甘い毒の契約
ターゲットは、ギャンブルで作った借金をバックれている小悪党の男。古びたアパートのドアの前にミカを立たせ、俺(健)は死角に身を潜める。
「……はい?」
チャイムを鳴らすと、面倒くさそうに男が顔を出した。深山金融の使いだと名乗るミカを見て、男は下品な笑いを浮かべる。
「はぁ? お前みたいなガキが取り立て? なめられてんなぁ。そんなにお金欲しいなら、おじさんが別の方法で稼がせてやろうか?」
男がミカの腕を強引に掴み、部屋に引きずり込もうとした――その瞬間。
「……うちの助手に、気安く触らないでもらえるかな」
俺はスッと死角から歩み寄り、男がミカを掴んでいる方の腕を掴み返した。
「あぁ!? なんだお前――」
男が凄もうとした刹那。俺は一切の躊躇なく、その腕を逆関節の方向へ力任せにへし折った。
バキィッ!!
「――あ?」
一瞬、男は何が起きたのか理解できていないようだった。
だが次の瞬間、肉を突き破って飛び出した白い骨と、ありえない方向に曲がった自分の腕を見て、絶叫を上げた。
「ぎゃあああああああああああっ!? あ、腕が! 腕があぁぁぁっ!!」
男は廊下に転げ回り、自身の腕を押さえて豚のように泣き叫ぶ。
俺はのたうち回る男の顔面を無造作に蹴り飛ばし、冷たく見下ろした。
「ほら、さっさと金出せよ。次は足いくぞ」
「ひっ、あ、あああっ……!!」
男は血と涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら、部屋の奥から現金が入った封筒を這うようにして持ってきた。
「よし、全額あるな。ご苦労さま」
俺は封筒から数万円を抜き出し、振り返ってミカのほうへ差し出した。
「初仕事のボーナス。餌役、よくできたね」
「あ……ぁ……」
ミカは腰を抜かしたまま、ガタガタと全身を震わせていた。
俺の差し出した金を見る目は、まるで毒蛇か何かを見るかのように怯えきっている。
俺が「少しやりすぎたか?」と一歩近づいた瞬間。
「ひっ……いやあああああああっ!!」
ミカは悲鳴を上げ、俺から逃げるように立ち上がると、夜の街に向かって全力で走り去ってしまった。
「…………まあ、普通はそうなるか」
暗い夜道へ消えていく背中を見送りながら、俺は軽く肩をすくめた。
あの日から数日。ミカからの連絡は当然なかった。
だが、俺は彼女の持ち物に、微弱な【位置把握】の魔術マーキングを施していた。俺が「餌」として選んだ女が、どこでどう転ぶかくらいは把握しておきたかったからだ。
そして今夜、そのマーキングが歓楽街の裏路地で激しく動いていた。
「……なるほど。逃げた先が『本物の地獄』だったってわけか」
路地裏の奥では、ガラの悪いチンピラ数人が、壁際にミカを追い詰めていた。ミカの頬は赤く腫れ上がり、服は泥だらけだ。
「親父の借金バックれて逃げ回れると思ってたのか? おとなしく車に乗れ。いいお店を紹介してやるからよ」
「や、やだ……離してっ!」
チンピラの一人が、ミカの髪を掴んで無理やり引きずろうとする。
ミカが絶望で目を閉じた、その時だった。
「――おい。俺の『優秀な助手』に、勝手な真似をしないでくれるかな」
俺は路地の入り口から、足音も立てずに歩み寄った。
「あぁ? なんだてめぇは……」
「深山金融だ。彼女には、うちの回収業務を手伝ってもらっててね。……まだ初任給も渡してないんだよ」
チンピラたちが鼻で笑い、俺に向かってナイフを取り出して飛びかかってきた。
「死ねやぁっ!」
俺は避けない。ただ、ポケットに手を入れたまま、小さく【重圧】の魔術を編んだ。
「――がっ!?」
「ごっ、ぁ……!?」
チンピラたちの体が、見えない巨大な手に上から叩き潰されたように、アスファルトに激突した。
ミシッ、メキッ、と骨が軋む嫌な音が路地に響く。俺は地面に這いつくばって泡を吹く男たちの頭を、革靴で無造作に踏み越えてミカの前に立った。
「……あ、あ……」
ミカは腰を抜かし、ガタガタと震えながら俺を見上げている。
目の前で腕をへし折った、あの日の恐怖がフラッシュバックしているのだろう。
俺は懐から封筒を取り出し、ミカの目の前にぽいっと投げ落とした。
「あの日の日給だ。受け取らずに逃げるから、わざわざ届けに来る羽目になった。……俺は、給料の未払いみたいなブラックな真似は嫌いなんだ」
ミカは、地面に落ちた封筒と、俺の顔を交互に見つめた。
ただのクズ共は、彼女を暴力で搾取し、地獄へ突き落とそうとした。
だが、目の前にいるこの男は、常軌を逸した化け物だが――自分が提示した『約束(金)』だけは絶対にごまかさず、そして、群がる有象無象を指先一つで捻り潰す圧倒的な力を持っている。
(……どうせ地獄に落ちるなら)
ミカの脳裏に、どす黒い安堵感が広がっていく。
逆らえば壊されるという絶対的な『恐怖』。しかし同時に、この化け物の後ろにさえいれば、他のどんな脅威からも守られるという歪んだ『依存』。
「……あ……」
ミカは震える手を伸ばし、地面の封筒を握りしめた。
そして、ボロボロと涙をこぼしながら、その場に深く土下座するように平伏した。
「……働きます。逃げて、ごめんなさい……。私、深山さんのところで、働きますから……!」
「そう。じゃあ、明日は午後から一件頼むよ」
俺は短く告げると、きびすを返して路地を出る。
後ろから、ミカが慌てて立ち上がり、俺の背中を小走りで追いかけてくる足音が聞こえた。
「――これで、俺の共犯者だ」
夜風に紛れて、俺は誰にも聞こえない声で小さく笑った。




