最悪の置き土産
タワーマンションの最上階。夜景を背に、俺――深山健はデスクに厚い封筒を置いた。
「これで今月の給料、それから退職金だ。お前の親の借金も、利息含めてすべて完済扱いに書き換えておいた」
目の前に立つミカは、半年前の怯えていた女子高生ではない。背筋を伸ばし、一人の女性として自立した顔をしていた。
「……ありがとうございました。深山さんがいなければ、私は今頃、どこで死んでいたか分かりません」
「礼には及ばない。お前はそれに見合うだけの成果を出した。……明日からは、ただの大学生として、アリの行列に混じって好きに生きろ」
ミカは深く頭を下げた。彼女の瞳には、まだ俺への複雑な感情が残っているようだったが、俺はそれ以上何も言わなかった。
彼女が部屋を出ていく。バタン、とドアが閉まる音が、俺と「地球での日常」との繋がりが切れた合図だった。
「さて。これで後腐れはないな」
広すぎるリビングで一人、俺は指先を鳴らした。
空中にどす黒い亀裂が走り、かつて俺を処刑した、あの忌々しい世界の魔素が漏れ出してくる。
この半年の間に、俺は地球の技術と魔法を融合させ、ゲートをより安定させることに成功した。
目的は、かつて俺の悪事のすべてを支え、今は王国の最深部に幽閉されている『共犯者』の回収だ。
「俺の道具を、いつまでも汚い牢獄に寝かせておくのは癪だからな」
俺は偽装していた姿を捨て去り、本来の『石田拳也』としての冷酷な笑みを浮かべ、漆黒の渦の中へと足を踏み入れて。
王国の地下深くへと続く、大監獄『タルタロス』。
俺は第一話、処刑台から逃れる際に使った魔法――**【存在隠蔽】**を再び展開し、誰にも知覚されない「亡霊」となって薄暗い石造りの階段を降りていた。
足音も、体温も、魔力の波長さえも完全に世界から切り離されている。
松明を手にした見回りの兵士たちと肩がぶつかるほどの距離ですれ違っても、彼らは俺の存在に一瞥もくれない。
「……あーあ、やってられねぇな。今月もまた給料カットだぞ」
「仕方ないだろ。あの『大罪人』が処刑されてから、この国の財政はボロボロなんだ。あいつが裏で回していた他国との貿易ルートも、スラムの治安維持も、全部崩壊しちまったんだからな」
すれ違いざまに聞こえてきた看守たちの愚痴に、俺は思わず鼻で笑った。
正義を気取った勇者や王侯貴族どもは、俺という「悪」を排除すれば平和が訪れると本気で信じていたのだ。だが現実は違う。俺が裏で国を支配し、富を循環させていたからこそ、この国はかろうじて形を保っていたのだ。
「俺がいなくなって、さぞ清く正しい国になったかと思えば……結局、無能な連中が国を食いつぶしてるだけじゃないか。傑作だな」
俺は誰にも聞こえない独り言を呟きながら、迷うことなく最下層――国家反逆罪レベルの大罪人のみを収容する『第零区画』、通称「奈落」へと足を踏み入れた。
光も届かない、冷たい湿気に満ちた極寒の空間。その最奥を塞ぐ分厚い魔力結界の扉を、俺は指先ひとつで硝子のように粉砕した。
「……何の騒ぎですか。今日はもう、拷問の時間は終わったはずですが」
暗闇の奥。冷たい鉄格子の向こうで、魔力を吸い取る特殊な『封魔の鎖』に両手足を縛られ、壁に磔にされている人影が掠れた声を上げた。
銀色の長い髪は汚れ、ボロボロの囚人服を着せられているが、その双眸の鋭さだけはかつてのままだ。俺の右腕であり、異世界における唯一の共犯者、魔族の女・イリス。
俺は【存在隠蔽】を解き、静かに彼女の前に立った。
「相変わらず、可愛げのない顔をしてるな。イリス」
「……」
俺の顔と声に、イリスはわずかに目を見開いた。しかし、すぐに自嘲気味な笑みを浮かべる。
「とうとう幻覚を見せる拷問に切り替えましたか。王国の連中も趣味が悪い。……彼は死にましたよ。この私が、彼が断頭台で首を落とされるのをこの目で見たんだ」
「俺が大人しく死を待つようなタマに見えるか?」
俺が鎖を素手で掴み、魔力を流し込んで消滅させると、イリスの体がぐらりと崩れ落ちた。俺はそれを片手で受け止める。
「……あ……?」
イリスは俺の腕の感触、そして俺から発せられる圧倒的な魔力の波動に触れ、ようやくそれが幻覚ではないと理解したようだった。光を失っていた紫色の瞳が、大きく見開かれる。
「……本物、ですか。本当に、拳也様……?」
「ああ。少しむこうでバカンスを楽しんできた。……随分と待たせたな」
俺の言葉に、常に冷徹だったイリスの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「さあ、帰るぞ。お前みたいな優秀な手駒を、こんなカビ臭い地下室で腐らせておくのは俺の性に合わないんでね」
俺が不敵に笑うと、イリスもまた、かつて俺の隣で見せていた、底意地の悪い最高の笑みを浮かべたのだった。
その時、けたたましい魔力警報が地下監獄全体に鳴り響いた。
俺が結界を粉砕したことで、上の連中が異常に気付いたらしい。ドタバタと重武装の看守や王国騎士たちが階段を駆け下りてくる音が響く。
「侵入者だ! 大罪人イリスを逃がすな!」
「殺せ! 相手が何者であろうと構わん!」
数十人の騎士たちが奈落の部屋を取り囲み、一斉に武器と魔術を俺たちに向けた。
イリスがわずかに身構える。長期間の幽閉で彼女の魔力は底を突いているはずだが、それでも戦おうとする姿勢は流石だ。
「下がりな、イリス。病み上がりの手駒に無理をさせるほど、俺のブラック企業は甘くない」
俺はイリスを背後にかばい、一歩前に出た。
「貴様、何者だ! 結界をどうやって……」
先頭に立っていた騎士隊長が俺の顔を見て、言葉を失った。彼の顔が、信じられないほどの恐怖に歪んでいく。
「ば、馬鹿な……石田拳也……!? 貴様は、あの時処刑されたはず……!!」
「よお。俺がいなくなってから、随分と国を腐らせてくれたみたいだな。お前らみたいな無能の集まりじゃ、やっぱり無理だったか」
俺は片手を軽く前にかざした。
「さて、俺は忙しいんでね。手早く『精算』させてもらおうか」
発動するのは、異世界で使っていた魔術と、地球での経験を経てより残酷に洗練された魔術の複合。
――【虚無の圧殺】。
「がっ……!?」
「あ、ぎゃあああっ!!」
騎士たちが何かを唱える間もなく、目に見えない圧倒的な質量の闇が彼らを上から押し潰した。骨が砕け、鎧がひしゃげる凄惨な音が地下室に響き渡る。
殺しはしない。ただ、二度と武器を握れないように四肢の骨を粉々に砕き、一生消えない恐怖を脳髄に刻み込んでやったのだ。
地獄絵図と化した監獄を一瞥し、俺は空間を切り裂いて『地球』へと繋がる漆黒のゲートを開いた。
「な……空間が、割れた……? 拳也様、これは一体……?」
「俺たちの新しい『遊び場』への扉だ」
驚愕するイリスに、俺は手を差し伸べた。
「お前には、向こうでもう一度俺の右腕として働いてもらう。今度は国一つじゃ済まない、世界の裏側をすべて手に入れる計画だ」
「……ふふっ」
イリスは痛む体を引きずりながら、俺の手をしっかりと握り返した。
「ええ、喜んで。……どこまでも、あなたについて行きますよ。私の最悪の主」
俺たちは、絶望のうめき声が響く異世界を背に、新たな覇権の舞台である地球へと足を踏み入れた。
残された王国が、俺への恐怖と内乱で完全に自滅するのは、そう遠くない未来の話だ。




