砂塵は覆う指を滑る 2
年に一度は会っていたのに、『知らないおじさん』はないだろうという翠嵐の主張は、当然笑い飛ばされた。紺花曰く、番のいる里の男より姿を見かける機会がないのだから、『知らない』で十分だと。
「はじめまして。紺花言います。水波ちゃん、紫ちゃんとお呼びしてもよろしいやろか?」
そうして、父親に見せた冷たい顔とは一変して、娘たちに笑顔を向けた彼女は礼儀正しく頭を下げている。彫刻めいた美貌は、透けるような白い肌と淡く色づく頬のおかげで生き生きとした明るさを宿し、近寄り難さを打ち消していた。
「もちろんです。水波です。よろしくね」
「紫乃です。よろしくお願いします」
柔らかな感情は柔らかな感情を生む。互いを認めた少女たちはすぐに打ち解けて、おかげで一層、翠嵐は疎外感に居心地悪く肩を竦めた。
「そしたら、情報とやらを話して下さい。黄慈達が来る前にまとめてしまいたいし」
「藍里、他の男の名を呼ぶのは…」
「長として命じます」
互いが絶対の番同士とは決して思えないやり取りであったが、それ即ち自業自得と諦めたのか溜息1つで表情を引き締めた翠嵐は、ずっと追っていた鬼狩りの動きに変化があったと手短に語る。
「桃園は2度、混鬼を殺し損なったことで苛ついたのか、変じそうな人間を見つけては人鬼に誘導している。その度、関係のない人間が死ぬんだが大事の前の小事と気にする様子もない。我ら鬼としても餌にしていた人間が突然消えるのだから、面白くはないな」
「…確かに、それは厄介やねぇ」
それきり誰もが口を閉ざしたのは、それぞれ思うことがあるからだ。
ついこの間まで人間だった桜里はその代表例で嫌悪に顔を顰めているし、未だに食事の半分が人間と同じ水波も卑劣さに嫌悪を隠さない。
人を喰らう鬼たちは自分が餌場にしている周囲の状況を思って、じっと考え込んでいた。
鬼は人間を餌にするが、人鬼のように血肉を喰らうわけではない。人に溢れる生気を啜るのだ。
都会の喧騒や深夜の遊興場など、人間が沢山いれば鬼が数日生きながらえる分の生気など瞬きする間に摂取できる。よく人いきれに酔うと人間は表現するようだが、あの独特の空気は紛れもなく鬼の餌なのだ。
しかし雑多なそれらより、彼等が好む生気があった。それはドロドロと悪意に染まった人間の生気だ。あれらはまるで腐り落ちる直前の果実のように甘い香りで鬼を誘い、また只人とは比べ物にならない満足感を彼等に与えてくれる。
もちろん限られた人間からしか摂取できないので常に口にできるものではないし、また欠片の良心すらも失った人間の生気は酒のように鬼の理性を奪うのでついつい殺すまで吸い取ってしまうこともままあるのだが、幸いにしてそういった人間の死は残された人間に喜ばれることの方が多く鬼達もあまり気にしたことはなかった。
だが、時に人の命が消えることに違いはない。
はるか昔、鬼によって人が死ぬと知った人間の一部が、鬼狩りを始めたのだ。
始めの頃の彼等は無差別に人を殺す人鬼も、選んで生気を啜る鬼も区別がつかず、全てを駆除対象としていたようだが、圧倒的な力の差にどちらに対してもなす術がないという状況だった。
しかし、偶然から人鬼の血が鬼にとって猛毒だと知ると、あろうことか人鬼を使役するようになったのだ。狂い食欲だけとなったとはいえ、人鬼は人間のなれの果て。かつての同朋を狩り集め、怪しげな呪法で縛り付けた挙げ句に道具のように使い捨てる。
同族を守ることを旨とする鬼達からすれば胸が悪くなるような行いだが、鬼狩りはその手法で確実に鬼の数を削った。混鬼の血が人鬼の毒を取り除き、また彼等を弑する武器になると知れるまでに、鬼はほんの僅かが人に紛れて暮らす程度に数を減らしたのだ。
鬼狩り達に言わせれば、それは正しい姿なのだろう。人間を害するものは排除するという方法は、古来からのやり方であるのだから。
だが、彼等に殺される生き物にだとて生きる権利があると、果たしてわかっているのだろうか?
「では、他に人間に紛れている混鬼も保護しなければなりませんね」
現段階で一番人間社会にうまく溶け込んでいる零紫がその役目を負おうと上げた声は、翠嵐に必要ないと首を振られた。
「私がこれまで旅をし続けたのは、混鬼がいる可能性のある場所を調べて回っていたからだ。腹立たしいことに滅多に生まれない混鬼の何人かは既に鬼狩りに殺されてしまったが…間に合ってよかったよ」
視線の先に息子と寄り添う桜里を据えた男は、ふわりと笑むと本当に良かったと繰り返す。
あの時、桜里が人鬼になってしまうかもしれないあの瞬間、碧炎が間に合ったのは幸運だった。何年も前に消息を絶った親友を探し続けていた藍里に、翠嵐が居場所を知らせて寄越したのがほんの一日前。それから休みなく紅花の足取りを追った碧炎は、なんとか番を無事に取り戻すことができたのだ。
腹立たしい父親ではあるが、大切なものを失わずに済んだのは確かに目の前の男のおかげだ。悔しさを飲んで礼を口にしようとした、その時。
「あらぁ…それが目的で何年も家族をほってらしたのに、紅花1人、助けられなかったやなんて…役に立たへんことで」
いい笑顔の藍里が、ちっとも笑っていない視線で翠嵐を睨みつけていた。
「いや、その」
「間に合うてなんか、おへん。あの子まで助けて、初めて間に合うた言うんです」
母親を不条理に奪われた桜里の心に未だ癒えない傷があると、同じように親友を失くした藍里は全身で翠嵐を批判して、多少なりとも褒めてもらえるのではないかと下心を抱いていた男を綺麗に粉砕して黙らせる。そうして、先ほどから俯いてしまった桜里の髪をそっと撫でた。
「けど、結局はうちのせいや。どんなに嫌がられても紅花の居場所をきちんときいておけば、桜里にこんな思いさせることもなかったんやもの。ほんまに、ごめんなさい」
「そ、そんなっ」
助けて頂けただけで十分です。そう言って手を取り合う2人を前にしては、手柄を大仰に吹聴したところで悪印象しか残さないだろう。
悟った翠嵐が口を噤んだのは正解だった。この後すぐに鳴った零紫の携帯が、彼の大失態を伝えてきたのだから。
「しかし、混鬼がこれだけ集まっていると、壮観だな」
その夜、招かれた広間で若い恋人たちを眺めながら黄慈は楽しげに酒を呷った。
鬼は酒が好きだ。どこぞのお伽噺で語られたように、大酒を飲む。人の世ではアルコールを酒精と表現するが、微量だが確かに酒から人間の生気と同じものが摂取できる彼らにとって、それは文字通りなのであろう。つまみもなく酒盃だけを重ねてもほとんど酔うことの無い姿に未だに慣れない綾子は、自分用に用意された食事をとりながら夫の言う若い娘たちに視線を巡らせた。
「そうね…皆それぞれに馴染んでいるようだし」
はっきり仲良くやっていると言い切れないのは、それぞれに抱えた事情から周囲と一線を引く娘がいるからだ。
混鬼とその番だけで固まったテーブルを見ながら、この先も限られた関係の中だけで生きていくことになるだろう彼女たちが、できるならこの中で明確な友人関係を築いたうえで各々の里に戻れればいいのにと願わずににはおれなかった。なにしろ鬼達の習性を鑑みると今後このような機会を設けてもらえる可能性がほぼゼロだと綾子は身を以て知っていたから、漏れ聞こえる会話に友情の片鱗を見出そうとする。
「じゃあ橙華さんは、昨夜初めて外に出たの?」
自分の監視付生活もひどいと思っていたが、生まれてこの方アパートから出たことがないという少女の方が辛かっただろうと顔を顰めた紫乃に、彼女は硬い表情でこくりと頷いた。初めて見る大勢の鬼に警戒心をむき出しにしている橙華は、緑矢に促されて自己紹介をした以外で声を発していなかった。ギュッと番の腕に張り付いて、聞かれたことに首肯だけで答える姿は人間世界では異常だが、鬼の世界では、殊に番にとってはただただ愛らしくしか映らない。
「人鬼に父親を殺されて、橙華自身も襲われているところを見つけたんだ。本当に、間に合ってよかったよ」
得意げに言って小さな身体を抱き寄せた緑矢に、他の鬼達も己がいかにして番を救い彼女達の特別になったのか口々に自慢を始めたが、娘たちの反応は全く違った。
身を竦ませたままの橙華を怯えさせないよう少しだけ身を乗り出して、身内を失ったばかりの少女を慰めにかかる。
「それは、辛かったわね。ずっと2人だったのなら、一番大切な人を失ったのだものね」
自身も母親を亡くしたばかりの桜里が心からの哀悼を伝えると、それまで下がりきりだった橙華の視線がそろりと目の前で微笑む少女に向いた。切なげだった声に呼応するかのように、薄茶の瞳がゆらりゆらりと揺れている。
人との関わりはなかったが常に周囲に気を張って生きてきた橙華は、他人の感情に敏感だった。まるで野生動物のように強い感情や悪意をを本能的に拒絶し警戒する。だから桜里のふんわり優しくどこか寂しい気配が自分の喪失感と似ていることに気付いて、思わず声を発していた。
「あなたも…同じ?」
小さいがよく通るそれに一瞬驚いた桜里だったが、返事があったことを喜んで口角を上げるとそっと頷いた。
「ええ。母を…殺されたの。ほんの少し前よ」
時間だけで言うのならそれは半年も前なのかもしれない。けれど彼女にとっては、つい昨日のことのようで、決して言えない傷になっている。
それでも自分には、碧炎や藍里、紺花がいるのだから幸せなのだと見ないふりでいた悲しみが、橙華と同調することで吹き出して、言葉にすることでジワリと涙を滲ませた。
その目尻に、指を這わせたのは意外にも橙華だった。彼女は困ったように眉根を寄せて、零れる涙を拭っている。
「あのね、我慢、しない方がいいんだって。緑矢がね、泣いた方がいいって」
ここへ向かう車の中のことだった。中の里での喧騒から離れ、2人で車に揺られていると、一番身近でもう二度と会えない父のことが思い出されたのだ。
必死に逃げろと言った姿、血が出ていて苦しそうで、何もできなかった。死んでしまった。
せり上がってきた感情を抑えきれず、しゃくりあげたのを聞き逃さなかった緑矢は、大きな手で橙華の髪をかき回すと我慢するなという。運転中でどうせ自分は見ていないのだから、思い切り泣いてしまえ。その方が楽になれると。
事実、一時間も泣き続けた橙華は悲しみが消えたわけではないが幾分心が軽くなっていて、ずっと黙って好きなようにさせてくれた男の言うとおりだったなと微笑むことさえできたのだ。
「あなたも、そうしたらいいよ」
年頃の娘というには幾分幼い顔つきに気が緩んだのか、言葉が呼び水になったのか。
あとからあとから零れはじめた涙に逆らうこと無く静かに泣き始めた桜里に、男どもは狼狽え、女たちは何故か一緒に大泣きを始めるという、なにやら奇妙な光景がしばらく続いたという。