解脱 その2
奪衣婆は、跪いた市に声をかける。
「市よ、よくぞ解脱の門を躊躇無く開け入ってきた。」
「はい。」
「平安時代に仕えていた主への思慕、執着は無くなったか?」
「はい。
裕紀という人間を愛し、執着し、でもその執着に囚われず一生を終えることができました。
それにより平安時代の主に対する懺悔、それへの執着の本質がわかりました。
それがわかると主への執着が、すっと消えました。」
市はそう答え、微笑んだ。
市は平安時代、ある女主人に仕えていた前世がある。
その主への懺悔から、執着が生まれ、解脱を妨げていたのである。
奪衣婆は奪衣婆見習いであった市を人に生まれ変わらせ、人生をやり直させることでその執着を無くさせようとしたのである。
市への奪衣婆の慈悲であった。
もし、執着がなくならねば市の魂は消滅し無になる所であったのだ。
奪衣婆は市を見つめ、ニコリとした。
市はそれを見て警戒した。
奪衣婆のこのニコリは、何か面白いことを思いつき悪戯しようとする時の笑顔だからだ。
「市よ。」
「な、なんでございましょう?!」
「・・何を妾に警戒しておる?」
「だ、だってその笑顔、何か企んでおりますでしょう?」
「人聞きの悪いことを言う。ただ・・。」
「ただ?」
「お前の感想を聞きたかっただけぞよ?」
「?」
「どうであった、裕紀は素敵であったであろう?」
「え!!」
市は奪衣婆のその言葉に、虚を突かれ目を見開いた。
そして、じわじわと顔が赤くなる。
「だ、だ、奪衣婆様! あ、あの、その・・。」
「うん? どうした、惚れたのであろう?」
「え、あ、う・・、はぃ・・、大好きでした。」
市の声は尻すぼみとなり、最後の方は蚊の泣くような声であった。
「そうであろう、そうであろう! 我が息子だからのう。」
「・・・。」
帝釈天である裕紀は、奪衣婆の息子である。
息子であると言っても、神であるがゆえ人間の親子とは異なるのであるが、神の息子である。
奪衣婆は帝釈天をそれはそれは、可愛くて仕方が無い。
あの武人の神である帝釈天が。
だから事あるごとに息子を自慢したがるのである。
側仕えや同僚もそれをほほえましく思うのだが、帝釈天は恥ずかしくてしかたがないのは言うまでもない。
市は顔を真っ赤にしながら、奪衣婆に言い返す。
「た、確かに裕紀に私は惚れました。
奪衣婆様の言うように、裕紀はすごく魅力的でございます。
帝釈天様だとわかれば尚更でございます!
で、ですけども!
れ、恋愛を仕向けるようにしたのは、奪衣婆様ではないですか!」
「おや、いやだったのか、我が息子では?」
「そんな事はありません! あっ・・・!。」
「ほれみよ、惚れてしまったのであろう?
きっかけは私の誘導によるものだとしても、その後の思慕はお前自身の気持ちじゃ。」
市は何も言えずに俯いた。
そんな市に、奪衣婆は全てを包み込むような微笑みを市に向け言葉をかける。
「市よ、解脱できてよかったのう。」
「ありがとうございます、それもこれも奪衣婆様と帝釈天様のおかげです。」
「ふふふふふ、まぁ、あの子も多少は役に立つという事だな。」
「そ、そのような・・。あの、帝釈天様は?」
「あの子はのう、人間界にまだおる。」
「え? 私がこうして解脱できたのに、帝釈天様はまだ人間界にいてよろしいのですか?」
「ふふふふふふ。」
「え? なぜ笑うのです? 何か悪巧みしておられるようですが・・。」
「あの子にはな、人として寿命を全うさせる事にした。」
「え? お忙しいあの方に? え? 何故?」
「罰じゃよ、妾を蔑ろにし好き勝手に遊んだ。」
「は?・・・。」
「まぁ、あの子の事はほっといて、妾とお茶でもしようぞ。」
奪衣婆は市を自分の執務室へと誘った。
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奪衣婆と市が再会してから暫く後、裕紀は三途の川にいた。
「これは・・、デジャブーだ。」
そう行って三途の川のど真ん中で、水の上に立っている裕紀はそう呟いた。
裕紀は何故か前世で死んだ時のことを少し思い出していた。
今と同じように三途の川での出来事を。
すると、後ろから声がかかる。
「困るんですよね、そんな所に立っていられては!」
振り返った裕紀の目の前には、若い巫女装束の子が立っていた。
「えっと・・誰?」
「ああ、もう忘れているんだ、ボケて死んだんですか?」
「だ、誰がボケじゃ!」
若い娘にボケといわれ裕紀はカツンときた。
80歳過ぎで死んだ裕紀は、年寄りである。
その年寄りに向かい、若い巫女がため口をきくのである。
ほとんどの年寄りは気が短い方が多い。
ボケと言われて怒らない人は少ないであろう。
「あ~ぁ、年寄りだと気が短く直ぐに怒る、しかもボケてるし。」
「これ市、あまり虐めるでない。」
美しい声が巫女の後ろから聞こえ、裕紀は声がした方向を見た。
そこには妖艶な美女がいた。
「奪衣婆様、私は虐めてなどいませんよ?」
「え? 奪衣婆? え、奪衣婆だって!!
奪衣婆って、怖い形相をした婆さんだよな?
あれ、えっと、え、この美人が?
え? あれ? 俺、認識が間違っている?」
「無礼者! 呼び捨てとは何事だ! 奪衣婆様とお呼びしなさい!」
「これ市、親子で様付けは可笑しいでしょ?」
そう言って奪衣婆は笑う。
裕紀はキョトンとした。
えっと、この方が奪衣婆で、お婆さんでなく妖艶な美女なのに奪衣婆の方?
で、この方が私と親子? え? 親子?
こんな美人で妖艶な人と私が?
はて?
これって悪夢? それとも・・・
そう考えているうちに奪衣婆はいつの間にか裕紀の側にきて、人差し指で裕紀の額にふれた。
その瞬間、頭痛が走り裕紀はそこにうずくまった。
「痛ててててて、痛い! ちょ、ちょっと酷くありませんか!」
「はて、なんで私が酷いのですか?」
「もう少し痛みを押さえるやり方があるでしょ!」
「何をいい年をした息子が言うのです、このくらい蚊にさされたようなものでしょ!」
「は、母上! 何か私が母上を怒らせるような事をしましたか?
何ですか、このしっぺ返しのような仕打ちは。
それにです、なぜ、市が身罷ったときに一緒に私を天界に戻さなかったのですか!」
「ほう? 放蕩息子が勝手に天界から姿を消し遊び放題を20年近くしておいて、市が他界してからたかだか1年を愚痴るとは。」
「あのですね、私も忙しい身の上なのですよ?」
「忙しい? よくその口で言いますね!」
「あのですね、母上・」
「ちょっと待った! 親子喧嘩は後にして下さい!
奪衣婆様、ちょっとだけ帝釈天様を迎えに行くだけと言ったのに、時間を取りすぎです!」
「え? 市、お前・・、奪衣婆見習いから私の女官になってから厳しくないですか?」
「厳しいも何も!・」
「いや厳しいでしょう?」
「ですから、それはぁ、奪衣婆様があまりにも我が儘でぇ・」
市と奪衣婆が口論を始めたことに、帝釈天はため息を吐く。
そして市に帝釈天は声をかけた。
「おい、市、お前、ここで奪衣婆様と口論していてよいのか?」
「た、帝釈天様! そうです、そうなんです、奪衣婆様ったらサボるんですよ。」
「これ、市、私はすこしだけ息抜きをしているだけなのに!」
「少しが一日のうちに何回あるんですか! それも少しの時間じゃないですよね!」
帝釈天は二人の母娘喧嘩のような有様に、額に右手を軽くそえため息をついた。
そして神薙の巫女であった市が無事、解脱した事にホッとしたのであった。
-- 完 --




