第三の逸脱
三回目の祈りは、
他と何も変わらない音で届いた。
交通事故。脊髄損傷。
命は助かったが、下半身不随。
祈りの主は本人ではない。
家族だった。
俺は、いつものように視界を寄せた。
そして、名前を見た。
大野結衣。
……ああ。
一瞬だけ、時間が止まった気がした。
俺が勤めていた印刷会社で、バイトとして来ていた女の子だ。
元気で、真面目で、指示書をきちんと読み、分からないことは素直に聞く。
遅刻もしないし、雑談もほどほど。
「お疲れさまです!」
帰り際、いつもそう言っていた。
ただ、それだけの関係だ。
親しいわけじゃない。連絡先も知らない。
仕事が終われば、交わることのない人生。
それでも――
この人生が、どんなふうに続いていくか。
俺は、なんとなく想像できてしまった。だから、きつかった。
事故の詳細が流れ込んでくる。
横断歩道。信号無視の車。即死ではなかった。助かった。
だが、歩けない。
祈りは静かだった。
ーもう一度だけ、立たせてください。
俺は、立ち止まった。
一回目を思い出す。
気づかぬまま、世界が揺れた。
二回目を思い出す。
揺れは増幅し、想像を超えた犠牲を生んだ。
神様は正しい。
世界は、そうできている。
ここで手を出さなければ、俺は正しい代理人でいられる。
――それでも、か。
自分に問いかける。
分かっている。これは、特別扱いだ。
赤の他人なら、きっと見送れていた。
だが―― 知っている。
インクの匂い。作業台に並ぶ紙束。真面目に働く後ろ姿。
それを、なかったことにできなかった。
俺は、息を吐いた。
……それでも、だ。
因果に触れる。今までで、一番慎重に。奇跡は起こす。
だが、音を立てない。
断裂した神経を、元に戻す。
最初から、傷などなかったかのように。
感謝が波紋にならないよう、世界に余白を残す。
完全には止められない。
それでも、揺れは抑えられた。
数日後。
彼女は、立った。
大きな歓声はなかった。
奇跡だ、と叫ぶ声もない。
家族が泣き、本人が、静かに頭を下げた。
『ありがとうございます』
誰に向けた言葉かは、分からない。
世界は、静かだった。
三回目。
俺は、分かっていた。
これ以上は、やらない。
やれない。
神にはなれない。だが、無力でもない。
俺の見える範囲では――
世界は、前に転がっている。
それで、十分だ。
それから俺は、もう逸脱しなかった。
祈りを聞き、集め、何もしない。
世界は今日も回り続ける。
誰かが死に、誰かが生まれ、誰かが立ち上がる。
ある日、俺は神様に言った。
もういい。
声は、静かだった。
――退職だな。
ああ。
――理解した上でか。
ああ。
神様は、しばらく沈黙した。
その沈黙は、これまでより長かった。
そして、最後に一度だけ、こう言った。
――お前は、
――最適解ではなかった。
胸が、少しだけ痛んだ。
――だが、誤りとも言い切れない。
それ以上、言葉はなかった。
世界が、遠ざかる。
視界が、静かに閉じていく。
恐怖はなかった。後悔もなかった。
神様が正しいことも、世界が残酷なことも、全部、分かっている。
それでも俺は、人間のまま、選んだ。
……それでいい。
祈りは、今日も止まらない。
神様は、今日も何もしない。
そして、どこかで誰かが、自分の足で立ち上がる。
世界は、それで回っていく。
これで完結です。最後までお付き合いありがとうございました。




