約束の薔薇(完結)
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自分から「ここには来ない」と言った時よりも、彼から「お終いにしよう」と言われた時の方が胸にナイフが突き刺さったように痛んだのは、彼のことが好きだからなのだとアンジェリカは気が付いた。ヨルクの時は姿を見て声を聴いて高まる鼓動や幸福な気分になったから『恋』なのだと思った。それが『恋』だと思っていた。だから緊張する相手に『恋』をしているなんて微塵も考えたりしなかったのだ。
よりによって彼と別れる間際に彼のことが好きだと気が付くなんて。
アンジェリカの手は震え、表情は強張る。
それでも彼には感謝は伝えなければならない。愚かで幼かった自分を人の痛みを知るまでに育ててくれたことを、それから彼への祝福を伝えなければと思った。
「あなたから卒業宣言がでたということは、私も魅力ある淑女と認めてもらえたってことよね。今まで本当にありがとう。結婚されるお相手を大事にしてね」
「じゃあ俺からもお前にひと言言わせてもらおうか」
ベルンハルトが大きな体をアンジェリカの前に移動させたので彼の顔を仰ぎ見る。彼は薄笑いを浮かべていた。
「アンジェリカ・トーヴィル。俺と結婚してもらえないか」
表情は崩さず普段と変わらぬ声音だった。だからアンジェリカには彼の言っている意味がわからなかった。彼が告げたのは自分の名で結婚という単語もよく知っているのに混乱してしまう。
誰が……私が、誰と……ベルンハルトと? どうするって?
「え? 私が、あなたと?」
「そ。俺と結婚してくれ」
「何をっ! だってあなたには縁談が」
「だからお前」
そう言いながら人差し指をアンジェリカの額に突きつけた。
「縁談の相手がお前だから俺は了承したわけだが、お前はどうだ?」
「どうだ、じゃないわよっ!」
感情を抑えることはこの三年で少しは身に着いたと思う。けれど、今回ばかりは抑える必要はないだろう。
「そういうことはさっさと言ってちょうだい! 結婚、そんなのするに決まっているでしょうっ!」
彼に抱き付き、アンジェリカはその胸というよりは腹に顔を埋めた。
はしたない、と言われても今は構わない。彼だってご機嫌で嬉しそうに笑っていることが服越しでも感じられるのだから。
「それじゃ、さっそく俺らの婚約の報告に行こうぜ」
「報告?」
アンジェリカは回した腕はそのままに、顔だけを上げてベルンハルトを見る。
「そ。まずはお前の妹からだな」
「……エリザ?」
ニヤリと笑う男に、アンジェリカは呆然とした。
「おいおい。他にお前に妹いるのか?」
「だって、そんな、急に」
「先延ばしにしてもいつかはするんだ。だったら早い方が良いに決まってるだろ」
「でも、私……」
「お前に引け目があるのはわかっている。妹の婚約パーティにも行かなかった。ずっと避けて話もしてこなかったお前だからな。でもな」
ベルンハルトの顔から笑みが消え、真っ直ぐな眼差しがアンジェリカを捉えていた。
「お前から動かないでどうする。エリザが『謝って』と怒ってくるのを待つだけなのか」
「それはっ」
待つだけなんてできないと激しく首を横に振る。
アンジェリカとてずっとしてきたひどい仕打ちを謝りたい。申し訳ない気持ちをエリザに伝えたいと思ってきた。けれど、いつも行きつく不安がある。
「エリザは会ってくれるかしら。私なんかに」
「なんか、って言うな。俺が今プロポーズしたばかりの女だぞ」
以前は『エリザなんか』で怒られたのだが、『私なんか』で怒られたことについ口が綻んだ。ベルンハルトが自分の成長を認めてくれていることをアンジェリカにはわかったからだ。
「ま、実はロングラム家に今日挨拶に行くことは決まっていて、エリザも同席することが決まっている」
「だから、どうしてそういうことを早く言わないの!」
「お前にはこういう男がいいからだろ」
にべもなくそう言われれば、アンジェリカは笑うしかない。
「本当。悔しいけれど私にはあなたみたいな人が良いみたいだわ」
ベルンハルトの設けてくれた席には時間前だと言うのに既にエリザとヨルクが待っていた。二人の仲睦まじさは以前のトーヴィル侯爵夫妻に劣らないほど有名で、今もそれを証明するかのように手を繋いでいた。
「私……」
エリザの姿を見て思わず一歩退いたアンジェリカの腕をベルンハルトは掴み、その身に寄せて囁いた。
「オマエが大人になったと、エリザに証明してみせろ」
強い口調だった。
学園で見てきたヨルクのような優しさを、この男からはもらえないとアンジェリカは知っている。それでもこの男の言葉は自分を成長させるものに間違いがないことも知っている。だから彼の言葉を信じ、それに従う。
「……ええ」
アンジェリカはゆっくりと歩み、エリザの前に立ち。
「エリザ。ずっと私があなたにしてきたこと、心ない仕打ち、言いがかり、いろいろとごめんなさい」
深く頭を下げた。
あなたを傷つけてごめんなさい。長い間お父様を独り占めしてきてごめんなさい。ずっと一人にさせていてごめんなさい。
謝る内容は他にもいろいろとあったけれど、アンジェリカが口にできたのはそれだけだった。
伝わるだろうか。申し訳ないと思っていること。『許すと言って』などというそんな我儘は言わない。けれど、知ってもらいたいという思いも我儘なのだろうか。
巡る思いに動揺し始めたアンジェリカは気付けば誰かに優しく抱擁されていた。
誰に、と目を開ければ映ったのは茶色の長い髪。
「エリ、ザ……」
「嬉しいわ、アンジェリカ。こうしてあなたと話をすることはもうできないと私は諦めていたの」
「エリザッ」
思いもよらぬ言葉にアンジェリカの身が震えて涙が溜まる。
アンジェリカは罵られる、または謝罪など受け入れないと言われるに違いないと信じて疑わなかった。ただ、エリザの幸せを願っているという気持ちだけは伝わってほしい。その思いでこの場に立ったのに。
「私と違ってあなたは諦めないでいてくれたのね。ありがとう」
「それは、その、ベルンハルトのお蔭、なの」
チラリと彼に目を向ければよくやったと言わんばかりの満足そうな笑顔があった。その顔に勇気づけられ、アンジェリカは不安を引きずりながらも希望を口にする。
「あの、ね、エリザ。私たち、また仲良くなれるかしら」
「いやね、アンジェリカ。元々私たちは仲が良かったじゃない。昔に戻るだけよ」
エリザが当たり前だと言わんばかりに微笑んだ。それは幼い頃二人で遊んでいた時の微笑と同じで、懐かしさと嬉しさにアンジェリカの溜まっていた涙がとうとう零れ落ちてしまった。その涙は止まることを知らないかのように零れ落ち続ける。
「エリザ、大好きよ。あの、ね、私にもお母様の呪文を教えてくれる?」
「もちろんよ、アンジェリカ」
泣きながら抱き合う二人をヨルクとベルンハルトは静かに見守っていた。
「いらっしゃい、エリザ。アルベットは?」
「今はお父様と一緒よ」
ベッドの上に座るアンジェリカにエリザは小さな赤い薔薇の花束を渡す。
「あなたもとうとう『お母様』ね」
「ええ。先輩としていろいろと教えてね」
花束を脇に置き、アンジェリカはベッドの横で眠る赤子に視線を落とした。
「あのね、エリザ。この子の名前、エリーローズってつけたいの」
「エリーローズ?」
「あなたの名前とお母様との思い出を足してエリーローズ。ベルンハルトも良いって言ってくれて」
だめかしらと不安そうにアンジェリカはエリザを見上げれば、エリザは満面の笑みで彼女を見ていた。
「アンジェリカ、これほど嬉しいことはないわ」
「ありがとう、エリザ」
「あなたは私の大切な家族よ。だから家族の秘密をあなたに教えてあげる」
珍しく悪戯っ子のような表情をしたエリザに興味を惹かれて彼女の言葉に耳を向けてみれば、その内容は赤面するものだった。
『ベルンハルト様が絵を描くきっかけになったのは、トーヴィル侯爵家令嬢が母親と薔薇園で談笑している姿を見たからなのですって。その姿を留めたいからと絵を習い始めたらしいわよ。それから、その令嬢はベルンハルト様の初恋の人と聞いたわよ』
その言葉をそのままベルンハルトに伝えると、顔色を変えることなく彼はアトリエから一枚のキャンバスを持ってきてアンジェリカに渡した。
「―――これは」
驚きでアンジェリカの目が見開かれた。
描かれていたのは赤い薔薇に囲まれて笑顔の幼い少女と、その少女を見て微笑む大人の女性の姿。
アンジェリカが母親と約束した『瞬間』がそこにあった。
「赤い薔薇は美だけではなく愛情って意味もあるんだよ。お前は赤を、俺は青い薔薇を目指した」
ベルンハルトはしたり顔でそう言ってアンジェリカとエリーローズの頬にキスをした。
―――青い薔薇の花ことばは『奇跡』『夢かなう』
お読みいただきありがとうございました。
青薔薇はこの世界には珍種で存在することにしてください。