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第九十六話 帰る道

26層から30層まで、今回は5層まとめて1話です!

かなり長いので、何回かに分けて読んでもらっても大丈夫です。


帰る道の無い潜り。沼、雪、逆さの風、石の道、そして主。

30層の主を越えたらAランク。ひと月分、どうぞ。


 北の門の番は、札を見てから帳面を開いた。


「空欄。2名。……何日だ」


「40日」


 番は前と同じ字で書いて、顔を上げた。


「前は27で戻ったな」


「今度は30層の主までだ」


「30層か」


 番はそれ以上言わずに、柵の戸を開けた。


 入口の台に乗ると、足の下が青白く滲んで、次に息を吸った時には荒れ地の風が顔に当たっていた。


 25層。星の下に岩が転がる荒れ地で、巨人の砂があった辺りは、もう風で均されて何も残っていない。


 ミアが台を下りて、風を読んだ。


「……吸われてる所があるわ。向こう」


「前に探した時は無かった」


「無かったわね。今はある」


 ミアはそれだけ言って歩き出した。荒れ地の端、岩が2つ寄りかかった間に、階段の口が黒く開いている。前にここを通った時、岩はあったが口は無かった。無かった理由も今ある理由も、2人とも口にしなかった。


 ミアが腰から新しい紐を取って、端を結んだ。


「結び目は、空が変わってから。前と同じ」


「ああ」


 階段を下りた。



 階段の途中から、空気が重くなった。


 湿っていて、生温い。土の匂いに腐った草の匂いが混じって、段が湿って滑る。壁に手を付くと、苔ではない何かがぬるりと指に付いた。


 降りきった所で、足が沈んだ。


 泥だった。足首まで入って、引き抜くと音がする。目の前には黒い水と泥と、背丈ほどの草が生えた沼が星の下に広がっていて、水面のあちこちに倒れた木が浮いていた。


「……沼ね」


 ミアが写しを出して、26層の所を読んだ。


「沼。霧。息を止めろ。それだけ」


「霧は、まだ出てない」


「出てから読んでも遅いわ。霧が出たら、まず息を止める。それだけ覚えておいて」


 ミアは写しを畳んで、風を読んだ。


「風は読めるわ。下り口は……向こう。沼の向こう側。遠いわね」


「水の中は」


「読めない。前と同じよ。沼の中に何がいるかは、出てきてからね」


 倒木が、沼の中に道のように続いていた。誰が倒したのでもない。倒れた木が勝手に繋がって、泥の上に浮いているだけだ。ミアが先に倒木へ乗って、俺が後ろから乗った。濡れた皮が足の下で滑る。


 1日目は倒木の上を歩いた。倒木が切れる所では泥に下りて、次の倒木まで膝まで浸かって渡る。泥は冷たくなく、生温くて、靴の中まで入ってくる。


 昼を過ぎた頃、脛が痒くなった。


 泥から上がった倒木の上で裾を上げると、脛に黒い物が3つ付いていた。親指ほどの長さで濡れて光っていて、脛の皮に吸い付いている。


「蛭ね。沼にはいるものだわ」


 ミアがしゃがんで、短剣の背で1匹ずつ剥がした。剥がした跡から血が出て、止まらない。


「血が止まらない」


「蛭に吸われた所はそうなの。布を当てて、押さえて」


 応急手当の布を巻いた。ミアは自分の脛も確かめて、2匹剥がして、同じように巻いた。


「泥に入るたびに付くわ。倒木に上がったら、必ず見る事」


「毎回か」


「毎回よ。見ないで歩いて、気づいたら血だらけ、は嫌でしょ」


 夕方、ミアが弓を持ち上げて、弦を指で弾いた。音が鈍い。


「弦が湿ってる。伸びてるわ」


「射てないのか」


「射てるけど、飛び方が変わる。……こっちにするわ」


 ミアは普通の弓を背に回して、無弦を前に持ってきた。弦の無い黒い弓だ。引けば風が弦になる。湿りで伸びる物が、最初から無い。


「沼の間は無弦よ。普通の弦は、乾いた所に出るまで休ませる」


 無弦を前に持ったミアを見るのは、山を下りて以来だった。


 夜は、倒木の上で過ごした。


 乾いた所が無い。火を焚く場所も無く、燃やす物も濡れている。ミアが荷から蝋燭を出して、倒木の節に立てて火を点けた。小さい明かりが黒い水の面に映って、その明かりに羽虫が集まってきた。


 顔の周りを、羽虫が柱のように回る。耳の横で音がして、首筋を刺される。


「……消すわよ」


 ミアが蝋燭を吹き消した。羽虫の音が、少しずつ散っていった。


「灯りがあると寄ってくるのね。蜂と同じだわ」


「暗い方がましか」


「暗い方がましよ。刺されるよりは」


 結び目は1つ。ミアが新しい紐に、最初の1つを作った。


 刀を振る所も、倒木の上しか無かった。ミアから離れて倒木の先まで歩き、呼ばずに振る。木に線は付かない。闇刃と呼んで振る。濡れた皮に、細い筋が1本付いた。


 20本。付かなかった。


 戻ると、暗い中でミアの声がした。


「出なかったのね」


「出なかった」


「倒木から落ちないで寝てよ。落ちたら、泥の中で何に会うか分からないわ」


 倒木の上で横になった。背中が湿って、水の匂いがする。眠れたのかどうか分からないまま、空が白んだ。



 2日目の昼前、ミアが足を止めた。


「水が、泡を出してる」


 倒木の横の黒い水面に、泡が1つ浮いて弾けた。もう1つ。もう1つ。弾けた所から、白い物が上がってくる。


 霧だった。


 水面から立ち上がって低く広がって、こちらへ流れてくる。


「息を止めて!」


 息を止めた。


 霧が来た。目に入った途端、目が焼けるように痛んで涙が出た。息を止めているのに喉の奥が熱い。鼻からも入ってくる。


 ミアが俺の袖を引いて、倒木の根の方へ走った。倒れた木の根は泥から高く持ち上がっていて、根の上に登ると霧の上に頭が出た。


 息を吸った。


 吸えた。目はまだ痛い。


 下を見ると、霧が倒木の上を流れている。さっきまで立っていた所は、白い中に沈んでいた。


「……低いのね、霧」


 ミアが涙を拭きながら言った。


「息を止めろって、どのくらい止めろって事なの。あれじゃ、止めてても目と鼻から来るわ」


「止めきれなかった。少し吸った」


 窓を見た。HP59から、53。息を少し吸っただけで6減っている。


「減ってる」


「どのくらい」


「6。吸った分だけだ」


 ミアは根の上に座って、霧が流れていくのを見ていた。霧は長く続かなかった。泡が止まって水面から上がる物が無くなると、流れていた白い物は薄くなって、草の間に消えた。


「……ねえ、レン」


「何だ」


「霧って、風で動くでしょ」


「動く」


「さっき霧の中で、風の筋が見えたの。私の目じゃなくて、普通に。霧が風の形で流れてたから」


 ミアは根から下りて、消えかけた霧の名残を指した。


「霧があると、風が目に見えるのよ。あんたにも見えるくらいに」


「それで、何が変わる」


「霧の中に何かいたら、霧がそいつの周りで割れる。……霧の方が、読みやすいかもしれないわ」


 俺にはまだよく分からなかった。分かったのは、次に霧が出たら根に登ればいいという事だけだった。



 昼を過ぎて、倒木が切れた。


 次の倒木まで、泥が長い。膝より深そうで、ミアが先に入って腰まで沈んだ。


「深いわ。あんたは私の後ろを、同じ所を通って」


 腰まで泥に入ると、足が重い。1歩ごとに泥が足を離さない。


 泡が、1つ浮いた。


「霧か」


「違う。泡が1つだけ。……止まって」


 ミアが泥の中で動きを止めた。


「水の中は読めない。でも泥の表面が動いてる。何かが、下を通ってるわ」


 泥の面が長く盛り上がった。盛り上がりが、俺の足の方へ曲がってくる。


 足が掴まれた。


 泥の下から来た物が脛に巻き付いて、引いた。倒れかけて泥に手を突く。巻き付いた物が脛から膝へ、膝から腿へ登ってくる。太い。腕より太い。濡れていて冷たい。


 泥から、頭が出た。


 蛇だった。頭だけで俺の頭より大きく、口が横に裂けて牙が2本。目は泥と同じ色で瞬きをしない。胴は泥の中にあって、どこまで長いのか見えない。


 鑑定を向けた。


 大蛇 Lv52

 HP:4,000/4,000

 スキル:巻付 Lv3/水棲 Lv3/毒牙 Lv2


 窓はそれで終わりだった。段とHPと持っている物。ミアに向けた時に出た行が、無い。ギフトの行は出ていなかった。


 見ている間に、巻き付きが腰まで来た。


 締まった。


 息が出た。胸当てが鳴って、腰の骨が軋む。刀を持った右手はまだ自由だった。巻かれる前に腕を上に上げていた。


「レン!」


「右手は空いてる!」


 締まる。HP53。48。43。数字が息をするたびに落ちていく。


 巻き付いた胴に、刀を入れた。濡れた皮が裂けて、その下の肉が見える。裂けただけで、締まる力は緩まない。


 もう1度、同じ筋。


 入らない。締まった胴が動いて、裂けた筋が刃の下からずれた。皮の上を刃が滑る。


 HP36。


 蛇の頭が上から来た。口が開いて牙が見えた。


 矢が口の中に入った。


 頭が跳ねた。口の奥に矢を受けて頭を振り、振った分だけ胴の巻きが緩んだ。


 裂けた筋が、刃の下に戻ってきた。


 2太刀目。


 皮の無い所に刃が通って、胴の中の太い物を断った。


 巻き付きが解けた。


 蛇の胴が泥の中で暴れて泥を撒き散らし、それから動かなくなった。頭が泥に沈んで、沈んだ所から砂になった。泥の上に灰色の砂が浮いて、泥に混ざって消えた。


【大蛇を討伐しました】

【経験値 +1,000】


 泥に膝を突いた。腰が痛い。息を吸うと肋が軋む。


 泥の中から魔石を探した。手で泥を掻いて、拳ほどの石を見つけた。緑がかっていて濡れている。


 ミアが泥を掻き分けて来た。無弦を片手に持ったままだ。


「腰は」


「折れてない。締められただけだ」


「だけ、じゃないでしょ。36よね、今」


「見てたのか」


「あんたの顔を見てれば分かるわ。息をするたびに歯を食いしばってたもの」


 ミアは俺の腕を取って、倒木まで引いた。泥から上がって脛を見た。蛭が5匹。ミアが剥がして布を巻いた。


「口に入ったわね、矢。暗い区画のレイスと同じで、来た所を狙うしか無いもの」


「助かった」


「1本、戻ってこないわ。口の中よ」


 ミアはそう言って矢筒を数えた。


「無弦で射ったのね」


「湿った弦じゃ、あの口には入らなかったわ」


 その日はそれ以上進めなかった。倒木の上で腰を伸ばして横になった。



 3日目、泥が浅くなった。足首までで済む所が増えて、倒木を渡る回数が減った。


 昼前、沼の中に土の島があった。倒木ではなく、乾いた土が水面から出ている。草が生えて、枯れた草が積もっている。


「乾いてるわ。……火が焚ける」


 枯れ草を集めて、火を点けた。2日ぶりの火だ。小さいが、煙が上がる。


 ミアが普通の弓を出して、弦を外して火の近くに吊るした。弦を乾かす。その間、無弦を膝に置いていた。


「蛭の跡、火で炙っておくと血が止まりやすいの」


「本当か」


「父さんが言ってたわ。本当かどうかは知らない」


 熱した短剣の背を、蛭の跡に当てた。痛んだ。血は、止まった気がした。気がしただけかもしれない。


 昼に、また泡が出た。


 1つだけ。島の向こうの泥の面だ。


「止まって」


 ミアが風を読んだ。泡の出た所の泥の面が、長く盛り上がった。昨日と同じ盛り上がりが島の横を、ゆっくり通り過ぎていく。


「もう1匹。……来ないわ。向こうへ行ってる」


「追うか」


「追わないわよ。昨日のでHP36になったのに、今日はまだ40でしょ」


 盛り上がりが遠ざかって、泥の面が平らに戻った。


 待った。ミアが「行っていいわ」と言うまで、島から動かなかった。


 島を出る時、荷の袋が泥に落ちた。倒木から泥へ下りる時に紐が切れて、袋ごと泥に沈んだ。引き上げると、中のパンが泥水を吸っていた。


「……4日分、駄目ね」


 ミアがパンを1つずつ確かめて、泥の染みた物を捨てた。


「40日分が36日分になった。30日で抜ければ、まだ6日余る」


「30日で抜ければ、だ」


「抜けるのよ。他に道が無いもの」


 ミアは袋の紐を結び直して、背負った。



 4日目、霧が2度出た。


 1度目は根の上へ逃げた。2度目は、根が無かった。倒木の上で、霧が足元を流れていく。息を止めて、ミアが俺の袖を握って、霧の流れる方を見ている。


「……向こう。霧が割れてる所がある」


 息を止めたまま、ミアが指した。白い流れの中に、流れが回り込んでいる所が1つ。何かの周りを、霧が避けて流れている。


 泡が、そこから出ていた。


 蛇か、別の物か。霧の中では見えない。見えないが、ミアには霧の割れ方で、そこに何かがいる事だけは分かる。


 霧の割れ目が、動いた。倒木の方へ。


 息が続かない。1度だけ吸った。喉が焼けて、HPが2減った。


 割れ目が、倒木の手前で止まって、向きを変えた。


 霧が晴れるまで待った。晴れた時、そこには泥の面しか無かった。何かは泥の下に戻っていた。


「分かったでしょ。霧の方が読みやすいの」


「分かった。読めても、息は止めないといけないけどな」


「そこは、どうしようもないわ」


 ミアは咳をして、水袋の水を口に含んで吐いた。



 5日目、沼が切れ始めた。草が減って倒木が無くなり、泥が乾いた土に変わっていく。


 ミアが普通の弓を出して、弦を張った。弾くと、音が戻っていた。


「乾いたわ。……でも、沼を出るまでは無弦でいく」


 夕方、沼の端に近い所で、ミアが足を止めた。


「水の中から、音がする」


 倒木の下の黒い水の面が、低く鳴っていた。泡ではない。何かが水の中で動いて、水面を押し上げている。盛り上がりが、昨日の蛇より太い。


「……大きいわ。蛇じゃない」


「見えるか」


「見えない。水の中は読めない。でも、盛り上がり方が蛇と違う。幅が倍ある」


 盛り上がりは倒木の下を通って、沼の奥へ向かっていった。


 何だったのかは、最後まで分からなかった。2人とも、追わなかった。写しにも書いていない物を、追う理由が無い。


「書いた組は、あれに会わなかったのね」


「会ってたら書いてる」


「会って、書けなかったのかもしれないわ」


 ミアはそれだけ言って、歩き出した。



 6日目の朝、沼の端の岩の壁に、階段の口があった。


 ミアが紐に結び目を作った。


「24。6日。前と同じね」


「蛭は」


「2人で、20匹は剥がしたわ」


 ミアは靴を脱いで泥を捨て、脛の布を巻き直した。俺も同じにした。腰はまだ痛い。HPは56まで戻っていた。


 ミアが無弦を背に回して、普通の弓を前に持ち替えた。


「次は乾いてるといいわね」


 下りる前に、沼を振り返った。黒い水の面に泡が1つ浮いて、弾けた。


 振り返るのをやめて、階段へ入った。



 階段の途中で、吐く息が白くなった。


 段が乾いて、乾いたまま冷たい。壁に手を付くと、手が壁に貼り付きそうになる。沼の湿りが外套に残っていて、残った湿りが下りるにつれて固くなっていった。


 降りきった所は、白かった。


 雪だ。空があって星があって、その下に雪が端まで続いている。岩の黒い所が所々に出ていて、他は全部白い。風が無い。音も無い。


「……寒いわね」


 ミアが写しを出した。手が震えて、紙が揺れる。


「27層。寒い。火を絶やすな。それだけ」


「木は無いな」


「無いわ。燃やす物は、油だけ」


 油は2瓶と、前の潜りの残りが半瓶。灯りの油でもあり、火を焚く油でもある。


「火を絶やすな、って、油で火を焚き続けろって事よね」


「そうなる」


「6日分、油で」


 ミアは写しをしまって、風を読んだ。


「風は無いわ。……無いんじゃなくて、弱い。遠くまで読めるけど、動いてる物が少ない。下り口は、向こう」


 雪の上を歩いた。膝まで沈む。沼の泥より軽く、泥より冷たい。靴の中の湿りが、歩くうちに氷になった。


 外套も凍っていた。沼で濡れた裾が板のように固くなって、歩くたびに膝に当たる。ミアの髪の先も凍って、白くなっていた。


「髪が」


「知ってる。触ると折れそうだから、触らないで」


 夜は、岩の陰に穴を掘った。雪を掘って岩に背を付けて、2人分の穴。鍋に布を入れて油を染ませて、火を点けた。


 小さい火だった。炎は手の平ほどで、鍋の縁から上に出ない。それでも手をかざすと、指が戻ってきた。


「消えたら、どうなるのかしら」


「分からん。試す気は無い」


「私も無いわ」


 毛布を2枚重ねて、2人で火を挟んだ。交代で起きて油を注ぐ。注ぐたびに、瓶が軽くなる。


 刀を振る時は、火の横で振った。離れると指が動かない。ミアが火の向こう側へ寄って、刃の向かない側に座った。


 呼ばずに振る。雪に線は付かない。闇刃と呼んで振る。雪の下の氷に細い筋が付いて、火の明かりで光った。


 20本。付かなかった。


「出なかったのね」


「出なかった。指が動かなくて、振り方が変だったが」


「変でも、出なければいいわ」


 結び目は28。



 2日目の朝、刀が抜けなかった。


 鞘に手を掛けて引いても、刃が動かない。鞘の中で、濡れた物が凍っている。沼の水だ。


「……凍ってる」


「鞘ごと?」


「中だ。昨日の晩は抜けた。寝てる間に凍った」


 ミアが鍋の火を寄せた。鞘を火の上にかざす。黒い漆に火が映って、しばらくして、鞘の口から水が1滴落ちた。


 抜けた。刃は鋼の色で、鍔の近くの薄い黒はそのままだった。


「外套の内側に入れて歩いて。体の熱で凍らないように」


「分かった。……抜けない刀は、ただの棒だな」


「棒でも殴れるわよ」


 ミアはそう言って、自分の弓の弦を指で確かめた。凍ってはいなかった。


 昼、川に出た。


 凍っている。幅は矢なら届くほどで、水面が白く固まって、固まった面の下に黒い水が動いているのが透けて見える所があった。


「渡るのか」


「向こう岸に下り口の風があるわ。回り道は……無い。川が端まで続いてる」


「氷の厚さは」


「読めない。風じゃ、氷の下は読めないわ」


 刀の鞘の先で、氷を叩いた。硬い音がした。少し先を叩いた。同じ音。


「音で確かめながら行く。ミアは俺の足跡だけを踏め」


「分かった。……音が変わったら言って」


 氷の上は滑った。1歩ずつ鞘で叩いて、音を聞いて、足を出す。川の真ん中で、音が変わった。鈍い。


「ここは駄目だ。右へ回る」


 右へ回って叩いて、硬い音。足を出した。


 割れた。


 音は硬かったのに、足を乗せた所の氷が割れて、右足が膝まで水に入った。冷たいという感覚が来る前に、足が痛んだ。氷の縁に手を突いて足を引き抜く。靴から水が流れて、流れた水が見ている間に靴の表で白くなっていく。


「レン!」


「抜けた。足だけだ」


「動かして! 止まったら凍るわ!」


 ミアが俺の足跡を踏んで来て、腕を取った。残りの氷を、叩かずに渡った。叩いている時間が無い。向こう岸の雪に上がると、右足の感覚が無かった。


「火! 今すぐ!」


 ミアが鍋を出して布を入れて油を注ぎ、火打ちを打った。手が震えて火花が3度飛んで、4度目で布に火が付いた。


 靴を脱いだ。足が白い。火にかざすと痛みが戻ってきた。戻ってきた痛みは、水に入った時より酷かった。


「……火を絶やすな、って」


 ミアが油の瓶を持ったまま言った。


「こういう事ね。濡れたら、火が無いと足が無くなる」


「分かった。身をもって」


「分からなくていい事よ、それは」


 足が戻るまで、昼を使った。油はその間ずっと燃えていた。瓶が1つ、空になった。


 靴は乾いたが革が固くなって、履くと踵が擦れた。右足の指先は、その日のうちには戻らなかった。歩けはする。歩けるが、指が無いように感じる。


 結び目は32。



 3日目。雪原を歩いた。HPは60。足は動く。右足の指は、まだ半分しか感じない。


 昼過ぎ、ミアが止まった。


「……いるわ。周りに」


「見えない」


「見えないわよ。雪と同じ色だもの。風で分かるの。6つ。囲んでる」


 雪原には何も無かった。白い雪と黒い岩と、星の空。その白い中に白い物が6匹伏せていると、ミアは言う。


「どこだ」


「右の岩の陰に2つ。左の雪の盛り上がった所に2つ。後ろに2つ。……動き出した」


 雪が動いた。


 右の岩の陰から、白い物が起き上がった。狼だ。毛が雪と同じ白で、目だけが黒い。起き上がるまで、本当に雪にしか見えなかった。


 鑑定。


 白狼 Lv50

 HP:2,200/2,200

 スキル:隠密 Lv2/噛付 Lv3


「50。6匹」


「矢を番えるのが遅いわ、指が。……火の傍に寄って」


 昼だが、火は焚いたままだった。絶やすなと書いてあるので、歩く時も鍋を手に提げて、小さく燃やし続けている。ミアが鍋を雪に置いて、その横に膝を突いた。火に指をかざして、弓を上げる。


 刀を外套の内側から抜いた。凍っていない。


 背中合わせに立った。


 左から2匹、同時に来た。雪の上を走る音がしない。雪が柔らかくて、足音を吸う。来るのが見えるのは、白い中の黒い目だけだ。


 1匹目の首を払った。皮が裂けて、止まる。21層からの皮だ。狼でも1度では落ちない。


 裂けた首が噛みに来た。身を沈めて、通り過ぎる首の同じ筋に2太刀目。


 落ちた。


【白狼を討伐しました】

【経験値 +250】


 2匹目が俺の脇を抜けてミアに行った。振り向く前に、矢の音がした。火の横で番えた矢が狼の首に立って、狼が転がった。転がった所をミアが短剣で刺して、砂になった。


「前は来てる!」


 前から3匹目、4匹目。後ろの2匹はミアの方だ。


 3匹目を1太刀。4匹目が横から来て、右の前腕を噛まれた。


 外套の上から牙が入った。布を通して、腕の肉に届く。


 HP60から、48。


 噛まれたまま左手で狼の首を押さえて、右腕ごと刀を振った。噛んでいる首に刃が入らない。角度が無い。


 腕を引いた。牙が肉を裂いて抜けた。抜けた所へ刃を入れた。1太刀。狼が離れて、離れた所をもう1度。


 3匹目が戻ってきた。裂けた首を、2太刀目で落とした。


【白狼を討伐しました】

【経験値 +250】

【白狼を討伐しました】

【経験値 +250】


 後ろで矢が2度鳴った。


 振り向くと、ミアが火の横で片膝を突いたまま、5匹目の首に矢を立てていた。6匹目はミアの矢筒を噛んで引いている。ミアが短剣を抜いて、狼の目を刺した。


 狼が離れた。離れた所へ俺が走って、首に2太刀。


【白狼を討伐しました】

【経験値 +250】


 5匹目は矢が立ったまま逃げようとして、雪に足を取られた。ミアが2本目を番えて、首の同じ所に立てた。砂になった。


【白狼を討伐しました】

【経験値 +250】


 雪原が、白いだけになった。


 ミアが矢筒を見た。狼に噛まれた所が裂けて、矢が2本雪に落ちている。拾って、矢筒の裂け目を手で押さえた。


「縫わないと」


「矢は」


「落ちただけ。減ってないわ。……腕は」


「噛まれた。深くはない」


「見せて」


 外套の袖をまくると、前腕に牙の跡が4つ、血が出ていた。ミアが布を巻いた。巻きながら指が震えていた。寒さで震えているのか別の理由か、聞かなかった。


「火の傍じゃなかったら、矢を番えられなかったわ」


「番えられた。5本射ってる」


「火があったからよ」


 ミアは布を結んで、鍋の火を確かめた。燃えている。小さく。


 砂の中に、魔石が6つと、白い毛皮が2枚残っていた。毛皮は厚くて、雪の上で白く埋もれた。


「これ、毛布の上に掛けるわ」


 ミアが2枚とも荷に入れた。その夜から、毛布の上に白い毛皮が載った。



 4日目、岩の間を抜ける道に入った。岩が両側から迫って上で繋がり、洞のようになっている。洞の天井から氷が垂れていた。人の背丈ほどの氷が何本も、牙のように下を向いている。


「止まって」


 ミアが手を上げた。


 前の氷柱が1本、落ちた。


 音がして、砕けた氷が足元まで滑ってきた。俺が1歩出ていたら、頭に当たっていた。


「風が天井の氷を揺らしてるの。揺れてるのが落ちる。……揺れたら言うから、止まって」


 洞を抜けるのに、昼を使った。ミアが「止まって」と言うたびに止まり、氷柱が落ちて、「行って」で歩く。5本落ちた。


 抜けた所でミアが息を吐いた。


「23層の杭と同じね。罠が、穴の方から来るのよ」


「ミアがいなければ、1本目で終わってた」


「1本目であんたが死んでたら、私は帰れないのよ。30層の主を1人で倒せると思う?」


「思わない」


「でしょ」


 洞の出口の雪の中に、黒い物が埋まっていた。掘ると、鍋だった。柄が折れている。その横に、骨が1本。獣の物で、人の物ではなかった。白狼が食った何かの、残りだ。


 鍋は持ち主を探さなかった。札は無かった。


 ミアが鍋を雪に戻した。


「……ここで火が消えたのね、誰かの」


「分からん」


「分からないけど、鍋が落ちてるわ」


 それ以上は言わずに、歩いた。



 その夜、火が消えかけた。


 交代の時間を過ぎていた。ミアが油を注ぐ番で、ミアは毛布の中で眠っていた。目が覚めたのは寒さでだった。鍋の中で、炎が豆粒ほどになっている。


 油を注いだ。炎が1度小さくなって、それから戻った。


 ミアが目を開けた。


「……私の番だった」


「寝てた。戻った」


「ごめん」


「謝らなくていい。寒いと眠くなる」


 ミアは毛布から出て、鍋の火を見た。手の平ほどの炎に戻っている。しばらく黙って見てから、言った。


「あんたが起きなかったら、消えてたわ」


「起きた。それでいい」


「それでよくないわよ」


 ミアはそれ以上言わずに、火の番を代わった。その夜は2人とも、ほとんど寝なかった。



 5日目、油の2本目が半分になった。


 夜に注ぐ分が、昼に持ち歩く分と同じくらい要る。ミアが瓶を持ち上げて残りを見た。


「このままだと、28層の分が無いわ」


「28層は、寒くないかもしれない」


「かもしれない、で油を使い切る?」


「じゃあ、どうする」


「夜の火を、もう少し小さくする。指が動く程度に」


 その夜の火は本当に小さかった。手の平が半分になった。毛布を3枚重ねて、その上に白狼の毛皮を2枚載せた。3枚目の毛布は、マルタの物置の、端の焦げた毛布だった。


 刀を振る時、火の横に寄っても、指が柄をちゃんと握れなかった。握れないまま呼ばずに振る。線は付かない。呼んで振る。付く。


 付くのを見て、少しだけ安心した。指が利かなくても、呼べば出る。呼ばなければ出ない。


 ミアは火の向こうで、毛皮の下から顔だけ出して見ていた。


「出なかった?」


「出なかった」


「じゃあ寝るわ。……今日は、ちゃんと起きる」


 ミアの唇が切れて、血が滲んでいた。寒さで切れたのだ。ミアは気にしていないようだった。



 6日目の夕方、下り口を見つけた。


 雪の原の端に氷の壁が立っていて、壁の下に黒い口が開いている。口から風が吸われていた。


 ミアが結び目を作った。


「48。12日。残り28日」


 油は、1瓶と少し。


「28層は、風が逆に吹くって書いてあったわ」


「風があるって事だ。寒くはないかもしれない」


「風があったら、火が焚けないかもしれないわよ」


 ミアはそう言って、鍋の火を見た。小さい炎が、氷の壁の前で揺れている。


「……消すわよ。階段の中は、風が無いから」


 火を消した。12日間、初めて消した。消した途端に寒さが変わった気がしたが、たぶん気のせいだった。


 右足の指は、まだ半分しか感じなかった。


 階段へ入った。

 階段を下りきる前に、風が来た。


 下から上へ、段を駆け上がってくる風だった。外套の裾が煽られて、顔に髪が当たる。27層の氷の壁の前で風が口に吸われていたのに、階段の中では風が逆に、口から吹き上げている。


 降りきった所は、尾根だった。


 岩の背が星の下に長く伸びていて、両側は崖になって落ちている。尾根の幅は荷車が1台通れるほどで、広い所は広く、狭い所は2人が並べない。その尾根の上を、風が止まずに吹いていた。


「……強いわね」


 ミアが写しを出そうとして、風に取られかけて、懐に戻した。


「28層。風が逆に吹く。それだけよ、書いてあったのは」


「逆って、どっちが逆なんだ」


「分からないわ。読んでみる」


 ミアは尾根の先に顔を向けて、しばらく黙った。髪が後ろへ流れて、外套が鳴っている。


「吸われてる所がある。向こう。尾根を下った先」


「下り口か」


「いつもの読み方なら、そうね」


 ミアはそう言ってから、少しだけ首を傾げた。


「……いつもの読み方なら」


 歩き出した。風が背中から押してくる。押される分だけ足が速くなって、速くなった分だけ崖の縁が近くなる。ミアが先で、俺が後ろ。風の中では声が届きにくく、ミアが振り向いて口を動かすのを見て、言った事を察した。


 半日歩いた。


 尾根が下って、下った先が岩の壁だった。壁の根元に細い割れ目があって、風がそこへ吸い込まれている。割れ目は、手の平が入る幅しか無い。


「……ここじゃないわ」


「吸われてるのに」


「吸われてるけど、人が入れない。下り口はこんな所に無いわ」


 ミアは割れ目の前に立って、風を読み直した。風は確かに、割れ目へ流れ込んでいる。


 それから、来た道を振り返った。


「レン。階段の口、風が出てたでしょ」


「吹き上げてた」


「27層までは、下り口はどれも吸われてたわ。吹き出す口なんて1つも無かった」


 ミアは尾根の反対側へ顔を向けた。


「……あっち。風が、吹き出してる所がある。尾根の、反対の端」


「吹き出してるのが、下り口か」


「逆なのよ。この層は、全部逆。吸われてる所が行き止まりで、吹き出してる所が口」


 ミアは割れ目に背を向けた。


「半日、無駄にしたわ」


「半日で済んだ」


「済んでないわよ。この層の読み方を、最初から全部逆にしないといけないんだから」


 来た道を戻った。今度は風が正面から来る。押される分だけ足が遅くなって、遅くなった分だけ日が傾いた。


 夜は尾根の岩の割れ目に入った。割れ目は人が1人ずつ横になれる幅で、風が頭の上を通り過ぎていく。


 火を点けようとして、やめた。鍋の中で布に火が付いても、風が割れ目に巻き込んで、炎が横に倒れて消える。3度やって、ミアが油の瓶を閉めた。


「無駄よ。ここじゃ焚けない」


「寒くはない」


「寒くはないわ。27層よりずっとましよ。……でも、火が無いのは嫌ね」


 干し肉を噛んで、冷たいパンを水で流し込んだ。ミアが矢筒を膝に載せて、裂けた所を縫い始めた。白狼に噛まれた裂け目だ。糸は、毛布の端から抜いた物だった。


 刀を振る所は、割れ目の外しか無かった。風の中で立って、呼ばずに振る。風で刀が流れて、振り方が歪む。岩に線は付かない。闇刃と呼んで振る。付く。


 20本。付かなかった。風で歪んだ振りでも、呼ばなければ出ない。


 割れ目に戻ると、ミアが縫い終わった矢筒を叩いて言った。


「出なかった?」


「出なかった」


「風で変な振り方になってたわ。見てた」


「変でも出ない。それでいい」


 結び目は52。



 2日目、尾根を逆へ歩いた。


 風が正面から来る。目が乾いて、唇が切れる。ミアは髪を外套の内側に入れて、顔だけ出して前を見ていた。


 昼前、ミアが足を止めて空を見た。


「上に何かいる。大きいわ」


 星の空に、黒い点が1つ。翼を広げたまま、羽ばたかずに風に乗って回っている。


 鑑定を向けた。遠くても、窓は開いた。


 大鷲 Lv53

 HP:3,000/3,000

 スキル:飛翔 Lv4/爪 Lv3/風圧 Lv2


「53。鷲だ。爪の3」


「ハーピーより上ね。……降りてくるかしら」


「降りてきたら斬れる。降りてこなければ、矢も届かない」


 点が、動いた。


 ミアが風を読んだ。


「離れていくわ。向こうへ」


 顔を上げたまま、ミアの言葉を聞いていた。離れていく。向こうへ。


 点が、大きくなった。


「ミア、来てる」


「離れて……違う! 逆!」


 読み間違いだった。離れていくと読んだ物は、来ていた。風が逆なら、風の割れ方も逆に読める。ミアがそれに気づいたのは、鷲の翼がもう星を隠すほど近くなってからだった。


 爪が来た。


 風に乗って落ちてくる鷲は、ハーピーより速かった。横へ出ようとして、風に足を取られた。尾根の上で、風と逆に動くと足が遅れる。爪が左の肩に掛かって、外套ごと引かれて、尾根の上を転がった。


 崖の縁で止まった。


 HP64から、50。


 鷲は俺を掴みきれずに上へ戻って、また風に乗って回り始めた。


 ミアが矢を番えた。風の中で弦を引いて、放った。


 矢が、曲がった。曲がった先に鷲はいなかった。矢は風に流されて、崖の向こうへ消えた。


「……曲がり方まで逆なのね!」


 ミアは2本目を番えて、放つ前に止めた。


「次は狙いを逆にする。来る時に言って、あんたから見て」


 鷲が回っている。回って、回って、また来た。


「来てる! 右から!」


「右ね。……じゃあ、左に射る」


 ミアが鷲の左へ矢を放った。矢は風に押されて右へ曲がり、曲がった先に、落ちてきた鷲の翼があった。


 矢が翼の付け根に立った。


 鷲が体を傾けて、尾根の上に落ちた。落ちた所で翼を打って、片翼が矢で動かず、岩の上を転がる。


 走った。風が背中を押した。


 首に1太刀。皮が裂けて、止まる。鷲の嘴が横から来て、身を沈める。嘴が外套の背を擦った。同じ筋に2太刀目。


 落ちた。


【大鷲を討伐しました】

【経験値 +800】


 砂の中に魔石と、大きな羽根が3枚。羽根は俺の腕ほどの長さがあった。


 ミアが矢を拾いに来て、翼の付け根に立っていた1本を抜いた。崖へ消えた1本は、戻らない。


「1本、崖の下」


「肩が」


「見せて」


 外套の左肩が裂けて、鱗の縁に爪の跡が付いている。鱗の無い所を、爪が1本掠めていた。血が出ている。


 ミアが布を巻いた。巻きながら、顔を上げなかった。


「……ごめん。離れていく、って言ったの、私」


「風が逆だ。読みも逆になる。分かったのが今だっただけだ」


「分かったのが今、であんたが14減ったのよ」


「死んでない」


「それで済まそうとするの、やめて」


 ミアは布を結んで、立ち上がった。


「この層の間、私が言う事は全部逆だと思って。来てる、って言ったら離れてる。離れてる、って言ったら来てる」


「ミアが自分で逆に言えばいい」


「言ってる途中で、どっちがどっちか分からなくなるのよ。……私がそのまま読んで、あんたが逆に取って」


「分かった」


 尾根を歩いた。風は変わらず正面から来た。



 3日目、鷲が2羽来た。


 ミアが上を見て、言った。


「2つ。離れてるわ」


 来ている。


 1羽目が落ちてきた。今度は風に足を取られる前に、崖と逆の側へ体を倒した。爪が頭の上を抜けて、鷲が上がっていく。


 上がっていく鷲に、ミアが矢を放った。左に狙って右に曲がって、翼の下を抜けた。外れた。


「浅いわ、曲がり方が。もう少し左」


 2羽目が来た。1羽目と違う。落ちてこない。尾根の上、俺の頭の高さに浮いて、翼を大きく打った。


 風が来た。


 鷲の翼が起こす風と、尾根を吹く風が重なって、体が浮いた。風圧の2だ。足が岩を離れて、崖の方へ押される。


 崖の縁に、手を掛けた。


 体が縁から落ちて、両手で岩を掴んだまま、足が崖の壁に当たる。下を見なかった。見ても仕方が無い。


「レン!」


「掴んでる!」


 鷲が頭の上で浮いている。翼を打って、俺の手を岩から剥がそうとしている。手が滑る。


 矢の音がした。


 頭の上の鷲が、翼を打つのをやめた。浮いている鷲は動かない。動かない物に、矢は真っ直ぐ入る。胸に立って、鷲が崖の下へ落ちていった。


 落ちていく途中で砂になって、砂は風に散った。


【大鷲を討伐しました】

【経験値 +800】


 腕で体を引き上げた。縁に腹が乗って、転がって、尾根の上に戻った。


 ミアが弓を持ったまま、俺の前に膝を突いた。


「……浮いてる時は、曲がらないのね。風圧で風が止まるから」


「今のは、俺を落とす為に止まってた」


「止まってる物なら、逆に読まなくていいわ」


 ミアはそう言って、俺の手を見た。掌の皮が岩で剥けていた。


 1羽目が、まだ上にいた。回っていて、降りてこない。


「来るかしら」


「仲間が2羽落ちた。来ないだろ」


 来なかった。しばらく回って、尾根の向こうへ消えた。


 その日は尾根の広い所で止まった。ミアが俺の掌に布を巻いて、それから崖の縁から下を覗いた。


「矢、2本。崖の下」


「取りに行かない」


「行かないわよ。……4本減ったわ、この潜りで」


 HPは48。鷲に掴まれたのではなく、崖の岩で削れた分だった。


 結び目は60。


(俺は少し考えた。崖から落ちかけた時、刀を離さなかった。右手で岩を掴んで、左手には刀があった。左手で岩を掴んでいれば、両手で掴めた。離さなかったのは、離す事を考えなかったからだ。)


 夜、刀を振る前に、ミアに言った。


「崖で、刀を離さなかった」


「見てたわ。片手で掴んでたでしょ」


「離せば両手で掴めた」


「そうね。……離して、刀が崖の下に落ちてたら、どうしてたの」


「分からん」


「分からないなら、離さなくてよかったのよ。あんたは刀が無いと、何も無いんだから」


 それは、その通りだった。刀を振った。線は付かなかった。



 4日目、尾根が狭くなった。


 1人ずつしか通れない幅で、両側の崖が深い。風は横から来るようになって、横から押されると、押された側の崖が近い。


「風が横だと、立ってられないわ」


「這うか」


「這う。恥ずかしがってる場合じゃないもの」


 四つん這いで、尾根の狭い所を渡った。岩に腹を付けて、風が上を通り過ぎる。ミアが先で、俺が後ろ。ミアの靴の裏だけを見て、進んだ。


 狭い所を抜けるのに、昼を使った。抜けた所で立ち上がると、膝と掌の布が擦り切れていた。


 尾根の先に、風が吹き出す所が見えてきた。岩の間から、風が上に向かって噴き上がっている。ミアの読みの通り、そこが口だ。


 その夜、鷲が来た。


 3羽目だ。夜の星の下で、黒い影が1つ、回っている。


 ミアが弓を持ったまま、割れ目の中で動かなかった。


「降りてこないわ。回ってるだけ」


「見てるのか」


「見てるんでしょうね。……ねえ。夜に、鷲って来る?」


「来るんだろ。来てる」


 ミアは矢を番えたまま、朝まで割れ目の口に座っていた。鷲は朝になっても回っていて、俺たちが歩き出すと、尾根に沿ってついてきた。


 5日目は、鷲が上にいたまま歩いた。


 降りてこない。回っている。ミアは何度も上を見て、その度に弓を上げかけて、下ろした。


「来ないなら、無駄に矢を使えないわ」


「来ない理由は」


「知らないわよ。鷲に聞いて」


 昼過ぎ、鷲が動いた。


 降りてきたのではない。尾根の先、風が噴き上がる口の上まで飛んで、そこで止まった。噴き上がる風に乗って、翼を広げたまま浮いている。


「……口の上にいるわ」


「下り口を塞いでるのか」


「塞いでるんじゃなくて、乗ってるのよ。あの風に。楽なのね、あそこ」


 口の上で浮いている鷲は、動かない。


 動かない物には、矢は真っ直ぐ入る。


 ミアが矢を番えた。遠い。届くかどうかの遠さだ。ミアは放つ前に、長く息を吸って、止めた。


 放った。


 矢は噴き上がる風の中で1度持ち上がり、持ち上がった先で鷲の胸に当たった。


 鷲が落ちた。落ちながら、翼を打って、尾根に落ちた。


 走った。1太刀、2太刀。


【大鷲を討伐しました】

【経験値 +800】


「3羽目」


 ミアが矢を抜きながら言った。


「来ないなら、こっちから届かせればよかったのよ。最初から」


「最初は、届く所に止まってなかった」


「そうね。……止まった所が、下り口の上。親切な鷲だわ」


 口の前に立つと、風が下から顔に当たった。髪が逆立つ。ミアの髪が、全部上に流れた。


 ミアが結び目を作った。


「72。18日。残り22日」


「風が、逆だった」


「逆だったわ。……29層は、石の道よ。風が普通に吹いててほしい」


 口へ入った。風が背中から押して、階段を駆け下りた。



 階段の段が、途中から変わった。


 岩を削った段ではなく、切り出した石を積んだ段だった。角が揃っていて、幅が同じで、1段ごとの高さが同じだ。壁も、岩ではなく石を積んである。


 降りきった所は、道だった。


 石畳だ。四角い石が隙間なく敷かれて、星の下に真っ直ぐ伸びている。道の両側に柱が立っていて、柱は折れている物も立っている物もある。遠くに、門のような物の影があった。


 ミアが写しを出した。風が無いので、紙が揺れない。


「29層。石の道。人が作った物。……3つの組が書いてて、3つとも同じ事を書いてるわ」


「同じ道か」


「同じ道。21層からここまで、組ごとに道が違ったのに、ここだけ3つとも石の道」


 ミアは写しを畳んで、石畳を見た。


「人が作った物があるのね、穴の中に」


「誰が、は書いてないな」


「書いてないわ」


 2人とも、それ以上は言わなかった。


 ミアが風を読んだ。


「……普通に吹いてる。吸われてる方が口。良かったわ」


 ミアの肩から、力が抜けたのが見えた。28層の間、ミアはずっと肩を上げていた。


 石畳を歩いた。足音が石に返る。靴の底が平らな物を踏むのは、街を出てから初めてだった。右足の指が、石の硬さを感じていた。戻ってきている。


 柱は、俺の背丈の3倍ほどあった。表面は滑らかで、字も絵も彫られていない。折れた柱の断面も、ただの石だった。


「字が無いわね」


「無い」


「29話……じゃなくて、トリムの遺構の壁には字があったでしょ。あんたが読めた字」


「あった。ここには無い」


 ミアは柱を見上げて、それから道の先を見た。


「道が、下り口の方へ真っ直ぐ向いてる。……道が役に立つ層が、やっとあったわ」



 1日目の昼過ぎ、道の脇に石の水路があった。


 石で囲った溝に水が流れている。澄んでいて、冷たい。沼の水とも氷の水とも違う、飲める水だった。


 水袋を全部満たした。顔を洗った。18日ぶりに、顔が自分の顔になった気がした。


 ミアは髪を解いて、水で洗って、結び直した。短くなった所が、水で濡れて少し伸びて見えた。


「……生き返るわね」


「水だけで」


「水だけでよ。沼の水を飲まずに済んだのが、どれだけ良かったか」


 夜は、折れた柱の根元で火を焚いた。風が無いので、鍋の火が真っ直ぐ立った。油は半瓶で、火は小さいままだったが、消える心配が無い火は久しぶりだった。


 石畳の上で、刀を振った。呼ばずに振る。石に線は付かない。闇刃と呼んで振る。石に細い筋が付いて、火の明かりで白く光った。


 20本。付かなかった。


「出なかった?」


「出なかった」


「石に線が付くのね。木でも氷でも石でも」


「何でも付くらしい。付けたい時だけ」


 ミアは石の筋を指でなぞって、何も言わずに火の所へ戻った。


 結び目は76。



 2日目、柱の上に石像があった。


 立っている柱の上に、翼のある獣が座っている。石で出来ていて、翼を畳んで、顔を道の方へ向けている。柱の飾りのようだった。


 ミアが足を止めた。


「……待って」


「石像だ」


「石像なら、風はそのまま通るわ。あれ、風が周りを回ってる。……生き物の周りの流れ方よ」


 鑑定を向けた。


 ガーゴイル Lv54

 HP:3,600/3,600

 スキル:石化擬態 Lv3/飛翔 Lv2/剛力 Lv3


「……生きてる」


「でしょ。石じゃないわ、あれ」


 石像が、動いた。


 畳んでいた翼を広げて、柱の上から落ちてきた。落ちながら翼を打って、石畳に着地する。着地の音は、石が石に当たる音だった。


 石の獣だった。体は犬に似て犬より大きく、翼は蝙蝠の翼で、顔は何にも似ていない。全部が灰色の石で出来ていて、動くたびに石が擦れる音がする。


 刀を抜いて、来るのを待った。


 来た。石の体で、速い。爪が来て、横へ出て、通り過ぎる脇腹に刀を入れた。


 滑った。火花が散って、刃が石の上を流れた。大百足の殻と同じだ。皮ではなく、石だ。


「硬い! 百足と同じだ!」


「節は無いわよ、あれ!」


 石の獣が振り向いて、また来た。爪を避けて、今度は首を狙った。滑った。


 矢が飛んで、石の背中で弾かれた。


「立たないわ、どこも!」


 どこにも入らない。入る所があるとすれば、石が繋がっていない所だ。


 獣が翼を広げた。飛ぶつもりだ。翼が広がった時、翼の付け根が見えた。背中と翼の間に、継ぎ目がある。石と石が合わさった、細い溝だ。


「ミア、翼の付け根! 広げた時だけ!」


「見えた!」


 獣が飛び上がって、頭の上を回って、落ちてきた。落ちてくる時、翼は広がっている。


 落ちてくる爪の下へ入って、頭の上を通る翼の付け根へ、刃を入れた。


 溝に入った。石の中に、石でない物があった。手応え。獣が石畳に落ちて、転がって、片翼が動かない。


 もう1度、同じ溝へ。


 石の獣が、動かなくなった。砂になる前に、ひび割れて、割れた所から砂になった。


【ガーゴイルを討伐しました】

【経験値 +900】


 砂の中に魔石と、石の欠片が1つ。欠片は翼の形をしていた。


「継ぎ目ね」


 ミアが矢を拾いながら言った。弾かれた矢は矢尻が欠けていた。


「百足は節。ガーゴイルは翼の付け根。全部、繋ぎ目なのね」


「硬い物は、繋ぎ目しか無い」


「硬くない物は、同じ筋を2度」


「主は3度」


「……それ、帳面に書いたら、少しは役に立つかしら」


「書く時は、局に書けばいい」


 ミアは欠けた矢尻の矢を捨てて、歩き出した。柱の上の石像を、歩きながら1つずつ見た。動く物は、もういなかった。



 3日目、道の脇に石積みがあった。


 家の壁のような物が崩れて、石が積み重なっている。中に入ると、床も石で、床の真ん中に、平たく削った石があった。


 帰りの台と同じ形だった。


「……台に似てるわ」


「似てる。同じ物かもしれない」


「乗ってみる?」


 乗った。何も起きなかった。足の下は冷たい石で、青白く滲みもしない。


 ミアも乗った。何も起きない。


「死んでるのね、これ」


「死んでるのか、最初から何も無いのか」


「分からないわ」


 台を下りた。崩れた壁の外へ出る時、ミアが1度だけ振り返った。それきり、台の話はしなかった。


 道は、まだ真っ直ぐ続いていた。



 4日目、門に着いた。


 石の門だ。柱が2本立って、上に横の石が渡してある。扉は無い。門の向こうにも、同じ石畳が続いている。


 門の上に、石像が1つ、座っていた。


「……ミア」


「見てる。風が回ってる。生きてるわ」


 門の上だ。高い。落ちてくるなら、門をくぐる時だ。


「くぐらない。門の横を回る」


 門の横は、柱が倒れて道を塞いでいた。回るには、倒れた柱を乗り越える。乗り越える間、門の上の石像はこちらを見ている。


 乗り越えた。石像は動かなかった。


 門の向こうに下りた所で、石像が動いた。


 翼を広げて、門の上から落ちてきた。狙いは、俺の後ろで柱から下りかけていたミアだった。


 ミアを押した。柱の陰へ。


 爪が、押した俺の背中に掛かった。


 外套が裂けて、鱗の上を爪が滑って、滑った先の鱗の無い所に入った。


 HP64から、50。


 石畳に転がった。石の獣が着地して、振り向く。翼を畳んでいる。畳んでいる間は、継ぎ目が見えない。


「レン!」


「ミアは柱の陰にいろ! 広げるまで待つ!」


 獣が来た。爪を避けて、石の体に刀を当てても意味が無い。避けるだけだ。避けて、避けて、獣が翼を広げるのを待つ。


 広げない。走って、爪で来る。飛ばない。


 回避の4。熊に叩きつけられた時より、避けられている。爪が外套を掠めるだけで、肉には届かない。届かないが、こちらの刃も届かない。


 翼を広げさせるには、飛ばせるしかない。


「ミア! 上から射てるか!」


「柱の上? 登れる!」


 ミアが柱に登る音がした。石の獣が、その音の方へ顔を向けた。


 顔を向けた獣の目に、ミアの矢が来た。石の目で弾かれたが、獣は頭を振って、翼を広げた。


 翼を広げて、柱の上のミアに向かって飛び上がった。


 広がった翼の付け根が、俺の目の前にあった。


 闇刃を呼ぼうとして、止めた。


「ミア、どこだ!」


「柱の上! あんたの右の上!」


 右の上。刃は左に向ける。獣は左から右へ飛んでいて、翼の付け根が、もう刃の届く所を過ぎかけている。


 10センチ。


 闇刃と呼んで、振った。


 刃先は翼の手前で止まった。止まった先で、継ぎ目が裂けた。


 石の獣が、飛び上がった途中で片翼を失って、石畳に落ちた。落ちた所へ走って、裂けた継ぎ目へ、もう1度。


【ガーゴイルを討伐しました】

【経験値 +900】


 膝を突いた。背中が熱い。鱗の無い所に、爪が入っている。


 ミアが柱から下りてきた。降り方が速かった。


「背中、見せて」


「掠った」


「掠ったで50になる? 数字は見てないけど、顔で分かるわ」


 外套を脱がされた。背中に布が当たって、ミアが黙って巻いた。


「押したわね、私を」


「押した」


「あんたが、私のいる所を見ないで刀を抜いてたら、私は怒ってた。でも押すのは、別よ」


「別か」


「別よ。……ありがとう」


 ミアは布を結んで、外套を俺の肩に戻した。それ以上は言わなかった。



 5日目、6日目は、道を歩いた。


 石像は、もう動かなかった。柱の上の物を、ミアが1つずつ風で確かめて、「石」と言って通り過ぎる。


 右足の指は、6日目には全部戻っていた。石の上を歩くうちに、戻った。


 ミアが夜に矢を数えた。


「10束で来て、沼で1本、尾根で4本。5本減ったわ」


「鷲の1本は、ミアが届かせた」


「届かせたわよ。届いた矢は、拾ったわ」


 ミアは矢筒の縫い目を指で確かめて、矢を戻した。


 俺は窓を開いた。


 Lv17。HP62/107。所持SP1。次のレベルまで、50。


 50。


「……ミア。次まで50だ」


「50で何が」


「次の段に上がる。あと50で」


「狼1匹分じゃない」


「狼が出ない」


 ミアは少しだけ笑った。石の道に入ってから、初めて笑った気がした。


「主を倒したら、上がるわね」


「それまで50のままだ」


「50のままで30層に行くの、嫌?」


「嫌じゃない。上がっても、SPは使わない」


 ミアは何も言わずに、火を小さくした。


 6日目の夕方、道の先に階段が見えた。


 石の階段だ。切り出した石を積んだ段が、下へ下りている。道は、その階段の口で終わっていた。


 ミアが結び目を作った。


「96。24日。残り16日」


「次が30層だ」


「30層。主がいて、台がある層」


 ミアはそう言って、階段の口の前で、写しを出した。30層の所は、何も書いていない。白いままの紙を、ミアはしばらく見ていた。


「……書いてないのよね。誰も」


「書いた組は、局が持ってる」


「じゃあ、私たちが初めてじゃないのね」


「初めてじゃない。戻った組がいる」


「戻った組がいるなら、戻れるわ」


 ミアは写しを畳んで、懐に入れた。


 階段へ入った。石の段を、1段ずつ下りた。

 石の階段は長かった。


 29層の石畳と同じ石で積まれた段が、回りながら下りていく。壁に手を付くと、石は乾いて冷たく、沼の湿りも氷の冷えも無い、ただの石だった。


 降りきった所で、ミアが足を止めた。


 道が、崩れていた。


 石畳は続いている。続いているが、少し先で石が割れて、割れた石畳の向こうは瓦礫になっている。柱が何本も折れて横倒しになり、その上に石の板が重なって、道を塞いでいた。


「……30層」


 ミアが写しを出して、白いままの所を見て、畳んだ。


「書いてある事は無いわ。だから、私が読む」


 風を読んだ。


「吸われてる所は無い。……台が出るまで、吸われる所は無いのよね、この層」


「25層もそうだった」


「じゃあ、主を探すしか無いわ。大きいのが……いる。遠い。動いてない」


 ミアは瓦礫の向こうを指した。


「あっち。瓦礫の先。まだ遠いわ」


 瓦礫を越えた。石の板は人の背丈ほどあって、乗り越えるのに縄を使った。板と板の間に足を入れて、折れた柱を跨いで、半日で道に戻った。


 道に戻った所で、柱に何かが刺さっているのを見た。


 針だった。


 俺の腕ほどの長さの、黒い針が、石の柱に根元まで刺さっている。1本ではない。見回すと、柱にも石畳にも、同じ針が何本も刺さっていた。古い物は錆びたように黒く、新しい物は先が光っている。


「……矢みたいね」


 ミアが針の1本に触って、指を引いた。


「石に刺さってる。矢じゃ無理よ、石には」


「何かが、飛ばしてる」


「主ね。たぶん」


 ミアは針から手を離して、刺さっている向きを見た。全部が、道の奥から手前へ向かって刺さっている。奥から飛んできた物だ。


「奥から来たのね、全部」


「奥に主がいる」


「奥にいて、こっちへ飛ばしてる。……届く所に、まだ入ってないのね、私たち」


 その日は、針の刺さった柱の手前で止まった。奥へ近づく前に、HPを戻したい。66だった。


 結び目は100。残り12日。


 火を焚いた。油は半瓶。小さい火だ。刀を振った。石に線は付かない。呼んで振る。付く。


 ミアは針の刺さった柱を、火の向こうからずっと見ていた。


「出なかったのね」


「出なかった」


「……あの針、柱に根元まで入ってるのよ。あんたの鱗で止まるかしら」


「止まらないかもしれない」


「止まらなかったら、受けないで」


「受けない」


 ミアはそれ以上言わなかった。



 2日目、道の奥へ進んだ。


 針が増えた。石畳に刺さった針が、歩くほど密になって、針の間を縫って歩くようになる。柱は折れた物が増えて、折れた断面に針が刺さっている。何かが、ここで長い間、針を飛ばし続けていた。


 昼過ぎ、道が開けた。


 広場だった。石畳が円く広がって、周りを柱が環のように囲み、その外に石の壁が立っている。天井は無い。星が出ている。広場の真ん中に、石の台のような高い所があって、その上に、何かが伏せていた。


 ミアが柱の陰に入って、俺の袖を引いた。


「あれよ。動いてない。寝てるんだと思う」


 柱の陰から、鑑定を向けた。遠くても、窓は開いた。


 マンティコア Lv60

 HP:7,000/7,000

 スキル:剛力 Lv4/針飛ばし Lv3/飛翔 Lv2/岩肌 Lv2


「60。7,000」


「巨人より上」


「巨人より上だ。針飛ばしの3。あの針だ」


 ミアが風を読んで、小さく息を吐いた。


「遠くからでも見えるわ。獅子ね。体は獅子で、背中に翼がある。尾が長くて、尾の先に……針が並んでる」


 伏せている物が、尾を1度だけ動かした。尾の先が、星の光を返して光った。


「顔は」


「……顔は、獅子じゃないわ。平たくて、人の顔に少し似てる。目が前に2つ。見たくない顔」


 2人とも、柱の陰から出なかった。


「今日は行かない」


 ミアが言った。


「HP70でしょ、今。あの針を1本受けたら、半分になるわ」


「待つのか」


「待つ。食べ物はまだ10日分ある。申告は12日残ってる。戻るのに1日。……2日待てば78。3日待てば82」


「3日で行く」


「2日。3日目の朝に行く。それ以上待っても、食べ物が減るだけだもの」


 広場の手前、針の届かない所まで戻って、火を焚いた。



 待つ2日は、長かった。


 ミアは矢を全部出して、1本ずつ反りと羽根を確かめた。欠けた矢尻の矢を1本捨てて、残りを数えた。


「矢は95本。10束のうち5本減って、今1本捨てた。94」


「足りるか」


「針を飛ばす相手に、何本要るか分からないわ。……足りると思う事にする」


 俺は刀を研いだ。山を越えてから買った砥石で、刃を何度も撫でた。鋼の色で、鍔の近くに薄い黒。黒は、研いでも消えない。消えないのは知っていた。


 夜、刀を振った。線は付かなかった。


 ミアが火の横で、矢を膝に載せたまま言った。


「闇刃、使う?」


「使う時は聞く」


「聞いて。私は柱の陰にいるわ。あの針が来る所に、柱の無い所には立たない」


「分かった。柱の陰だな」


「あんたは、針を受けないで。回避に2つ振ったんでしょ」


「振った。それで避けられるかは、分からん」


「分からなくても、避けて」


 ミアはそれだけ言って、横になった。


 3日目の朝。HPは78。結び目は108。残り10日。


 広場の手前で、ミアが柱の並びを見て、自分の立つ場所を決めた。環の柱のうち、太い物を3本。1本目の陰から射って、針が来たら2本目へ、2本目から3本目へ。


「私は柱から柱。あんたは、あいつの足元。それでいい?」


「それでいい」


「針が来る時は、尾が上がるわ。尾が上がったら柱の陰。……あんたは、尾を見てて」


 ミアが1本目の柱の陰に入った。


 俺は、広場へ出た。



 石の台の上の獅子が、頭を上げた。


 顔が、こちらを向いた。平たい顔で、目が前に2つ。口が横に広い。ミアが見たくないと言った顔だ。獅子の鬣が顔の周りを囲んで、鬣の色は赤茶色で、体は同じ色で、背中に蝙蝠の翼が畳んである。


 尾が、持ち上がった。


 尾の先に針が並んでいる。俺の腕ほどの針が、尾の先の膨らみから何十本も生えていて、尾が振られた。


 針が来た。


 矢よりも速い。横へ跳んだ。針が後ろの柱に刺さって、石の欠片が飛んだ。1本が外套の裾を貫いて、石畳に縫い付けた。裾を引きちぎって、柱の陰に入った。


「1度に5本来るわ!」


 ミアの声が、柱の向こうから来た。


「尾を振るたびに5本。針は減らないのかしら」


「減らないと思え」


 柱の陰から出た。獅子が石の台から下りてくる。歩き方は獅子で、尾だけが別の生き物のように動いている。


 矢の音がした。


 ミアの矢が獅子の肩に当たって、落ちた。岩肌の2だ。百足の殻ほどではないが、矢は立たない。


 獅子の顔が、矢の来た方を向いた。尾が上がった。


 針がミアの柱へ飛んで、柱を削った。ミアはもう2本目の柱の陰にいた。


 尾が俺の方を向く前に、走った。


 獅子の足元へ。尾の届く所へ。


 獅子が前脚を振った。爪が来る。右へ出た。爪が石畳を削った。回避の4。熊の時より、爪の来る筋が見える。見えた分だけ、体が先に動いている。


 尾が、横から来た。


 針の並んだ尾の先が、石畳を薙いで、身を沈めた頭の上を抜けた。針が1本、髪を掠めた。


 尾の付け根を見た。尾は太い。獅子の胴から出ている所は、俺の腿ほどある。そこを3度斬れば、針が無くなる。


 尾が戻ってくる前に、付け根へ刃を入れた。


 皮が裂けた。岩肌の2は、皮を硬くしているが、刃は通る。1太刀。


 獅子が吠えた。


 吠えて、翼を広げて、跳んだ。


 飛翔の2。俺の頭の上を越えて、後ろに降りた。振り向く前に、尾が来た。


 避けきれずに、尾の針が1本、左の腿に入った。


 熱い。針が入って、抜けて、血が出た。


 HP78から、58。


 20。針1本で20だ。5本まとめて受けたら、終わる。


「レン!」


「1本だ! 動ける!」


 柱の陰へ転がった。獅子が尾を上げる。針が柱に来る。柱の反対側へ回った。


 ミアの矢が、獅子の目を狙って飛んだ。獅子が顔を背けて、矢は鬣に当たった。


「目も駄目! 顔を背けるわ!」


「矢は当てなくていい! 顔を向けさせろ!」


「分かった!」


 ミアが3本目の柱から、続けて3本射った。全部が獅子の顔の周りに来て、獅子が顔を背けて、尾が上がる。


 尾が上がった時、尾の付け根が伸びる。


 柱の陰から出て、伸びた付け根の、さっき裂いた筋へ、2太刀目を入れた。


 半分まで通った。


 獅子が吠えて、尾を振り回した。針が広場のあちこちに飛んで、柱に刺さり、石畳に刺さり、1本が俺の足元に刺さった。


 獅子が、こちらを向いた。平たい顔が、俺の目の前にある。目が2つ。口が開いて、歯が3列並んでいるのが見えた。


 噛みに来た。


 身を沈めて、顎の下を抜けた。背中の上を、歯が閉じる音がした。


 抜けた先に、尾の付け根があった。2度裂いた筋が、目の前だ。


 3太刀目。


 振った。獅子が尾を引いて、付け根が刃の先を逃げた。刃先と裂けた筋の間に、拳1つ分。


 闇刃だ。


「ミア、どこだ!」


「3本目の柱! あんたの右の後ろ!」


 右の後ろ。刃は前に向いている。前には獅子の尾しか無い。


 10センチ。


 闇刃、と呼んで、振った。


 刃先は尾の手前で止まった。止まった先で、尾が落ちた。


 針の並んだ尾の先が、付け根ごと石畳に落ちて、落ちた尾が1度だけ跳ねて、動かなくなった。


 獅子が、今までと違う声で吠えた。


 尾の無い獅子が、翼を広げた。


 跳んだ。上へ。広場の上へ、翼を打って上がっていく。針が無くなった獅子は、上から来る以外に手が無い。上から来るなら、降りてくる所を斬ればいい。


 降りてこなかった。


 広場の上を回って、星の下で翼を打って、回り続けている。


「降りてこないわ!」


「針が無い。上から降りる以外に無いはずだ」


「上から降りたら、あんたに斬られるって分かってるのよ!」


 獅子が、ミアの柱の上へ回った。


 降りてくる。ミアの柱へ。尾が無くても、爪と歯はある。ミアの柱の上から、落ちてくる。


「ミア、柱を離れろ!」


 ミアが柱から走り出た。落ちてきた獅子の爪が、柱の頭を削って、削った石がミアの背中に降った。


 ミアは転がって、次の柱の陰へ入った。


 獅子が石畳に着地した。翼を畳みかけて、畳みきる前に、ミアの矢が翼の膜を貫いた。


 翼の膜に、穴が開いた。


 獅子が翼を打った。打っても、穴の開いた翼は風を掴まない。跳んで、落ちた。


「飛べないわ! 今よ!」


 走った。


 獅子が振り向いて、前脚を振る。爪を避けて、懐へ。首だ。首の付け根に、1太刀。皮が裂けた。


 獅子が頭を振って、歯が来る。左へ抜けた。抜けた先で、同じ筋に2太刀目。半分。


 前脚が、横から来た。


 避けきれなかった。爪が脇腹を払って、石畳に転がった。


 HP58から、41。


 転がったまま、刀を離さなかった。獅子が覆い被さってくる。前脚が、俺の上に上がった。踏むつもりだ。


 前脚が上がった時、脚の付け根の、柔らかい所が見えた。


 矢が、そこに入った。


 ミアの矢が、獅子の脇の下に根元まで立って、上がっていた前脚が落ちた。落ちた前脚は、俺の横の石畳を踏んだ。獅子が、片脚を引きずって、頭が下がった。


 下がった首の、2度裂いた筋が、俺の目の前にあった。


 起き上がりながら、3太刀目を入れた。


 通った。


 獅子が、首を傾けたまま、横に倒れた。倒れた体の下から抜け出して、石畳の上に膝を突いた。


 砂になった。尾から先に砂になって、翼が、脚が、鬣が、最後に平たい顔が、砂になって崩れた。


【マンティコアを討伐しました】

【経験値 +3,000】

【Lv17 → Lv18】

【所持SP:2】


 砂の中に、赤い魔石が1つ残っていた。両手で持つ大きさで、中に光が動いている。


 膝を突いたまま、息を吸った。脇腹が痛い。腿が痛い。HPは41。上限だけが111に増えて、中身は減ったままだ。


 ミアが柱の陰から出てきた。走ってはいなかった。歩いて、俺の前で止まって、矢筒を見た。


「……矢、3本減ったわ。針で折れたのが1本、翼を貫いたのが1本、脇の下に入ったのが1本。脇の下のは、砂の中」


 砂の中から、ミアが矢を1本拾い上げた。矢尻が無事だった。


「2本ね。減ったのは」


 ミアは矢を矢筒に戻してから、俺の腿を見た。


「針、入ったでしょ」


「1本。抜けた」


「20減ったわね」


「数字は言ってない」


「言わなくても分かるわ。あんたが転がって柱の陰に入った時、足を引きずってた」


 ミアは布を出して、腿に巻いた。巻きながら、顔を上げなかった。


「尾を落とすのに、3度」


「3度だった」


「首にも3度」


「首も3度だ。主は3度で、どこも3度」


「……闇刃の前に、聞いたわね」


「聞いた。3本目の柱」


「私、3本目の柱だったわ」


 ミアは布を結んで、立ち上がった。それから、広場の真ん中を見た。


 石の台の横に、平たい石の台が出ていた。帰りの台だ。さっきまで無かった所に、ある。


「出たわ」


「出た」


 ミアは紐を取って、結び目を数えた。


「116。29日目の昼。……ひと月かかってないわ、また」


「29日で、30層」


「申告は40日だから、11日残ってる。食べ物は7日分」


 ミアは紐を腰に戻して、台の方へ歩いて、止まった。


「レン。針」


 柱に刺さった針を見ている。獅子の体は砂になったのに、柱に刺さった針は、残っていた。古い物も、新しい物も。


「残るのね、刺さった物は」


「分からん。残ってる」


 ミアは針から目を離して、台に乗った。俺も乗った。


 足の下が青白く滲んで、次に息を吸った時には、日の光があった。



 番の男が、槍を持ち直して帳面を開いた。


「……空欄。2名。戻り。29日か」


「29日だ」


「30層の主を、29で」


 番は帳面に書いて、顔を上げて、俺の腿の布とミアの短くなった髪を見て、何も言わずに柵の戸を開けた。



 管理局の広間は昼で、混んでいた。


 受付の女は、同じ所に座っていた。俺が赤い魔石を台に置くと、女は魔石を見て、俺の顔を見て、それから立ち上がった。


「……30層の主の魔石ですね」


「ああ」


「少々お待ちください」


 女は奥へ入って、しばらく戻らなかった。戻ってきた時、手に鉄の板を2枚持っていた。


「Aランクです。登録から、82日」


 Bの札が首から外されて、新しい札が置かれた。名前が刻まれて、隣に字が1つ。


 A。


「Aランクの方には、局の記録室の奥をお使いいただけます。30層の主を倒された組の記録が、そこにあります。神殿の書庫は、奥の棚……古い手記の棚もご覧になれます」


「30層の主の記録、何組あるの」


 ミアが聞いた。


「お答えできるようになりました。……5組です。あなた方を入れて、6組」


「6組」


「はい。6組のうち、今も札が生きているのは、マルタさんと、あなた方だけです」


 女はそれだけ言って、帳面に書いた。


 広間の壁に、大きい紙が貼ってある。谷の主、討伐、金貨300枚、Aランク以上。前に見た紙だ。端が、前より擦り切れている。


 ミアの目が、その紙に行って、戻ってきた。


 何も言わなかった。俺も言わなかった。


 女が顔を上げた。


「それと、ミアさん。パーティー登録ですので、お2人ともAです」


「分かってるわ」


 ミアは札を受け取って、首に掛けた。


 首に掛けた札の横に、前からある物が並んでいる。トリムのC。父親のB。帝国の、A。


 ミアは3枚を指で揃えて、Bの札を、少しの間、指で押さえた。


 それから手を離した。



 3つ樽亭の戸を開けると、昼の食堂は空いていて、マルタが鍋の前にいた。


 マルタは俺たちの首を見た。


 杓子を置いて、鍋の前を離れて、俺たちの卓の椅子を引いて、座った。


 マルタが座るのを見るのは、初めてだった。


「……Aかい」


「29日だった」


「29で、30層」


 マルタは何も言わずに、しばらく俺たちの顔を見ていた。それから聞いた。


「30層の主は、何だった」


「獅子だった。尾に針があった」


「針を飛ばす奴かい」


「飛ばした。柱に刺さってた」


 マルタは、鼻を鳴らさなかった。


「あたしの時も、獅子だったよ」


 それだけ言って、立ち上がって、鍋の前に戻った。椀を2つ出して、粥をよそって、俺たちの前に置いた。


「食べな。今日はおまけだ」


 ミアが匙を持って、止めた。


「……マルタさん。30層から下の事、聞いてもいい?」


「今じゃないよ。食べてから、寝てから、それからだ」


 マルタは背を向けて、鍋をかき混ぜた。



 部屋に戻って、荷を解いた。


 ミアが矢筒を逆さにして、机に矢を転がした。


「92本。10束で入って、6本減った。2本は主の所」


「2本で済んだ」


「針を飛ばす相手に、2本で済んだのは、私が柱から出なかったからよ」


 ミアは矢を束ねて、紐で縛った。


 油の瓶を持ち上げて、傾けた。半瓶も無い。


「次は油を3瓶買うわ。27層みたいな所がまたあったら、半瓶じゃ足りない」


「次、か」


「次よ。……Aになったら、どうするか、言った事無かったわね」


「無い」


「言わなくても、来たわね」


「来た」


 ミアは油の瓶を置いて、寝台に腰を下ろした。髪を解いて、結び直した。短くなった所は、少し伸びていた。


「明日でいいわ。今日は、屋根の下で寝る」


 俺は窓を開いた。


 Lv18。HP45/111。所持SP2。


 2つ。穴の外だ。使うなら今だが、今日は決めない。腿が痛くて、脇腹が痛い。


 窓を閉じた。


 夜になって、裏庭に出た。馬が首を回して、こちらを見て、餌に戻った。


 呼ばずに振る。線は付かない。闇刃と呼んで振る。付く。20本。付かなかった。


 30日間、1度も付かなかった。


 部屋に戻ると、ミアは起きていた。


「出なかったのね」


「出なかった。30日、1度も」


「……30日」


 ミアはそれだけ言って、横になった。


 札を掌に載せた。線1本の銅のプレートと、Aの鉄の札。王国で1度も上がらなかった物と、帝国でEから4つ上がった物が、同じ掌に載っている。


 板戸を少し開けると、広場の像の肩が見えた。足元の灯りで、同じ顔が夜の中に浮いている。


 板戸を閉めて、横になった。藁の匂いがした。


26層から30層まで、長い長い1話を読んでいただきありがとうございます!


沼の霧、凍る川、逆さの風、動く石像、そして針を飛ばす獅子。

帰る道の無い30日を、2人は29日で抜けました。


ミアの札は、父さんのBの隣にA。レンの札は、線1本のEの隣にA。

穴の章は、ここで一区切りです。


次回からは、街で少し。しばらくお付き合いください!


【お知らせ】

すみません、ちょっと用事が重なってしまって、更新を2日ほどお休みします。

再開したらまたいつも通り続きを出していきますので、少しだけ待っていてもらえると嬉しいです。

それでは、また2日後に!


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