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泣きたい気持ちではあった。
ただし、それは依頼内容とは明らかに違う気持ちから込み上げてくる涙だった。
長年連れ添った奥さんが亡くなってしまったのに、それでも泣くことができない、そんなガトーさんの立場に……いや、そんなつまらない理由で涙を流せないというガトーさん自身に向けての、哀れみの思いから溢れてくる涙……。
確かにあたしは仕事で泣くためにここに来た。
だから、泣かなきゃダメだ。それはわかっている。
でも、泣けなかった。
ここであたしが言われたとおりに涙を流したとしても、天国にいるガトーさんの奥さんは喜んでくれないはずだから……。
ああ……、あたしってダメだな……。
仕事なんだから、割りきって考えられなきゃいけないのに……。
それでも、どうしても泣くことができなかった。
普段から涙腺のゆるいあたしではあるけど。
いや、だからこそ、涙にウソはつけない。
時計の秒針が、あたしの心をも刻んでいくように、カッチ、コッチ、と音を響かせる。
それ以外の音は、なにもない。
ガトーさんはあたしのことを、ずっと睨みつけている。
あう、早く涙を流さないと、お仕事が失敗になっちゃう……。
だけど、だけど……。
背後のドアの辺りには、ラングドシャーさんも控えているはずだけど、なにも言ってはくれない。
沈黙の時間だけが、ただただ過ぎていく。
やがて、痺れを切らしたのだろう、ガトーさんが怒りを押し殺したような声をかけてきた。
「どうしたんだね?」
「……ダメです、泣けません……」
あたしは、堪えきれずに正直な思いを吐き出す。
「ごめんなさい。お仕事だし、泣かなきゃとは思うんですけど……でも、ダメなんです。だって、天国の奥さんが泣いてほしいのはあたしなんかじゃなくて、世界中でたったひとり、ガトーさんだけのはずですから……」
そう言いながら……泣けません、なんて言いながら、あたしの目からは自然と涙がこぼれ落ちていた。
そして、それはあたしだけじゃなかった。
ほろり。
「あ……」
あたしは気づく。
ガトーさんの瞳からも、涙が頬を伝って流れ出しているということに。
「ダメだ……。オレは、泣くわけには……」
震える声をしぼり出しながらも、ガトーさんは目から流れ落ちるふた筋の川をせき止めることができない様子だった。
そんな中。
バンッ!
両開きの扉が、大きな音を立てて開かれた。
次の瞬間には、何人もの人が社長室へとなだれ込んでくる。
「おまえたち……どうして……?」
困惑気味のガトーさん。
社長室になだれ込んできたのは、スーツを着た人たち――この会社の社員のみなさんだった。
顔が見えるのは二十人くらいだろうか。ともあれ、さらにその背後には、まだたくさんの社員さんたちが並んでいるようだ。
中には、「鬼の目にも涙だな」なんてつぶやいて笑いを堪えている人もいたけど、すぐに口をつぐむ。
呆然としているガトーさんに視線を向け、しばらく沈黙を保っていた社員さんたちだったのだけど。
やがて、
「泣いてください、社長!」
ひとりが一歩前に出て叫ぶ。
それが引き金となったのか、他の社員さんたちも口々に思い丈を叫び始めた。
「社長だからといって、泣きたいのを堪える必要はありません!」
「必死に支えてくれた奥さんのために、今は泣いてあげてください!」
「社員のぼくたちに弱い面を見せたくないのはわかります! でも、なにがあっても社長は社長です!」
「社長がどういう人なのか、みんなわかっているんです!」
「鬼のお面がはがれても、わたしたちは全員、社長についていきます!」
社員のみなさんは、叫びながら涙を流していた。
「おまえたち……」
流れ出る涙を隠そうともせず、ガトーさんは椅子から立ち上がり、社員さんたちのもとへ歩み寄る。
「ありがとう……」
「社長~~~~!」
社員さんたちがガトーさんに駆け寄り、それをガトーさんは涙ながらに受け止める。
そのあいだもガトーさんの泣き声はずっと、この広い社長室に響き渡っていた。
大人の男性が大泣きする姿に、あたしも涙をボロボロとこぼし、きっと鼻水もぐじゅぐじゅで、ひっどい顔になっていただろう。
あたしはガトーさんたちに背を向けたまま泣いていた。
だから、誰にも泣き顔を見られたりはしない。
思う存分、泣いていて大丈夫だ。
ガトーさんの涙は、奥さんに向けられた悲しみの涙ではない。
それでもきっと、天国の奥さんは喜んでくれている。
ずっとガトーさんを支えていた奥さんなら、自分の死を悲しむ涙より、社員さんたちの優しさに触れてこぼす涙のほうが嬉しいはずだ。
あたしは背中の向こうから聞こえてくるガトーさんと社員さんたちの声をBGMに、自分の両目から止め処なく溢れ出る熱い雫を、じゅうたんに染み込ませ続けていた。




