さんだもんね。・・・早く家に帰って来られるといいね」
「・・・うん。でも、なかなか難しい。私も仕事してるし、お父さんの定年もまだ何年か先だし」
遠い目をした正子に、淳哉はあえて聞いた。
「お母さんの病気の事、少し聞いてもいい?」
そして正子は、ゆっくりと当時を思い出しながら話した。正子の当時の気持ちを思うと、自然と淳哉も辛い表情になる。隣の淳哉の顔を見て、慌てて正子は作り笑顔になる。
「あっちゃんまで、そんな顔しないで」
そんな正子を、淳哉は自分の肩に引き寄せた。
「無理して笑わなくていいんだよ。辛かったね。悲しかったね。泣きたいだけ泣けばいいのに」
淳哉の腕の中で、正子は首を振った。
「やだ・・・。泣いたら悲しい未来しか見えなくなる・・・」
「そんな事ない。泣きたいだけ泣いたら、自然と頑張る力が湧いてくるんだよ」
淳哉の片手が正子の頭をポンポンと撫でると、それを合図に正子の肩が震えだす。正子の背中を淳哉が無言でさする。泣きたいだけなんて言われて泣いた事のない正子だったが、誰かに抱えられながら泣くのは、とても安心できるものなんだと実感する。いつしか子供がお母さんの胸で気が済むまで泣く様に、正子は淳哉の胸で、時にしゃくりあげながら泣き続けた。
ひとしきり泣き止むと、正子がおでこを淳哉の肩から離す。
「ありがとう・・・ごめん。シャツ濡れちゃった」
涙で濡れた跡を見て、淳哉が言った。
「又泣きそうになったら、逃げださないで ここで泣くんだよ」
こくりと頷く正子は、少し女の子らしくなった様に見えた。ハンカチで頬を拭く正子が、はっとする。
「私・・・酷い顔になってるかも・・・」
「どれ?こっち向いてみて」
「やだ」
化粧も落ち 泣き腫らした目を急に気にして、正子が反対側を向いた。
「もう少し落ち着くまで、ここでこうしてようか?」
そう言いながら後ろのポケットから電話を出して時間を見る。
「あと・・・30分位したら帰らないといけないけど」
30分・・・正子の中で悲しい風が吹く。また30分過ぎたらバイバイして、休みの予定が会うまで暫く会えないのだ。
「あっちゃん・・・バイバイしたくないよ・・・」
淳哉の顔がいきなり正子の方へ向く。
「そうだね・・・俺も淋しい」
正子はベンチの下の砂に、足で線を書いては消している。
「また会うまで、淋しいね」
「あっちゃんもそう思ってる?」
「思ってるよ!何で?」
「だってあっちゃん、友達と遊んだり・・・予定が多いから、淋しいなんて感じてないと思ってた」
「ひで~!俺だって淋しいよ。もっと会いたいし」
「そうなの?」
「そうなの?って。まじでそう思われてなかったって事?がっくり」
首をうなだれて見せる淳哉を、正子はケラケラと笑った。すると淳哉が安心した顔をする。
「まーこ、元気になった。良かった。嬉しい」
そう言って、淳哉は正子をもう一度自分の腕に引き寄せた。正子が淳哉の腕に手を掛けて言った。
「あっちゃん・・・もっと一緒にいたいよ・・・」
「うん」
しかしそれ以上の淳哉の返事がない。無言で淳哉に抱かれていると、急に正子の緊張が高鳴ってくる。
「終電まで、もう少し一緒にいようか」
「うん・・・」
腕をほどいて二人の体が離れると、淳哉が正子の顔を覗き込んだ。
「暗いから、目腫れてるか分かんないよ」
「もう~!」
そう言って、正子は両手で顔を覆った。
「コンビニのトイレ借りて、顔直してくる?」
こくりと頷くが、顔を覆ったままだ。
「そのまんま歩くつもり?」
化粧直しを終えてトイレから出てくると、再び二人は夜の街を歩いた。
「どうしようか、あと2時間」
正子の家まで帰れる最終電車まで、あと2時間ある。
「2時間・・・」
特別何をするか浮かばない。
「どっか、飲みに行く?」
「やっぱり・・・帰ろうかな・・・」
正子が突然そう言う。
「え・・・帰っちゃう?」
「・・・・・・」
「分かった!じゃ、俺一緒に電車に乗って横浜まで送ってく。そしたら、少し長く一緒に居られるもんね」
湘南新宿ラインに乗って、二人はほどほどに混み合った車内で吊革につかまった。煌々と明るい車内で、淳哉はあらためて正子の顔をまじまじと見つめた。
「目、まだちょっと腫れてるかも」
「もう!見なくていいよぉ」
そう言って、慌てて目を隠す正子。
「だって、電車ん中 明るいんだもん」
そんな他愛もない会話を楽しみながら乗る電車は、まるで違う乗り物に感じる。正子が今まで乗っていた電車とは景色も明るさも 何もかもが違って見える。そして時々揺れる度に、さりげなく支えてくれる淳哉の腕も嬉しい。正子は 今まで自分を取り囲んでいたガードが、少し外れた様な気がしていた。淳哉との距離感が心地良い。今まで緊張しか味わえなかった淳哉との全てが、今は愛おしく感じる。そんな事を考えている自分が、外の夜景をバックに窓に映る。にこやかな表情をしている。今まで見た事も無い顔だ。自分でも知らない顔をしている。でも、幸せそうだ。確実に女の子の顔をしている。いつも俯いて歩いてきた正子とは別人の様だ。しかも隣には好きな人がいる。一緒にデートした帰りだなんて、一年前の正子から誰が想像しただろう。すっかり舞い上がってしまっている正子は、外の夜景を見ながら淳哉の耳元で呟いた。
「なんか、銀河鉄道みたい」
「え?」
突拍子もない発言に、淳哉はちょっと笑っている。
「面白いね」
今乗っている電車が夜空を走っている様に感じるのは、紛れもなく 正子の心が宙に舞っているからである。
そんな楽しい銀河鉄道の旅の様な時間も、横浜到着で終わりとなる。下りる人波に乗ってホームに吐き出されると、淳哉が言った。
「まーこはここで乗り換えか」
「うん・・・」
急にしんみりとしたムードが漂う。
「改札まで、行こうかな」
淳哉が正子の手を取る。改札までなんて 大した距離ではない。しかし、それでも正子は嬉しかった。
改札まで来ると、淳哉も改札を通る準備をしている。
「俺も出ようっと」
驚いている正子の顔を見て、笑顔を向ける淳哉。正子の乗る京急線の改札まで来るが、その手前で正子が立ち止まった。それは、淳哉が繋いだ手を引き止めたからだ。
「もうちょっと、一緒に居られない?」
正子の胸は大きく揺れ動いた。しかし気が付いた時には、もう既に頷いていた。
二人はそのまま横浜の街へと足を進めた。
「あっちゃん、電車の時間 平気?」
「まだ、大丈夫」
まるで時を刻む音が聞こえてきそうな気持ちを抱えて、正子は歩いていた。
「お父さん、起きて待ってる?」
淳哉が聞いた。
「ううん。多分・・・遅ければ寝てると思う」
「そっか・・・」
「そんなに遅くなった事ないから、分からないけど・・・」
「だよね・・・」
暫くして、また淳哉が言った。
「やっぱ、もう帰った方がいいよね。俺、お父さんに怒られるの怖いや」
「あっ、じゃあメールしとく、お父さんに」
そして父親に向けて初めて嘘のメールを打つ正子。
『今仁美と一緒なんだけど、遅くなるから 心配しないで先寝ててね』
こんな事していいのだろうかと 正子の心が葛藤をしている。葛藤に葛藤を重ね、とうとう正子は送信ボタンをタッチした。すると父親からすぐの返信がある。
『鍵は持ってるね?気を付けて帰ってくるんだよ。』
正子を信じてくれている父の優しい言葉が、胸に刺さる。しかしホッとする自分も正直いる。正子は携帯を鞄にしまうと、淳哉に言った。
「お父さんにメールしといたから大丈夫」
淳哉が言った。
「せっかくだから横浜っぽい所案内してよ」
「あっちゃん、時間平気なの?」
「西武線なくなっていざとなったら、実家に泊めてもらうから平気。新宿から歩けるから」
「横浜っぽいって言ったら・・・みなとみらい線の方かな」
「歩いて行けないの?」
「結構歩くよ」
「大丈夫。今日、まーこスニーカーだから」
それから二人は横浜港の方を目指して歩いた。淳哉のスマートフォンのマップを頼りに歩く二人。所々いかがわしいネオン街に紛れ込む。初めて見るチカチカとした夜の裏道のピンクのネオンに、正子はキョロキョロする。
「こういう所は、まーこ来ちゃダメだよ」
ネオンの煌めく雑居ビルの中の店から、露出度の高い服を着た女が、べったりと腕を絡ませて男の客と出てくる。
「何のお店なの?」
淳哉にそっと聞く正子。
「健全じゃないお店」
正子にそっと耳打ちすると、淳哉は足を速めた。
「早く出よ、この道」
呼び込みの様な店の前に立っている黒服のおじさんが、淳哉達が通るのをじーっと見る。怖くなって正子は、淳哉に一歩近付いて歩いた。
「お兄ちゃん達、入ってかない?」
淳哉が、上げた片手を軽く振って断る素振りをする。
「大通り歩こう」
淳哉は裏道を足早に抜け、大きな通りへと出る。ほっとした正子が、はぁと大きく息を吐く。
「心臓が飛び出るかと思った」
そんな会話をしながら段々に港が近くなる。
「俺、この辺来るの初めてかも」
そんなテンションの上がってくる淳哉と反比例して、タイムリミットが近付いてくる。
「足疲れたでしょ?さすがに」
「うん・・・」
「どっか座れないかな・・・」
横浜は夕方頃まで雨が降っていたらしく、ベンチや芝生が濡れている。
「喉も乾いたね」
自販機の前で、淳哉がお茶を見つける。それを買ってキャップを開けると、正子に差し出した。正子が先に一口飲むと、淳哉もその後ごくごくと飲んだ。そして二人で一旦喉を潤すと、淳哉がラベルを見る。
「いくよ、俳句大賞」
ラベルに載っている句を読み上げる淳哉。
「え~、今回のあんまり良くねぇなぁ」
淳哉のブーイングだ。
「でも、大賞のはちょっと面白いね。情景が見えるって言うか」
自販機の明かりで読み上げていたが、その話題もそう長くは続かない。
「まーこは、ここからどうやって帰るの?又横浜駅に戻るの?それともこの辺の駅から乗れんの?」
「あっちゃん・・・バイバイしたくないよ・・・」
「うん」
淳哉が正子を握る手に力を込める。
「まーこ、明日仕事何時から?」
「明日は、午後から」
それを聞いて淳哉も無言になる。正子の胸の鼓動が早くなる。『バイバイしたくない』などと口走ってしまったけれど、だからどうしたいなんて何も考えていなかったのだ。淳哉を横浜まで来させてしまって、無責任にまだ一緒に居たいなんて口にした事を、正子は少し反省していた。
「ごめんね。さっきの・・・気にしないで。ただ言っただけ。あっちゃん、電車無くなっちゃうから早く行かなきゃ・・・」
歩き出そうとする正子の手を引き止める淳哉。
「朝まで一緒にいようか」
「え・・・」
急に正子の表情が硬くなる。何か言いたいのか、聞きたいのか、正子の口が僅かに動くが声が出ない。
「俺、始発で帰る。決めた」
淳哉が正子の手をぎゅっとする。
「約・・・5時間延長できますか?」
まるでカラオケボックスでの時間延長をする様な軽い口調で、正子の顔を覗き込んだ。
「5時間・・・どうするの?」
恐る恐る尋ねる正子。
「それを・・・これから考えよう」
ズボンの後ろポケットからスマホを取り出し、検索する淳哉。その間正子の緊張と、本当に今夜家に帰れないかもしれないという不安が同時に高まってくる。
「朝まで過ごせて、足も休められる所・・・」
検索しながら、淳哉が喋る。
「この近くに、岩盤浴があるって」
「岩盤浴?」
「そう。・・・ま、サウナみたいな・・・」
「・・・・・・」
「映画もオールナイトでやってるとこ無いしな・・・」
「・・・・・・」
『やっぱり帰る』と言い出すなら今しかない。淳哉の終電がなくなってからでは遅いのだ。そう正子の気持ちが焦り出す。
「あ・・・」
胸が絞めつけられる様に苦しくて『あっちゃん』と名前を呼ぶ事もできない。声が上ずって震えてしまう。しかも声が小さすぎて、淳哉まで届かない。
「あ・・・」
レンガの壁の上に腰掛けて、これから朝まで過ごす場所を検索中の淳哉には、正子の震えた声がなかなか聞こえない。
「あ・・・あっちゃん」
「ん?」
返事はするが、目は画面を見たままだ。
「あのさ・・・あっちゃんの終電、何時?」
「え?俺?」
ようやく顔を上げて正子の顔を見る。思った以上に思い詰めた顔つきに、淳哉もハッとする。
「・・・やっぱり帰る?」
「・・・・・・」
すっかりどうしていいか分からない様な顔をしている正子に、淳哉が言った。
「そっか。終電の時間、もう一回調べてみるね」
淳哉はにっこり笑って、正子にそう言った。暫くしてから淳哉が、正子の顔を心配そうに見ながら言った。
「もう終わっちゃったみたい・・・。でも、まーこ帰っていいよ。俺、テキトーに朝まで時間潰して始発で帰るから」
正子は頭をブンブン振った。
「じゃ、私もいる」
「平気だよ。まーこ、帰った方がいいよ、きっと」
「平気。・・・お父さんにはメールしたし・・・」
淳哉はレンガから下りて、正子の手をそっと取った。
「お父さんの心配じゃなくて・・・まーこの気持ちが・・・心配」
「・・・平気。平気」
正子はまるで自分に言い聞かせている様だった。
「ほんとに平気?」
思い詰めた表情で頷く正子に、淳哉はからかう様に言った。
「不良だなぁ、まーこは」
そして、これからの時間を過ごす淳哉が見つけた場所へ向かう為、正子の手を握った。
「さ、行こ」
「・・・どこに?」
ふふふと鼻で笑う淳哉。急に不安がMAXに跳ね上がり、足取りも重たい正子。
「あっちゃん・・・どこ行くの?」
「いいとこ、見つけた」
「・・・・・・どこ?」
決して言おうとしない淳哉に、正子の不安が大きく膨れ上がり 今にも割れそうな風船の様だ。
「おっ、タクシー乗ろう」
空車を見つけて、すかさず手を挙げる。
僅か5分か10分程で目的地に到着したが、その間の正子の心の動揺は 想像以上のものだった。タクシーが二人を下ろしたのは、横浜のスパ施設だった。タクシーから降りたはいいが、一体どこに入るというのだろうと 正子がキョロキョロしているところへ、淳哉が言った。
「まーこも疲れてるだろうし、明日も昼から仕事でしょ?だから、風呂入って少し休もうかなって、ね」
それを聞いた正子は、少し安心したのか、瞳にはみるみる涙が溜まってくる。
「変な所に連れてかれると思ってたでしょ?」
淳哉は正子の頭に手を乗せた。
「俺、信用ないなぁ」
正子は首を横に振って、拳で軽く淳哉の胸を叩く。
「言ってよ・・・。意地悪」
「ごめん。でも、どれ位俺の事信じてくれてるか、知りたかったから」
「信じてるから、ついて来たんだよ・・・」
「いつ逃げ出そうかって位思い詰めた顔して、ね」
受付を済ませ、男湯と女湯の別れ際で淳哉が言った。
「ゆっくり入っといで。出たらさっきの所に俺いるから。多分俺、マッサージとかしてるから、慌てないでいいからね」
『後でね』とにっこり笑って男湯に入って行った淳哉としばし離れ、正子も女湯の戸をくぐる。まかさこんな展開になるなんて、誰が想像しただろう。たった3回目のデートで、終電にも乗らず朝までコースだなんて。しかも、いくら別々とはいえ男の人と一緒にお風呂に入りに来てしまうなんて。暫く正子は椅子に座って頭を抱えていた。意外に夜中の利用客が多い。正子がうずくまって椅子に座っていると、50代の女性が声を掛けてくる。
「どうしたの?具合悪いの?」
慌てて顔を上げると、心配そうに覗き込むその人の顔があった。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
それに背中を押された様に、正子は風呂へと入って行ったのだった。
こういう大衆浴場は落ち着かなくて苦手だったが、入ってしまえば意外と気持ちのいいものだ。炭酸ガスの湯、ジェットバス、打たせ湯、泡風呂、様々なお湯がある。サウナもミストサウナと二種類ある。今日一日、緊張したり泣いたり笑ったり 色んな事があり過ぎて、とても一日の出来事とは思えない。正子はお湯に肩まで浸かると、ふうっと息を大きく吐いた。歩き疲れた足も、緊張して張った肩も全てが緩んでいく気がする。
風呂から上がって、さっき淳哉と約束した場所へ戻ってみると、淳哉が座敷でビールを飲んでテレビを見ている。正子が近寄ると、淳哉が満面の笑みを浮かべた。
「おかえり。気持ち良かった?」
何故か気恥ずかしさが勝って、くすぐったい。顔をまともに見られない正子だった。淳哉のビールが随分減っているのに正子が気付く。
「凄い・・・待った?ごめんね」
「ううん。平気」
何故か淳哉がにこにこ顔だ。
「少しは疲れ取れた?」
「うん」
さっきから淳哉がずっと正子の顔を見てニコニコしていて、それが正子の緊張を高めた。
「まーこもビール飲む?」
正子は首を横に振った。
「まーこ、肩凝る方?」
そう言って淳哉の腕が正子の首に伸びる。
「めっちゃ凝ってる。あっちにマッサージチェアあったよ。行かない?」
淳哉について行き マッサージチェアに二人並んで座る。小銭を入れてスタートボタンを押し、二人はしばし椅子に身を委ねる。
「足が結構いいね」
淳哉が正子の方を向く。
「うん。気持ちいい」
「俺、寝ちゃうかも」
そう言う淳哉が、正子の方へ手を差し出した。
「手、繋ご」
手が軽く繋がれたまま、二人は再びもみほぐしに身を任せる。マッサージのコースが終わり 正子が淳哉の方を見ると、すやすやと眠っている姿があった。起こすのもためらわれ、暫く淳哉の寝顔を見ていると、正子も幸せな気持ちになる。昔に、まだ電話をし始めた頃、淳哉が電話したまま眠ってしまった時に聞いた寝息に嬉しさを覚えた事を思い出す。このまま時が止まればいいと思う程、正子は穏やかで新鮮な幸せを味わっていた。正子が手をそっと離そうとすると、寝ている筈の淳哉の手に僅かにぎゅっと掴まれる。驚いて淳哉の寝顔を見るが、やはり淳哉は眠っている。無意識の中にも、正子と手を繋いでいる事で 安心しているのだ。無性に嬉しさが込み上げ、正子も思わずにやけてしまいそうになる。
どれ位経った頃か、淳哉が少し寝返りを打つように動いたのをきっかけに、正子がそっと声を掛けた。
「あっちゃん」
ゆっくりと夢から現実に戻ってきた淳哉が目を開ける。
「むこうで横になる?」
寝てしまった自分に気付き、淳哉も慌てて身を起こした。
「ごめん。ほんとに一瞬で寝ちゃった」
正子がフロントで毛布を借りて座敷に戻ると、淳哉が腕を頭の後ろに回して仰向けに横になっていた。目を瞑っている淳哉に、そっと毛布を掛ける正子。
「まーこも横になりなよ。明日仕事でしょ?体もたないよ」
正子の心臓が一瞬で止まりそうになる。まさか、淳哉の横で寝るなんて 地球がひっくり返ったって出来ない。出来る訳がない。正子は表情を強張らせ、首を横に振った。
「私は・・・いいや。平気」
淳哉が体を起こした。
「じゃ、ここで寝る?」
テーブルにうつ伏せになる淳哉。
「あっちゃんはいいよ。横になって」
「いいよ。まーこが起きてるなら俺も起きてる」
少し困った正子が、口を開いた。
「じゃ、私 ここで寝るから」
そう言って、淳哉とは反対の方へ顔を向けて テーブルに伏した。すると淳哉も同じ方を向いて、テーブルに頬をつけた。
「まーこ、シャンプーのいい匂い」
びっくりして、正子が飛び起きる。
「あれ?ダメ?そういう事言うのも」
「・・・・・・」
正子の目が点になっている。すると淳哉が少し口を尖らせた。
「だって まーこ、むこう向いちゃうんだもん」
「だって・・・」
まさか淳哉の方を向いて寝るなんて、出来る訳がない。正子は心の中でそう叫んだが、それを言葉に出す事は出来なかった。
「あ~、なんか俺腹減ってきちゃったな。まーこ、何か食べない?」
「今から?眠たかったんじゃないの?」
「もう、目覚めた。俺、月見そば食べよ。まーこも腹減ったでしょ?」
そう聞かれたら、小腹が空いている様な気もする。しかし、この慣れない環境下での緊張から、空腹感は二の次の問題だ。
「私はいいや」
「やっぱ女子は寝る前には食べないんだ」
淳哉が公言通り月見そばを持って戻って来た時には、正子はテーブルに頬杖をついてウトウトしていた。そばつゆの香りが正子の鼻にほんのりと届き、目を開けると、熱いそばをフーフーしながらすする淳哉がいる。
「まーこ、横になって寝な。俺、こっちでいいから」
そう言って、テーブルを指さす淳哉。
「明日も仕事でしょ?体もたないよ。ほら」
毛布を掛ける素振りを見せる淳哉に、正子が背筋を伸ばした。
「ちょっとウトウトしただけ。大丈夫」
真っ赤な充血した目で必死にそう話す正子に、淳哉はふっと笑った。
「そんなに警戒しなくっても平気だよ。俺、何にもしないからさ」
「警戒してる訳じゃない・・・」
それを聞いて、淳哉はまたふっと笑った。
「じゃ、これ食いな」
月見そばの丼を正子の前に差し出す。
「まーこは この卵、途中で割る派?最後まで取っとく派?」
「ん~迷う」
「だよね。俺も毎回迷う。最後の方で割って、一気に食う・・・みたいな」
「あ~わかる」
「まーこ、卵割っていいよ」
「え?まだいっぱいお蕎麦あるよ」
「だって、卵割らなきゃ ただのかけそばでしょ」
「え~、割るの?なんか、もったいない」
「いいから。ぐちゃっといって、一気に食いな」
そうは言われたものの、そ~っと黄身に箸を刺す。
「ほらほら。黄身が出てきたら一気に絡めて食わないと」
一口食べて丼を淳哉に戻す。すると淳哉が言った。
「半分食べてよ。俺ちょっと食いたかっただけだから」
淳哉が最後に卵で白濁したつゆを飲みきると、ふうっと伸びをした。
「旨かったね」
空腹も落ち着いた淳哉が、座敷に寝転がりながら ついているテレビを眺める。家でもこんな風に過ごしているのだろうかと、正子は淳哉を見て ぼんやりとそんな事を思う。暫く黙ってテレビを見ていると、いつの間にか寝息を立てている淳哉。そっと毛布を掛けると、正子もテーブルに突っ伏して眠りに落ちた。
正子の近くで、携帯のアラームが震えて知らせる。ブーンブーンという振動音に目を覚ます正子。淳哉はまだ眠っている様子だ。時間は4時半だ。そろそろここを出ないと、始発電車に間に合わなくなる。
「あっちゃん・・・」
遠慮がちに淳哉の肩をゆすって声を掛ける正子。目を覚ました淳哉が開口一番こう言った。
「何時?」
「4時半。そろそろ出ないと・・・」
「そうだね」
上半身を起こして伸びをする淳哉。眠たい自分に喝を入れる様に、頬を両手で叩いた。
「さ、行こう!」
駅までの道を歩きながら、淳哉は缶コーヒー 正子はレモンティーで朝の気分に切り替える。
「少しは寝たの?」
淳哉が正子を心配する。
「お父さん、平気かなぁ」
実はさっきから、正子の一番の心配はそれだったのだ。アラームで起きたと同時に携帯に着信やメールが届いていない事に ほっと胸をなで下ろしていたのだ。
「連絡が入ってないから、多分寝てて気づいてないんだと思う」
「お父さん起きる前に、家に着ける?」
正子はこくりと頷く。まだ薄暗い朝の道を、駅まで淳哉と歩いている事に、正子はいまだに信じられない気持ちだった。いわゆる世間で言う朝帰りだ。淳哉と夜を明かしたのだ。駅に近くなるにつれ、仕事に向かう様ないでたちの真面目な人達を見ると、余計に恥ずかしくなってくる。朝の駅で手を繋いでいるのは恥ずかしいものがある。しかし淳哉はまるでそんな事気にしていない様子だ。
「誕生日、どうしようか。どっか行きたい所考えといてよ」
「うん」
「いっぱい一緒に居られて、良かった」
「うん」
京急線の改札が近い。淳哉はJRだから、今度こそバイバイの時だ。
「電車で寝過ごしちゃダメだよ」
「あっちゃんもね」
「仕事、大丈夫そう?」
「うん」
手を離すタイミングを、お互いに見つけている。下り電車の発車まであと2分の時に、淳哉が手を離した。
「気を付けて帰るんだよ。またね」
まるで何日も一緒に居た様な気がしていた。まだ昨日の待ち合わせから20時間と経っていないのに、とても長い間時間を過ごしていた錯覚を起こす。またいつもの日常に帰るだけだ。それなのに正子は、改札を入っても なかなかホームへ歩き出せずにいた。『電車来ちゃうから早く行きな』という淳哉のゼスチャーも無意味に近い。そして淳哉はとうとう片手を上げてバイバイをすると、自分から姿を消した。
正子が家の前に帰り着いたのは、5時半を過ぎたところだった。近所の誰にも会わない事をひたすら願いながら、下を向いて必死に家まで辿り着いたのだ。門を開けるのも細心の注意を払い、音を最小限にとどめた。まずは難関1つ目はクリアだ。次は玄関の鍵を開けなければならない。そ~っと息を止めながら鍵を回すと、小さな音でガチャッと音がする。まずまず成功だろう。そんな事を思いながら玄関の扉を開けると、なんとそこには父親が驚いた表情で立っていた。
「おかえり」
「あ・・・お父さん・・・」
色んな言い訳が頭の中で渦を巻く。
「今・・・帰って来たのか?」
「あ・・・お父さんは?」
「新聞取りに来たんだよ」
「あ、そっか。もうそんな時間か」
こういう時に挙動不審な態度をするから怪しまれるのだ。そう自分に言い聞かせながら、正子は自分を必死で落ち着けた。
「お前、今日も仕事だろ?」
「そうだよ。午後から」
ポストから新聞を取り出す父が、何故か『どこに行ってたんだ?』と聞かない事に、正子は急に変な想像を膨らます。疑われているのなら、自分から話した方がいい。そう思った正子は靴を脱ぎながら喋り出した。
「昨日仁美と一緒に話してたら終電無くなっちゃって、横浜で温泉入ってきた」
「仁美ちゃんだって、今日仕事だろ?」
「あ、うん。・・・でもね、なんか今日は遅く行くみたい」
しまった。仁美は普通のOLなのだ。うっかりしていた。しかし、そこはもう嘘をつき通すしかない。正子は、妙な明るさで父に言った。
「荷物置いて来たら、朝ご飯作るね」
まるでやましい事等ありませんと言わんばかりの、必死の正子の振る舞いだ。確かに朝帰りではあるが、父親に知られてはならない様な やましい事をしてきた訳ではない。だからいいんだ。堂々としていればいいんだと、正子は自分に言い聞かせて、自分を落ち着かせた。




