後編
私が彼女にメッセージを送ってから、それきり、彼女は沈黙してしまった。努めてそれを気にしないようにして、私はもう一缶、ビールを開ける。アルミ缶の周りには露がぽつぽつと浮かび、室温まで温められた中身はぷしゅうと白い泡になって吹き出す。こぼれかけたそれを啜って、その勢いで中身を口に含んだ。
喉に引っかかるような感覚にえずきそうになりながら、それでも、胃の中にアルコールが落ちていくふわふわとした気分は、なぜだか全てを——彼女のメッセージのことも——消してくれるような気がして、初めてビールを美味しいと思えた。
しかしそれは、すなわち彼女の影を拒んでしまいたいと思う私がいるということで、……そのことを自覚してしまった今、彼女との関係はひどくひずんでしまったように感じる。
息抜きに、あるいは部屋に充満したよどみから逃げるように、私は外に出ようと思い立った。気だるささえ吹き飛ばすほどのその衝動に、私は突き動かされるように立ち上がって、目の前がくらむような感覚に襲われる。それに抗うように、二、三度、その場でステップを踏んでから、私は玄関の方へと足を踏み出した。
そこにたどり着くまでの道筋は、まるでゴムのように自由自在に伸び縮みして、立ち上がってから今までの時間には大きな断絶があるように思え、私はそれで、しっかりと酔いが回っていることを自覚する。——散歩をしよう——。サンダルを履くのにまたもたついて、やっと家の外に向かう準備ができたところで、不意に、ぎいと嫌な音を立てて玄関が開いた。……ドアノブに手は触れていない。私はそれに伸ばしかけた手を空間に泳がせて、ぴたりと静止した。
「ただいま」
その声には温度がなく、いつも聞いているはずなのにやけに耳に馴染まなかった。一、二歩後ずさり、……その場から逃げて隠れてしまいたかったから……、段差に突っかかってよろめく。尻餅をついて、そのまま、観念してフローリングに身体を預けた。
「何やってんの」
彼女の顔がぼやけて歪む。きっと朝見た笑顔はないはずだった。無数の言葉の輪郭が浮かんで、しかしそのどれもが形を結ぶことなく消えていく。結局私は、床の上で筋肉をこわばらせながら押し黙るほかなかった。
「卒業式はどうしたの、ゼミは?」
それでも、彼女は追求をやめることはなかった。私に答えを求めているわけではないのかもしれない。ただ冷徹に、私の逃げ場を塞いでいくような、そんな質問だった。
「ねえ」
「……ごめん」
私はそうかすれた声で言って、すっと立ち上がると、逃げるようにリビングへと向かった。彼女は靴を脱いで私を追いかけてくる。机の上に置かれた飲みかけのビールをそっと取り上げて、私はそのまま自分の部屋へと引きこもることにした。ついさっきまでの千鳥足が嘘のように、正確に足を踏み出せることに気がつく。バタンと、強く閉めたドアの音が響いた。
「なんで逃げるの」
彼女は当然のように私の部屋まで入ってきた。目線をするどく細めてにらもうとしてみたけれど、なぜか涙がにじんで上手くいかない。彼女の目は、しかしそれでも冷酷なままだ。それが何かもう取り返しのつかないもののように思えて、私はつい、ふと思った言葉を発してしまう。
「わからないよ」
「何が?」
「陽子には、分からない」
……何が嫌だったの、と小さく呟く声が聞こえた。——私は、陽子の何が嫌だったんだろうか。
「陽子は、私とは違うから」
結局のところ、私のあれこれはそこに行き着くようだった。
「……ごめん」
それは彼女の声だった。全部、気づいてた、と彼女は言う。私はまた、言葉を忘れたみたいに頭の中がぼうっとなった。
「美冬が大学行ってなかったことも、それに悩んでたことも、……私が、美冬を追い詰めてたのも」
「……そっか」
全部、ばれてたんだ。全部。……私が、陽子に醜い嫉妬のような感情を——、すべてが上手くいっているように見えた彼女をうらやむような視線を向けていたことも……。
——私はなぜだか、涙が止まらなくなった。泣きたいのは陽子の方なはずなのに。
不意に、ぼやけた私の部屋の中で、ベランダに出る窓が目についた。外の空気を吸いたいと、そう思って、私は音を立てないように立ち上がる。そうやって初めて、陽子は不安そうな顔を見せた。私はそれには応えない。
そのまま私は窓の方へと向かって、がらりとそれを開け放つ。春は私の心を知らないように、うららかな日差しをベランダに落として、それに誘われるように、サンダルも履かずに私は飛び出した。ひたひたと、タイルが足に張り付くのを感じながら、私は欄干に背をもたれた。
私は陽子と見合う。それが何か気まずくて、私は手に握りしめていた缶に口をつけ、一気にあおった。
「ごめんね、陽子、私——」
しかし、それが良くなかったのかもしれない、私はくらりと頭が揺れる感覚に、言葉を止めて、途端にバランスを崩した。後ろに倒れて、身体を宙に投げ出すような形になる。
ああ、落ちる。そう思った瞬間に、ぐいと手が引かれて、その力の元を見れば、陽子が手を伸ばして私を引き留めようとしていた。それはまるで、私を現実に引き留めようとするみたいに——。
それを知覚した瞬間——、この手を引いてしまえば、二人いっしょに落ちるんだ、と、そう思ってしまった。




