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墜落するときは  作者: 藤澤流砂


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前編

「美冬、準備できた?」


 二人で住むアパートの玄関先で、陽子が軽やかにステップを踏む。ヒールが廊下に張られたタイルを打って、こつこつと音を立てた。私はそれに急かされないように、努めて緩慢にパンプスを履いて、一度、二度、足に慣らすようにつま先を打ち付ける。


「ごめん、おまたせ」


 私はそのためらいを悟られないように、口角をきゅっと引き上げて彼女に向き合った。視線の先に陽子のくりりとした瞳が、訝しげな気配を纏うのが分かり、ぞくりとする。私がその目に耐えかねて、そっと逃げようとしたその矢先に、しかし彼女はその追及をやめることを選んだようで、ま、行こ、とその身をひるがえした。


 アパートの外壁にへばりついた階段を、ふたりで並んで下っているとき、陽子は再び口を開いた。


「緊張してるの?」

「緊張、ってわけじゃないけど……」

「……そりゃそうだよね」


 卒業式でなに緊張するんだって話だよね、そりゃそうだ、と彼女は笑う。その笑みにいくらかの翳りを感じて、私は焦りのようなものを覚えながら、頭の中で言葉を組み立てる。


 ——でも、やっぱり節目って感じがするよね。一般論として——


 しかし、その言葉を口に出してみるのは、何かためらわれるような感じがあって、私はただ彼女のあいまいな笑い方を真似てみた。……いつの間にか前を行っていた彼女には見えていないだろう。私は思い直して、すぐにその顔を消すと、彼女に気取られないように、小さく息を吐く。

 午前十時の住宅街はいつもと同じように静まり返っていて、それでもいつもと同じだと思えないのは、私が彼女の言うように——さっきは否定をしてみたけれど——緊張しているからだろうか。右の手首をぎゅっと握ってみるけれど、脈の取り方なんて知らなくて、結局、やけにひんやりとした腕の温度を確かめただけになってしまった。


 その住宅街の片隅に、ひっそりと、そこがそうだとは分からないような形で、私たちの大学の裏門はあった。その何も飾られていない門に、このあたりに住む学生であろう、スーツ姿の人の群れが、どんどんと吸い込まれて行って、私たちは互いにはぐれないようにと、こっそりと身を寄せ合いながら、その流れの中に飛び込んだ。

 卒業式の会場までは、もちろん私たちはその場所をよく知っていたけれど、その道をたどる必要もなく、群衆の行く先に従い、あるいは単に目の前のだれかの背中を追うだけで、簡単に到着することができた。


「美冬はどうするの?」

「……ゼミの友達と出るよ」

「そっか、じゃあ、私行くね」

「うん、代表、頑張って」


 体育館の入口のその手前、彼女と手を振って別れ、私は一人忍ぶように、彼女が消えていった人混みを眺める。陽子は成績が抜群に良かったらしく、学科の代表に選ばれていたのだった。恥ずかしそうな、それでいて誇らしそうな口ぶりで、そんなことを打ち明けられたのは、まだ最近のことのはずなのに、そのときから今までに、遥かな断絶があるように感じられるのは、気のせいではないはずで。


 人の流れは止むことなく、絶えず私のそばをかすめて過ぎ去っていく。その中に、私の「待ち人」はいない。——私は今までより深く顔を伏せると、足音を殺して踵を返した。

 やっと息がまともに吸えたのは、さっきも通った門を滑るように抜けて、すれ違う人の数も少なくなってきたころだった。喉を通る空気が、身体の熱を全て持っていくような感覚に、顔が歪むのが分かる。ちらりと、腕に巻きつけた時計を見ると、時間はもう、案内に書いてあった時刻を過ぎていた。

 それでも、私はその会場から遠ざかることしかできない。なんでもない風に卒業式に出て、学位記をもらって、そんなことをするのは、あまりにも、——惨めだった。


 結局は、自分のくだらない尊厳みたいなものがこれ以上傷つくのを、意味もなく恐れているだけなのだろうな、と思う。しかし、私はそれが怖い。


 ——ゼミにはほとんど行っていなかった。第一希望のゼミだった。行かなくなった理由など、ここでつらつらと述べたてるものでもないだろうと思う。

 ——私の卒業が、お情けでもらえたものだというのも、十分に思い知っている。それを皆が、良く思っていないことも。きっと私なら、腹を立てるだろうから。

 ——陽子には言えなかった。彼女は優秀だったから。


 だから、なんていうのは、全部言い訳に過ぎない。がらんとした道路に、アスファルトを踏む音だけが寂しく響く。今さらに、陽子の顔を見たくなった。彼女はどんな顔で、卒業式の壇上に立っているのだろう。あの、照れ隠しの笑みに、少しだけ自信の交じった——。

 その顔は、私にはあまりにも苦い。それでも、彼女がいまそばにいないことのほうが、それよりも何倍も苦しかった。


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