第15章 邪馬台国の終焉
邪馬台国の卑弥呼が亡くなり、混乱の中、壹與が女王に就きます。
第1節
卑弥呼が248年に亡くなると邪馬台国も衰退していった。元々は奴国の大王が周辺国と共同で作った連合政権で、その要に卑弥呼を女王としてまつり上げていただけだった。奴国の本拠地は那珂遺跡群(福岡市博多区博多駅南周辺)であったが、邪馬台国が設立した頃には須玖遺跡群(福岡県春日市)に移っていた。奴国が那珂に本拠地を置いていた頃は、日本全国から海人系氏族(たとえば、安曇氏・息長氏・宗像氏など)が集まっていて、韓の国との交流が盛んでしたが、須玖に移ってからは衰退していった。しかし、稲作を中心にしていた人達はこの地に残り、古墳時代を迎えている。邪馬台国が衰退した3世紀後半から稲作で生計を立てていた以外の人達は、畿内の方へ移動していった。吉野ヶ里遺跡にいた倭面上国の人達は、稲作をしていた以外の人達、そのほとんどの人達も畿内に移り住んだと思われる。また、その後の奴国の大王は集落を縮小して首長となり、福岡県那珂川市安徳に落ち着いたようです。奴国連合の担い手であった伊都国(三雲南小路遺跡や曽根遺跡群など)の大王も平原遺跡(福岡県前原市曽根)の方形周溝墓は卑弥呼の墓と言われていますが、その曽根地区で集落の首長となっていったようです。また、伊都国の人達も稲作されている以外の人は、畿内に移動したようです。
さらに、邪馬台国が頼りにしていた魏国も265年に晋国に譲渡して、魏は滅びてしまう。卑弥呼の死後、壹與が邪馬台国の女王になり、255年から265年まで何度か魏に使者を送ったが、魏が消滅してから晋国に266年に使者を送った切りで、晋国には邪馬台国の後ろ盾が得られなかったようです。晋国も280年に呉国を滅ぼして、三国時代を終了させたが、304年から439年まで五胡十六国時代になり、全く倭国との交渉相手が見つからなかった。439年に北魏国が華北を統一し、華南は宋国が統一して南北時代を迎える。このように中国が不安定な状態だったので、413年にヤマト王権が華北の東晋国に対して使者を送った。その間の中国の歴史書には倭国のことが一切記録されていない。その間、日本では邪馬台国が姿を消し、中国の交渉相手はヤマト王権となっている。
今まで、北部九州を中心にした経済圏から、邪馬台国の衰退により東方に移るようになり、瀬戸内海で船による経済圏が拡大し、その中継地点が岡山平野であった。吉備国です。この吉備国から畿内へと経済圏が移ることにより、人口移動も盛んになり、政治形態も変化してきました。邪馬台国は、卑弥呼に代表されるように従来型の政治形態で、祭事が中心の世界でしたが、経済的な発展により、人口増加による地域支配の状況が変化していった。2023年の人口統計では、邪馬台国の時代(弥生時代後期)は、日本の人口が70万人であったのが、倭の五王の時代(古墳時代中期)には、150万人に増加していった。この人口統計を考えても、経済発展により自然人口増もあるが、朝鮮半島から渡来してきた人達も多かったことが伺えられる。このことを明確に表した世界人口統計によると、中国では4,300万人から3,000万人に減少している。朝鮮半島では30万人から60万人と微増した。このことからも、中国から朝鮮半島経由で日本に渡ってきた人達が多かったことが分かる。
邪馬台国の時代には、魏国が朝鮮半島の直轄地として帯方郡があった。その南には日本と関係が深かった伽耶諸国があり、お互いに交流をしていた。その伽耶諸国から中国の文化と諸技術を持って人達が、日本に伝授していたようです。そのころの経済交流が邪馬台国を支えていた。それが卑弥呼の死や魏国の滅亡により、帯方郡は晋国の管理下になり、楽浪郡と帯方郡は、313年に高句麗によって占領され、伽耶諸国も新羅の侵略を受けて、移住場所として日本を選んだ。その当時は、日本ではヤマト王権が設立していたので、畿内にそれらの渡来人を受け入れ、勢力を拡大していった。その結果、邪馬台国は衰退し、邪馬台国の勢力範囲から経済を担っていた商工の人達が畿内に移動。その結果、邪馬台国は滅亡した。
第2節
邪馬台国は当初は奴国を中心にした連合国家で、奴国が漢の国との通商によって財力を付け、卑弥呼が女王に就いてから疫病が流行し、狗奴国から攻められて苦境に落ちたこともあったが、魏国と親密な関係を構築したのは成果であった。壹與が卑弥呼の後、女王に就いても、魏国との関係は良好で、狗奴国との戦いも治まっていたので、邪馬台国は平穏無事が続き、266年に晋国に使者を送ってから邪馬台国は歴史上に姿を現さなくなった。
晋国が魏国から司馬炎が譲渡されて、武帝となった。そのころ、邪馬台国に20年間滞在し、政権を指導していた帯方郡の張政は壹與に晋国に使者を送ることを進言した。
「女王、晋国が建国しました それで、武帝に対して使者と貢ぎ物を送るべきです」
「魏国の皇帝は、曹芳さまではなかったのか」
「それが、若年のために曹芳(廃帝芳)さまを補佐していたのが、司馬懿で、権力を思いどおりにしていました しかし、251年に死去した後、子息の司馬師が実権を握り、254年に曹芳さまを廃位させて斉王に降格させた その後、曹髦(廃帝髦)となったが、司馬師の傀儡政権となり、260年に司馬氏に反旗を示すが応援するものがなく、殺害されてしまいます その後、曹奐(元帝)が即位されたが、結果的に司馬師が265年に死去した後、その子息の司馬炎が後を継ぎ、曹奐から政権を奪い取った」
「それで、晋国になったのですね 曹芳さまが即位されたときに使者をお送りさせて以来、魏国とのお付き合いがなかったので、張政に聞かせて頂いて、それ以後の状況が分かりました では、掖邪狗を使わせましょう」
「その時、私も本国に帰りたいと思います」
20年間、邪馬台国で過ごした張政が帰国することになって、壹與は晋国の武帝に男女生口30人と真珠5,000粒とヒスイの勾玉2個と植物繊維2反を贈った。その見返りとして、晋国の武帝からはなかったようです。それよりも、邪馬台国の後ろ盾であり、邪馬台国の政権に大きな影響力を持っていた張政が、いなくなったことが大きかった。
邪馬台国は奴国以下の北部九州の30カ国の連合国家で、中国や朝鮮半島から渡ってきた人達と稲作を中心にして生計を立てている従来の人達と東国から移動してきた海人系の人達の寄り合ってできた集落の集まりが小国家になり、それぞれの考え方が違っていた。それを纏めたのが弥生時代初期、中国では春秋戦国時代時代に中国から日本に渡ってきた人達で、邪馬台国の時代になって、それらの人が政権の中枢にいた。たとえば、難升米や都市午利や掖邪狗が中国歴史書に倭国の「大夫」として出てくるが、この「大夫」という役職は、中国の春秋戦国時代時代に使われた役職名で、君主に仕える小領主のことでした。その階級が邪馬台国の時代に使われていたとすると、難升米達は卑弥呼や壹與に仕える小領主の中国系の人達と思われる。
その当時、日本では大集落が各地にあり、その大集落の長が「首長」であり、その大集落を領土として治めていたのが「大夫」で、その「大夫」のさらに上が「郷」とよばれていた。たとえば、物部郷もそのひとつです。その「郷」の上が「大王」だった。邪馬台国では「女王」にあたる。邪馬台国の弱点としては、政権で「大夫」が担っていた官僚的な要素は多分にあってが、軍事面では中心人物がいなかった。そして、経済的には稲作が中心で、商業的な面は海人系の氏族に頼らなければならなかった。壹與の時代になって、軍事的には、張政が中国に帰国したことによって弱体化し、朝鮮半島との利権も海人系の人達がヤマト王権になびいたことによって、奴国が持っていた商業圏も弱体してしまった。
第3節
壹與は張政が祖国に帰ることを聞いて、これからの邪馬台国の行き末に不安を感じた。でも、張政から伝えられた晋国の武帝に対して朝貢を送ることにした。そして、壹與は掖邪狗を呼び出した。
「エキヤク、以前、卑弥呼様の時に魏国の曹芳様に朝貢したことがあるでしょ 今回は、晋国の武帝に朝貢して欲しい」
「魏国ではないのですか」
「それが、魏国が滅亡して、晋国に代わったのです」
「難升米さんに付いて洛陽まで行きましたが、あれから長い歳月が経っています はたして無事に到達できるか不安です」
「それは心配ない なぜなら、張政様が自国に帰還されるので、一緒に洛陽まで行くことができます」
「張政様が帰国されるのですか それでは、帯方郡からの支援も」
「我が国は帯方郡からの支援によって、卑弥呼様亡き後、持ちこたえてきました そこで、魏国同様に晋国が帯方郡をどのように扱うか そんなところも調べてほしい」
掖邪狗は、早速、晋国の武帝に手渡す貢ぎ物の用意に取りかかった。そして、今回は張政を祖国までお送りすると言う役目もあって、20名の手下を連れて行った。この手下の中に中臣摩耶彦がいた。摩耶彦は中臣曽孁比古の子で、玖須の里で奴国の大王に仕えていた祈祷師、中臣余師杜に預けられ、奴国の祈祷師として修行を積んでいた。掖邪狗はその20名の中に祈祷ができる中臣摩耶彦も連れて行くことにした。
一行は、奴国の那珂の里から宗像一族の船に乗り、韓の国に向かった。その船で、中臣摩耶彦は親譲りで人懐っこい性格だったので、張政に話し掛けた。
「張政さん、私、マヤヒコと言います 祈祷師をしているのですが、晋国でも何か問題があれば祈祷されますか」
「祈祷というよりも、道教の教えだね」
「どのような教えですか」
「物事ができる前に誕生し、天地が再生するときに私達を導く神を拝む教え そのような神になるために修行している仙人がいるよ」
「仙人ですか」
「道教の信者であった農民が反乱を起こした黄巾の乱によって国が乱れ、漢国が滅亡して、魏国が誕生したのだけれど、その頃に全国的に広がった 私も道教を信じている」
「そうか、国が乱れたときに道教が盛んになるのか 仙人が必要になる 私も仙人になるように修行を積まなければ」
「国が乱れて、魏国から晋国に代わったのだけれど、そんな時期に私みたいな者が必要になる」
「晋国、そんなに乱れているのですか」
「今のところは武帝がしっかりと国を纏めているが」
「帯方郡と我が国(邪馬台国)との関係は」
「今のところ大丈夫だけど、これからどのようになるか」
摩耶彦が中臣余師杜に預けられたとき、中臣曽孁比古に言われたことがある。それは、邪馬台国の行く末を見据えることと、帯方郡の状況を探ることでした。そのため、掖邪狗が晋国の武帝に朝貢することを聞いて、その一行に志願した。ある時期が来たら、開化天皇のもとに戻ることを父親から指示されていた。
第4節
掖邪狗一行は、牙山の里に着き、帯方郡に向かう。帯方郡では卑弥呼の生前時代の帯方郡太守(弓遵)は、治めていた地元の中心となった首長が反乱を起こし、鎮圧している間に戦死し、太守がいない状態になっていた。それも魏国の弱体が原因の一つ。元々、この地域は従来から生活していた韓族の集落があり、前漢の時代に漢民族がこの地に進出して、大集落を形成し、首長に。その首長が共同で小国家を形成し、臣智や邑借という官名を持っていた。また、帯方郡地方には北東にいた濊族の侵入も受けていた。張政は、慰礼山の麓まできて、繁栄していた頃の帯方郡ではない雰囲気を感じた。
「エキヤクさん、もう帯方郡は以前の繁栄の姿がないですね」
「私もそう思います 魏のミカドが支配していた頃と様子が一変しています 楽浪郡もその状態ですか」
「楽浪郡は、高句麗に攻められていると聞いています」
「昔、難升米の一行が洛陽まで張政さんの護衛で行った その頃の楽浪郡は帯方郡よりも栄えていたのでしょう」
「そうだね あの頃はよかった 果たして、洛陽に戻ってもこれからどうなるか」
掖邪狗一行は牙山の里まで戻って、船に乗り楽浪郡に行くため、南浦の里を目指した。しかし、20人いた手下が19人になっているのに気が付いたのは、乗船してからでした。その一人が中臣摩耶彦でした。中臣摩耶彦は帯方郡に留まり、張政が述べた道教について調べることにした。
道教は、不老長寿を願う民の信仰と自然崇拝の信仰が、紀元前5世紀ころに出現した哲学者、老子が唱えた思想と合体してできた宗教で、中国の戦国時代に貴族の間で普及した。その道教が朝鮮半島に入ってきたのは、前漢の武帝が朝鮮半島の衛氏朝鮮を滅亡させて、楽浪郡を設置してから。それにより、楽浪郡に漢人の貴族が移り住んだ。楽浪王氏・楽浪韓氏・楽浪張氏・楽浪高氏・楽浪田氏・楽浪程氏など。それらの貴族は、楽浪郡が高句麗により滅亡したときに帯方郡の地で百済を建国した。最初に都になったのが大韓民国京畿道河南市の河南・慰礼城でした。その城の近くに黔丹山があり、その山は神聖な崇拝の対象となる霊山という意味で「黔丹」と名付けられている。
中臣摩耶彦は、慰礼山の麓から北に向かった。そして、黔丹山の麓の集落までやって来た。その集落に伊岐満留杜部と人物にであった。満留杜部は、道教で占う時の道具「杯珓(ポエとも言う)」を持っていた。ポエは竹製で2枚用意し、上から落として丸味のある表が出れば陰を表し、平らな方が出れば陽を表し、それで占いをしていた。
「それは、なんですか」
「ポエというのだ これで占いをする」
「私も、祈祷師で太占をします」
「あぁ、亀の甲羅を焼いて、そのひび割れの状態で占う 私も以前はその占い方をしていたのさ それが漢の国から道教が入ってきて、このポエに変えた 私はマルトベとい あなたは」
「中臣摩耶彦と言って、倭国から来た」
「倭国の人なのだ 私の爺さんは壱岐の島で太占をしていた」
「マルトベさんは、倭国の人なのですか」
「元々は、東国から壱岐に渡ってきたそうだ そして、帯方郡が設置されたので、お爺さんはこの地に来たと言っていた」
「倭国からこの地に渡ってきた倭人もいるのですか」
「あぁ、いるよ、和邇日田斗という男が 濊人達と上手くやっていて、我らの集落も彼のお陰で濊人と戦わなくて済む」
「その人物に会うことができますか」
「できるとも、私の友達だからね」
「会わして下さい」
「いいとも」
第5節
和邇日田斗は、若狭地方を本拠地とした海人系の和邇一族の出身で、日本海を挟んで朝鮮半島東海岸中部の元山湾(朝鮮民主主義人民共和国江原道元山市海岸洞)に渡った。この地には濊人が多く住み、太陽信仰を持つ鍛冶集団から鉄器を仕入れていた。そして、濊人との信頼関係ができて、和邇日田斗は元山海岸から南下し、馬忽の里(大韓民国抱川市抱川洞)を経て、弘済の里(大韓民国ソウル特別市麻浦区孔徳洞)に移動した。元々が海人系であった和邇日田斗は、この弘修の里を本拠地として、朝鮮半島西海岸の江華島の船着場に船を集結させて、和邇水軍を結成し、壱岐の国に濊人系の鍛冶技術者を送り込んでいた。また、壱岐の国には息長一族が鉄器に生産をしていて、和邇水軍から濊人系の鍛冶技術者を引き取っていた。
伊岐満留杜部は中臣摩耶彦の遠縁にあたり、祖先が東国から壱岐の国に渡り、太占を習得した祈祷師でした。そして、壱岐の国では韓の国と倭国の人の往来が盛んで、何時しか渼沙の里(大韓民国京畿洞河南市望月洞)に永住していた。伊岐満留杜部が和邇日田斗を壱岐の国の往来で知り合う。そして、壱岐の国で鉄器を生産している息長一族を和邇日田斗に紹介し、濊人の鍛冶集団の一部が壱岐の国にやって来た。
中臣摩耶彦と伊岐満留杜部は、和邇日田斗がいる弘済の里に向かった。
「ヒタトさん、久しぶりです 私の遠縁にあたる倭人を連れてきました ヒタトさんに会いたいと言うので」
「倭人、これは珍しい」
「中臣摩耶彦と言います」
「韓の国に、何を」
「壹與女王の命令により、晋国の武帝に朝貢するための使者として、帯方郡に寄りました」
「邪馬台国のイヌか」
「ですが、実は別の使命を」
「それは、何」
「倭国を統一しようとされているお方の密命を持って、この帯方郡に来ました 掖邪狗一行から抜け出したのです」
「倭国を統一」
「ヒタトさんも倭人ですから、ご存じかと思いますが、日向の大王が」
「日向の大王、そう言えば息長一族から聞いたことはある 先日、鉄器の鍛冶職人を集めて欲しいという依頼があった」
「ヒタトさんは、息長一族を知っておられるのですか」
「壱岐で鉄器を生産している一族だろ」
「私の友達、息長遼瀬依が、鍛冶職人を探しているのか」
「息長遼瀬依とは、息長一族の者か」
「リョウセイがそのように鍛冶職人を望んでいるのなら、濊人の鍛冶集団を派遣してください」
息長遼瀬依は群家の里で軍事器具を作るため、開化天皇がいる多家の里から壱岐の基地に来ていた。そして、遼瀬依の命令で息長一族が動き、和邇水軍に依頼したようです。
第6節
和邇日田斗は馬忽の里に行き、濊の酋長にあった。そして、鍛冶技術者を集めて貰うことを依頼した。濊人は人の頼みを素直に聞く性格を持ち、裏切ることはしなかった。そして、鍛冶技術者を10人程用意してくれた。その準備が整うまで中臣摩耶彦は、和邇日田彦の集落に滞在していた。
「マヤヒコさん、これからどうしますか」
「帯方郡の様子も大凡のところは掴めたし、ヒタトさんとも知り合えたので、倭国に帰ろうと思います」
「それであれば、濊の鍛冶職人と壱岐の国まで行きますか」
「そのようにお願いします 話は変わりますが、私達のミカドに和邇水軍を紹介したいのですが、力をかしてくれませんか」
「私も倭国の人間です 倭国を統一しようとされている大王がおられることを知りました。出来れば参画したいものです しかし、今すぐではありません この地に留まり、しかと世の中の情勢を見た上で」
「そうですね では、もしも状況がかわりましたら、私がこの地に来て、ヒタトさんを迎えにきます」
「ただ、私の娘に姥津媛がいて、その娘を開化天皇の妃にしてもらえないか」
「では、私からミカドに薦めてみます」
和邇氏がヤマト王権に参画するのは、楽浪郡が高句麗に占領され、楽浪郡にいた漢人が和邇水軍の占領していた弘済の里にやって来てから。313年に楽浪郡が崩壊し、馬韓にあった漢人の国、伯済国に逃げ込んだ。そして、楽浪郡や帯方郡の漢人は、弘済の里を中心にした漢城府を設置し、百済国を建国した。そのことは、楽浪郡で生まれた楽浪高氏の出で、近肖古王の博士として仕えた高興によって書かれた『百済記』に記載されている。また、近肖古王はヤマト王権に対して、『古事記』では、阿知吉師(日本書紀では阿直岐)が馬2頭を貢ぎし、和邇吉師(日本書紀では王仁)が『論語』と『千字文』を伝えたとされている。また、近肖古王は東晋から楽浪太守に命じられ、東晋と百済と倭国(ヤマト王権)のラインが出来て、369年、近肖古王がヤマト王権に「七支刀」を貢ぎ物として差し出したされていることから、その当時には百済が国家として存在していたことになる。この近肖古王に纏わる話は、日本の記紀に書かれているが、実際は『百済記』からの引用です。和邇日田斗と中臣摩耶彦との出会いから100年後のことです。
姥津媛は中臣摩耶彦に連れられて、多家の里に行き、開化天皇と出会い、彦坐王を産んだ。この彦坐王の玄孫に当たるのが神功皇后(息長帯比売命)です。神功皇后が三韓征伐をした時代は、近肖古王が漢城府で百済の政権下に置いていた時代でした。
和邇日田斗は、濊人の鍛冶技術者を馬忽の里から連れてきた。そして、中臣摩耶彦は、和邇日田斗が用意した船に鍛冶技術者と姥津媛を乗せ、弘済の里から息長遼瀬依がいる壱岐国に向けて出発した。
第7節
中臣摩耶彦を乗せた和邇水軍の船は、壱岐島の内海湾から幡鉾川の河口から原の辻の里の船着場のある幡鉾川を上った。幡鉾川は、河内川とも言われ、原の辻の里(長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触)が壱岐の河内平野に存在し、幡鉾川の岸辺にあった。原の辻の里については、『魏志倭人伝』では一大国(一支国)の都とされ、その広さが約300里四方とあるので、かなり大きな集落でした。そこに住む人達は、韓の国から渡ってきた人達が多く、稲作と漁業で生計を立てていました。3000余りの竪穴式住居があったそうです。また、倭国からも倭人が壱岐島に出入りし、その原の辻の里を支配していた首長がいました。
息長遼瀬依の一族は、原の辻の里から約6㎞離れた香推の里(長崎県壱岐市勝本町立石東触)で鉄器を作っていた。遼瀬依は、開化天皇の依頼を受け、香推の里に戻り、息長一族の中で、和邇水軍に詳しい人を原の辻の里に連れ出し、韓の国の鍛冶技術者を探して欲しいと和邇一族の者に伝えていた。その鍛冶技術者が韓の国から来るのを原の辻の里で待っていた。そして、和邇一族の者が遼瀬依に原の辻の里の船着場で待つように連絡が入った。
中臣摩耶彦の船が原の辻の里の船着場に着いた時、息長遼瀬依は首を長くして和邇水軍が着くのを待っていた。そして、中臣摩耶彦が降り立ったとき、遼瀬依は大声を上げた。
「マヤヒコ、ここだ」
「リョウセイではないか」
「マヤヒコがこの船にのっているとは」
「帯方郡の視察に行っていた そして、弘修の里で和邇日田斗さんと会って」
「和邇水軍の棟梁か」
「それで、ミカドが鍛冶職人を探していることを聞いた 依頼していたのはリョウセイだったのか」
「そうだよ 和邇水軍の棟梁ってどんな人だ」
「元々は、若狭の海の民だったらしい そして、韓の国に渡って」
「それでは、安曇加蛇是や私の一族と同じ海人か」
「そのようだ それで、聞いてみたのだ ミカドに仕える気があるかと」
「すると 今のところはないらしい しかし、和邇日田斗さんの娘、姥津媛を預かった」
「ハハツヒメ」
「ミカドの妃にしてほしいと」
「それでこの船に乗っているのか」
「鍛冶職人と一緒に それで、リョウセイに頼みがある」
「ハハツヒメをミカドに会わしてくれとか」
「そのとおりだ」
「仕方がない マヤヒコの頼みなら それで、マヤヒコはこれからどうする」
「一度、須那の里に戻る そして、掖邪狗さんと合流して、帯方郡のことを伝えたい」
息長遼瀬依は濊の鍛冶職人10人と姥津媛を連れて、多家の里に向かった。中臣摩耶彦は、掖邪狗が晋国の武帝に面会し、貢ぎ物を渡し、朝貢の役目を果たして、原の辻の里で壹與のいる邪馬台国に帰ってくるのを待っていた。
第8節
中臣摩耶彦が数日、原の辻の里で滞在していただろうか。ある夕暮れの日に内海湾に晋国で作られたと思われる船が現れた。そして、原の辻の里の船着場に。その船から晋国で誂えた服装で降り立ったのは掖邪狗でした。
「エキヤクさん、お帰りなさい さすがに晋国帰りですね」
「そうかね 我が国と違って、見るもの、着るものが輝かしいからね」
「マヤヒコさん、帯方郡はどうでしたか 少し見たところ、以前のように火の気と煙が見られましたが、そのような活気が見られなかった」
「私もそれは感じました それで、北に向かって歩き、漢江を渡り、弘済の里にいきました そこで、和邇日田斗という人物と出会いました」
「その人は、倭人ですか」
「そうです どうも、濊人と親しいみたいで水軍を指揮している」
「帯方郡は、濊人によって荒らされていると聞いた 楽浪郡は高句麗人が侵入して、晋が軍隊を送り込んでいるようだ」
「帯方郡には、まだ高句麗人が現れてないようです でも、帯方郡を見た限りでは濊人が領土内に入り込んで問題を起こしているみたいです 渼沙の里に祈祷師がいて、濊人が攻めてくるようです ですが、和邇水軍が濊人の侵略を止めていると聞きました」
「大体のところは分かった」
「晋国はどうでしたか」
「武帝にお会いしましたが、立派なかたでした でも、跡目を継ぐ皇太子がどうもできが悪そうで、先が読めない これから晋国を頼りにするのも そんな感じがした」
「そうですか そのことを女王に報告するのですね」
「今、聞いた帯方郡のことも女王にほうこくすることにする」
翌日、掖邪狗と中臣摩耶彦は、船に乗り込み那珂の里に向かった。そして、掖邪狗は壹與に朝貢の報告。中臣摩耶彦は中臣余師杜のところに。
邪馬台国は、歴史上存在していたことは『魏志倭人伝』によって証明されています。それが、大化の改新以降に編纂された『古事記』や『日本書紀』には、邪馬台国の存在などが記載されていない。ただ、晋国に266年に朝貢したことだけは書かれている。これも『百済記』を参考にしたのだろう。邪馬台国が卑弥呼から壹與に変わり、中国も魏から晋に変わり、壹與が晋の武帝(司馬炎)に使者を送った266年以降、中国の歴史書では邪馬台国の記事がない。壹與が女王として、武帝に朝貢を送った266年から9年が経った275年に晋の洛陽で疫病が大流行し、多くの人が亡くなった。その疫病の影響が日本にも。その当時の邪馬台国を中心にしていた北部九州では、280年に呉が晋国に滅ぼされたこともあって、倭国に渡ってきた人達や韓の国などから渡来した人達が疫病を持ち込んだ。邪馬台国を含めて、北部九州で疫病による死者が増え、北部九州での生活を捨て、東国に移動する人が多く出た。そして、291年に晋国で八王の乱が起こり、邪馬台国が重要視していた楽浪郡や帯方郡が弱体化して、313年に高句麗によって両郡は滅亡。邪馬台国は、晋国との交流も絶え、晋国の後ろ盾をなくして、崩壊した。
壹與によって、晋国に朝貢が行われ、それを最後に、邪馬台国は衰退していく。




