第90話 俺は知らない 城之崎光哉の場合
中学三年の夏。
じりじりと肌を焼くような日中の暑さが嘘のように、涼しい夜風が頬を撫でる。
母さんに着付けを手伝ってもらった慣れない浴衣の帯を気にしながら、俺は待ち合わせ場所の神社の境内で一人そわそわと鷲那を待っていた。
鷲那は一年前に京都から引っ越して来た、一つ年下の後輩だ。
何を考えているのか、少々掴みどころのないところがある。
だがなぜか妙に懐かれていて、俺も何かと世話を焼いていた。
「すみません、お待たせしました!」
軽やかな下駄の音と共に、聞き慣れた声が響く。
振り返るとそこには、淡い水色の生地に細い縞の入った涼しげな浴衣姿の鷲那がいた。
「あれ? もしかして僕、遅れました?」
鷲那は慌てて自分の腕時計を確認している。
その姿が年相応に子供っぽくて、少し微笑ましかった。
「いや、俺が早く着いただけだ」
俺がそう伝えると鷲那は、
「なら良かったです」
そう言って、太陽の様に笑った。
今日は二人で、この街の夏祭りを回る約束だ。
「では行くとするか」
俺たちは早速、提灯の赤い光が連なる参道へと足を踏み入れた。
りんご飴やたこ焼き、射的に輪投げ。
様々な出店の賑やかな呼び込みの声が、祭りの喧騒を彩っている。
毎年行われるこの夏祭りでは、最後に花火の打ち上げがある。
いつもは咲良と二人で見る、神社の裏手にある少し小高い丘の上の秘密の場所。
今日はそこを鷲那に教えて、一緒に見ようと考えていた。
そう考えながら出店を眺めていると鷲那が、
「先輩!」
と、子供のように目を輝かせた。
「どうした?」
俺が聞くと、鷲那は屋台の並びから少し外れた薄暗いプレハブ小屋のような建物を指差した。
いかにも怖がらせようとしていると思わせる様な書体で、『お化け屋敷』と書かれている。
「ここ、行きましょう!」
「え?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
どうする。
どう断るのが最も合理的、尚且つ先輩としての威厳を損なわない形か。
俺が思考を巡らせていると、鷲那は小首を傾げて不安そうに俺の顔を覗き込んできた。
「駄目……ですか?」
くっ……。
俺を見るその瞳に、何故か断ると言う選択肢を失ってしまった。
「……別に、構わんが」
気付けばそう口走っていた。
「良かった、じゃあ行きましょう!」
鷲那は嬉しそうに、俺の手を取った。
これは良くない。
非常に良くない、実に良くない。
そう後悔しているうちに、俺はどんどんとお化け屋敷の入り口へと手を引かれていく。
中は予想通りじっとりとした生温い空気と、カビ臭い匂いに満ちた暗闇だった。
一歩進むごとに、軋む床の音がやけに大きく響く。
足が思うように前に進まない。
「城之崎先輩、こっちですよ!」
隣で鷲那が楽しそうに笑っている。
俺はこの男の前で、恥ずかしい所を見せる訳にはいかない。
……俺は大丈夫だ。
そうだ、俺は大丈夫だ。
念仏のように、内心で繰り返す。
「わっ!」
突如すぐ横の暗闇から、大声と共に幽霊の仮装をした大人が飛び出してきた。
「うわああっ!」
鷲那が、素直に大声を上げて驚いている。
その反応に驚いて、俺は何とか硬直するだけで済んだ。
「先輩、怖くないんですか?」
感心したような鷲那の声に俺は、
「まあ」
と曖昧に濁すのが精一杯だった。
やがて暗闇の先に、ぼんやりとした光が見えてくる。
「先輩、出口ですよ!」
鷲那が声を上げる。
良かった、これで終わりか。
そう思った瞬間、俺は全身の力が抜けていくのを感じた。
「光哉! 光哉!」
この声は……咲良?
ゆっくり目を開けると、心配そうに俺を覗き込む咲良の顔が見えた。
「……咲良?」
「良かった……!」
安堵する咲良と、
「先輩、大丈夫ですか?」
と聞いてくる鷲那、そして何人かの幽霊に扮した大人たちが、俺の周りを取り囲んでいた。
俺は咄嗟に、
「ご迷惑をお掛けしてすみません、もう大丈夫です。」
そう言って頭を下げると、鷲那と咲良を連れて喧騒の中からお化け屋敷を離れた。
人気の無い場所に出るなり、咲良が鷲那に食って掛かった。
「あんた! 何で光哉をこんなとこに連れて来たの!?」
「ぼ、僕は……」
鷲那は咲良の剣幕に、完全に気圧されていた。
気づけば俺は、
「咲良、やめろ。」
と言っていた。
「光哉、なんで止めるの!? この子が光哉をお化け屋敷になんか連れてきたせいでしょ!」
「違う、俺が行くと言ったんだ」
俺がそう伝えても、咲良は納得していないようだった。
「それより何故咲良はここに居るんだ? もしや勝手に跡を付けて来たのか?」
俺がそう聞くと咲良は、
「偶然近くに居ただけだもん!」
と顔を真っ赤にして言う。
そんな訳無いだろう、と俺が言い返すと咲良は、
「……私、帰る!」
と言って、本当に帰ってしまった。
結局鷲那とも気まずくなってしまい、その場で解散することになってしまった。
コースターがゆっくりと停止した。
何だ今のは。
俺は知らない。
こんな記憶はない、だが妙にリアルだ。
「キノー!楽しかったな!」
能田と敷島と合流する。
すると二人は、
「私達はちょっと飲み物買って来ますけど、城之崎君も来ます?」
そう聞いてきた。
俺は、
「いやいい、待っている」
と答え、一人ぼんやりと周りを眺めていた。
そうか、俺は中三の時も気を失っていたのか。
高二の体育祭の時が初めてだと思い込んでいた。
そもそも鷲那とのあんなにも印象的な思い出を、何故今まで忘れていたのだろうか
その時だった。
陽気な人混みの中に見慣れた、それでいてここに居るはずのない男の姿が見えた。
なんだ、鷲那の事を考え過ぎて幻覚まで見出したか。
そう思っているとその男――鷲那がふと、こちらを向く。
俺の存在に気付いて、驚いたように目を見開いた。
え?
まさか、本物か?
こんな偶然があるのか?
俺が呆然としていると、鷲那の隣にいたモデルのように綺麗な女性が鷲那に問いかけた。
「豊樹さん?この方はお友達?」
そして俺の顔を見ると、彼女は微笑んでこう続けた。
「あ、もしかして!この方が城之崎先輩?」




