第69話 思い出作り 城之崎光哉の場合
芝浦と、鷲那。
俺はどちらを助けるのだろうか。
咲良が嵐のように部屋を飛び出していってから、俺はその答えの出ない問いに捕らわれソファの上で身動ぎ一つできずにいた。
彼女が置いていったグラスに残る水滴が、テーブルの上で小さな水たまりを作っていく。
思考は深い霧の中を彷徨い、時間の感覚さえ曖昧になっていくようだった。
『ピンポーン』
不意に響いたチャイムの音が、重く沈んだ思考の沼から俺の意識を現実へと無理やり引き戻した。
なんだ?
咲良が何か忘れ物でもして、戻ってきたのか?
慌てて壁のインターホンに駆け寄り、応答ボタンを押す。
だが画面に映っていたのは、見知らぬ配達員の男性だった。
「城之崎さーん、お届け物でーす」
そうだ、忘れていた。
ネットで注文した認知言語学の専門書が、今日届くんだった。
俺は力なくオートロックの解除ボタンを押し、玄関へと向かう。
再び鳴ったチャイムに応じ、ドアを開けた。
「サインかご捺印、お願いします」
差し出された端末にどこか覚束ない手つきでサインをしながら、受け取った段ボール箱をひとまず靴箱の上に置く。
配達員に軽く礼を言う。
すると彼は、
「ありがとうございましたー」
と軽い足取りで去っていった。
それを見届け、俺はドアを閉めようとした。
ガタン。
ドアが途中で何かに引っかかって止まった。
なんだと思って隙間を覗き込むと、そこには見慣れた上質な革靴のつま先があった。
まさか。
ゆっくりと恐る恐る視線を上げていく。
するとドアの影からひょこりと、彫刻のように整った綺麗な顔が姿を現した。
「……鷲那?」
「どうも、先輩」
驚きに固まる俺をよそに、鷲那は悪びれもせずにこりと笑う。
「先輩、行きますよ。」
「え?」
そう言うと鷲那はドアの隙間から腕を伸ばし、俺の手をぐっと掴んだ。
その力は華奢な見た目に反して、驚くほど強い。
「え? え? なんだ、どこへ――」
俺が混乱している間に、身体はいとも簡単に部屋の外へと引きずり出されてしまった。
そのまま為す術もなく連行され、気づけば駅のホームにいた。
すぐにやってきた電車に、半ば押し込まれるようにして乗る。
ようやく少しだけ思考が追いついてきた。
「おい鷲那、一体どこに向かってるんだ?」
だが鷲那は俺の問いには答えず、楽しそうにスマホの画面をタップしているだけだった。
それを見て、スマホを部屋に置いたままだと気がつく。
まあ今更どうしようもない。
俺が内心でため息をついていると鷲那が顔を上げて、
「着いてからのお楽しみです」
と微笑んできた。
その笑顔からは、純粋な好意以外の何も読み取れない。
しばらく無言で電車に揺られていると、
「先輩、ここで降りますよ」
と声をかけられた。
促されるままに電車を降り、慣れない駅の改札を出る。
鷲那は迷いのない足取りで、ずんずんと雑踏の中を進んでいく。
そしてしばらく歩いて着いたのは、けたたましい電子音と色とりどりの暴力的な光が溢れる巨大なゲームセンターだった。
「さ、遊びましょう!」
そう言って鷲那は子供のように目を輝かせている。
スマホだけじゃなくて財布も家だ。
「すまん鷲那、財布もスマホも家だ」
そう言う俺に鷲那は、
「心配御無用ですよ!」
と笑顔を向ける、どっかの大河ドラマみたいだななんて考える。
そして俺は訳がわからないまま、彼に引きずられるようにして様々なゲームをプレイさせられた。
対戦型のレーシングゲームでは、子供のようにはしゃぎながら俺の車に何度も体当たりしてきて結局二人ともコースアウトして笑い転げた。
リズムゲームでは最初はバラバラだったタイミングがプレイを重ねるうちいつの間にか完璧にシンクロして、クリアの喝采を浴びた。
クレーンゲームでは俺が何度やってもびくともしなかったなんとも言えない変な顔の猫のぬいぐるみを、鷲那がたった一回でいとも簡単に取る。
そして、
「これどうぞ」
と笑顔で俺に押し付けてきた。
なんだかんだで俺はいつの間にか、心の底からこの状況を楽しんでいた。
咲良に問われたあの問いも、芝浦とのこれからの関係も。
その全てを忘れて、ただ目の前の光と音……そして隣に居た鷲那に夢中になっていた。
すっかり日も暮れた帰り道。
二人分の長い影が、橙色の歩道に伸びている。
そして俺はあの変な顔の猫のぬいぐるみを抱いて。
「すみません先輩、急に付き合わせてしまって」
隣を歩く鷲那が、不意にそう詫びてきた。
「いや大丈夫だ、なんだかんだで楽しかったしな」
俺がそう答えると、鷲那は少し嬉しそうに笑った。
「……でも一体何だったんだ? 今日のこれは、それに忙しそうなのによく時間を作れたな」
ずっと疑問だったことを、俺は尋ねてみた。
俺を無理やり連れ出してまで、したかったこととは。
すると鷲那は少しだけ考える素振りを見せた後心底不思議そうに、そしてとても嬉しそうにこう言った。
「先輩と楽しい思い出が作りたくて、なんとか時間をつくりました」
「……何だそれ」
そのあまりにも子供っぽく純粋な答えに、俺は思わず吹き出してしまった。
こいつの考えていることは、本当にわからない。
だがその笑顔に嘘があるようには、どうしても思えなかった。
俺たちは顔を見合わせて、一緒に笑った。
そうしてあのマンションへと、二人で並んで帰るのだった。




