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ロッテンブルク侯爵の不在と中央の対応

閑話を一本だけ。数話続きます。

今までのストーリーとは雰囲気が全く違います。

内密の書状

書状が届いたのは、昼の執務が一段落した時刻だった。

マリアンネが盆に載せて持ってきた。封蝋に押されているのは、エッカルト侯爵家の紋章だった。

エリザベータはそれを一瞥した。通常の諸侯からの書状であれば、まず外務局機能担当次長のオットー・ハルトが受理し、分類番号を付して回付される。エッカルト家の書状がマリアンネの手で直接届いているということは、その経路を通っていない。

「受付記録は」

「ございません。侯爵家の使者が殿下の執務室宛として直接参りました。外務局の受付は通過しておりません」

エリザベータは少し考えた。

本家国において、様式番号のない書状は存在しない。記録を経ない通信は制度的に無効である。エッカルト侯爵がそれを知らないはずがない。直轄地経験を持ち、行政能力において十二諸侯中で最も中央に近い家系だ。

知った上で、この方法を選んだ。

「通してください」

書状を開くと、文面は短かった。

「南隣の件につき、内々にご確認をお願いしたい事項が生じました。ご都合よろしければ、正式の手続によらず直接お話できれば幸甚に存じます。――カロリーネ・フォン・エッカルト」

エリザベータは文面を三度読んだ。

南隣。エッカルト侯爵領の南に位置する諸侯領は一つだけだった。ロッテンブルク侯爵領。南部平野一帯、面積九千平方キロメートル。建国時封爵の最古参四家の一つ。そして建国二十年制定「ロッテンブルク条款」の名を冠する家。

「マリアンネ」

「はい」

「カロリーネ侯爵は今どちらに」

「使者によりますと、王都の定宿においでとのことです。昨日から滞在されているとか」

昨日から。つまり、書状より先に本人が来ている。

エリザベータは窓の外を見た。午後の光が中庭に落ちている。正式な謁見申請を出せば、それは記録に残る。外務局に経由すれば、翌日には担当次長の机に写しが届く。

カロリーネ侯爵が求めているのは、その記録のない会話だった。

「カロリーネ侯爵に、今夕の散策路でお会いできると伝えてください」

「記録は」

「王女の散策の記録は不要です」

マリアンネが一瞬だけ間を置いた。

「かしこまりました」

日が傾き始めた時刻、宮殿の西側に続く散策路にエリザベータが出ると、カロリーネ・フォン・エッカルトはすでに待っていた。

四十六歳。質素な旅装のまま。扈従の姿はない。エリザベータも一人だった。二人が揃って歩き始めると、離れた位置に侍女の影が見えたが、そちらは見ないことにした。

「お時間をいただき恐縮です、殿下」

「いいえ。散策のお相手をしてくださることに感謝します」

しばらく、どちらも本題を切り出さなかった。足が砂利を踏む音だけが続いた。

「クラウス侯爵が、ご不在です」

カロリーネが先に言った。

「いつから」

「確認できているのは、先の月末から。諸侯への定例通知への応答がありませんでした。その前後一週間に遡って、ロッテンブルク侯爵領からの正式文書の発信が一切ありません」

エリザベータは歩みを止めなかった。

「代理は」

「家宰が署名した受理通知が一通だけ届いています。形式上の問題はありません。ただ、その家宰からの発信もそれ以降は途絶えています」

「当主の病気届は」

「提出されていません」

一月近く。当主の行方が知れず、それを知らせる文書も出ていない。ロッテンブルク条款の自治権範囲は広い。諸侯の内政に中央が立ち入れる根拠は限られている。だが、条約義務の履行停止は別の話だ。

「なぜ内々に」

カロリーネが一瞬、歩調を緩めた。

「ロッテンブルク条款があります。もし正式な照会を出せば、条款上の権利として侯爵家が拒否できます。記録が残ることで、向こうが身構える前に現状を確認したかった」

「それは侯爵家の利益を慮っての判断ですか」

「いいえ」

即答だった。

「南部の不安定は、エッカルト領にとっても問題です。我が領は直轄地と南部の境にある。ロッテンブルク侯爵領で何か起きているなら、中央が状況を把握していることが私の利益にもなります」

正直な人だ、とエリザベータは思った。善意の仮面を被らない。

「承知しました」

「殿下は、どうなさいますか」

エリザベータはしばらく考えた。砂利の道が曲がり、小さな水盤の前に出た。水面が風に揺れている。

「何かを確認するには、まず確認できることを確認します」

「それは」

「ロッテンブルク侯爵領が条約義務を履行しているかどうか。それは中央の台帳で確認できます。財務局の受領記録に、上納が正常に記録されているかどうか」

カロリーネが微かに頷いた。

「もし滞っていれば、条款の自治権とは別の根拠で照会できる」

「そうです。問題は侯爵の所在ではなく、条約義務の履行です。それは様式上の確認であって、内政への介入ではありません」

二人はしばらく水盤を見ていた。

「お教えいただきありがとうございます、カロリーネ侯爵」

「お役に立てれば」

「一点だけ確認させてください。この話は、今この場だけのものとして扱います。ただし、私が財務局台帳を確認するのは通常業務の範囲であり、それを妨げることは誰にもできません」

カロリーネは少し笑った。本物の笑いだとエリザベータには思えた。

「殿下は、内密の話をきちんと内密にしてくださいますね」

「記録に残らない会話は、存在しないのです」

エリザベータはそれだけ言って、散策路を戻り始めた。

翌朝。

エリザベータが財務局長フェリックス・ヴォルフを執務室に呼んだのは、通常の予算確認の名目だった。呼ばれたフェリックスは、分厚い台帳を三冊抱えて現れた。

「先月末までの諸侯上納の受領状況を確認させてください」

「かしこまりました。どちらの諸侯領でしょうか」

「全領分を」

フェリックスが台帳を開いた。列が並ぶ。一枚ずつ視線が走る。

「ロッテンブルク侯爵領」

エリザベータが指で止めた。

フェリックスがその行を確認した。記入されているのは、先月の第三週分の受領記録だった。その次の欄は空白だった。

「先月末分は」

「未着です。期日超過は、現時点で十一日」

「督促状の発送は」

「期日超過七日の時点で、規定通り様式第二一三号を送付しました。返信はありません」

フェリックスの声には変化がなかった。財務局長として必要な情報を、必要な順に報告している。ただ、報告を受けるエリザベータの手がわずかに台帳の上で止まっていることに、彼が気づいているかどうかは分からなかった。

「分かりました」

エリザベータは台帳から手を離した。

「財務局として取るべき次の手順を、ゲルハルト局長と照合してください。規定の範囲で、記録に残る形で」

「宮内局への連絡は」

「それも規定通りに」

フェリックスが台帳を閉じた。

「殿下、一点だけよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「今回の確認は、本日の予算確認の記録に含めますか」

エリザベータは少し考えた。

「含めてください。諸侯上納の確認は、通常業務の範囲内です」

「承知しました」

フェリックスが退室した。

扉が閉まった後、マリアンネが静かに言った。

「もはや内密ではなくなりましたね」

「記録されることで、存在になります」

エリザベータは次の書類を手に取った。

「問題があることが分かったなら、問題として扱います。それだけのことです」

ロッテンブルク条款は建国二十年の制定以来、二百年近くにわたって南部の自治権を守ってきた。

その条款が守れないのは、条款を守る当主がいない場合だった。

財務局の様式第二一三号の督促。法務局への照会。それらが積み重なった先に何があるかを、エリザベータはまだ言葉にしなかった。

本家国において、問題は記録されることで問題になる。

記録される準備は、整いつつあった。

登場人物一覧


王宮

エリザベータ・ルイーゼ 第一王女

マリアンネ 王女付き侍女

リオナルド二世 国王 エリザベータの父

ハインリヒ・フォン・ハルテン 宮内局長


中央局

フェリックス・ヴォルフ 財務局長

ゲルハルト 法務局長

クルト・アーベル 財務局上席書記官

調査員マティアス・ツィーグラー 財務局書記官調査員


ロッテンブルク侯爵家

クラウス・フォン・ロッテンブルク ロッテンブルク侯爵(当主)58歳・発作で倒れている

ルードヴィヒ・フォン・ロッテンブルク 嫡男

ハンス・グリュン 家宰


十二諸侯

カロリーネ・フォン・エッカルト エッカルト侯爵 / 臨時諸侯会議議長46歳・王室傍系

アンナ・フォン・キルヒハイム キルヒハイム侯爵36歳・女性当主

テオドール・フォン・リンデンベルク リンデンベルク侯爵66歳

ヨハン・フォン・オーバーハウゼン オーバーハウゼン侯爵41歳

ゲオルク・フォン・ミッテルバッハ ミッテルバッハ侯爵47歳・本人不参加・代理派遣(テオドールの書記官)記録係名前なし

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