最終話 アリサの幸福 ── ハンニバルの帰る場所
光に包まれたアリサの姿は、神殿での真摯な奉仕の日々がそうさせたのであろうか、少女のころの可憐さを何ひとつ損なうことなく、洗練された静謐な美しさを保っていた。
歳月の重みさえも慈悲に変えてまとったかのようなその佇まいは、荒んだハンニバルの目には、奇跡そのものとして映った。
(……アリサ)
ハンニバルは何も言えず、ただアリサを見つめていた。
───
その日もアリサは祭壇の前で沈みゆく夕日を浴び、静かにタニト神に祈りを捧げていた。
白衣の裾が揺れ、夕光が美しい髪を透かしていく。
(どうか……どうか、ハンニバル様が無事でありますように)
これまで二十年──。
アリサは一日たりとも欠かさず、ただ一人の無事を神に祈り続けてきた。
通いで奉仕に来ているティアナから、ザマの敗報を聞いたときは生きた心地がしなかった。
ハンニバルが生きて戻ってきたと聞いたときはほっとしたものの、もしローマ側から身柄の引き渡しを要求されたなら、彼はどうなってしまうのだろう──。
そう考えると、胸が押しつぶさせそうな不安でいっぱいの日々を過ごしていた。
夕刻の祈りを終え、居室へ向かう神殿の中庭を歩いていたその時であった。
アリサは確かに感じていた。
肌を撫でたのは、この二十年間、毎日神前にひざまずき、ただ一人の無事を祈り続けてきた者にしか分からない、密やかな導きの気配。
捧げ続けてきた幾千の祈りに応え、女神自らが二人を引き合わせるべく差し伸ばした見えない力に優しく押され、アリサはゆっくりと体を巡らせた。
──溢れ出す光の渦の中心に──その人は立っていた。
「……ハンニバル……?」
震える呟きが、静まり返った神殿の中庭に、溢れる涙とともに小さく溶けていった。
見誤るはずもなかった。
その瞳の奥に宿る揺るぎない温もりと、深く澄んだ哀切のまなざしは、アリサが二十年間思い描き続けてきたあの日のハンニバルそのものであった。
彼の姿を目にした瞬間、アリサの胸の奥で張っていたものが一気に弾けた。
途方もない歳月も、隔てられていた距離も、いま一瞬にして消えていく。
「ハンニバル! ハンニバル! ハンニバル!」
なりふり構わず駆け寄った途端、溢れ出す感情を抑えきれなくなった。
触れた指先の温かさに、もう涙を止められない。
ずっと想いを寄せていたその姿は、過酷な戦場を過ごしてきた日々の刻印が色濃く残っていた。
けれど、間違いなく彼だった。
アリサは、目の前に立っているハンニバルを見つめ、泣き崩れた。
「あたし……待ってた……。あなたが無事に帰ってくるのを……ずっと、ずっと待ってた……!」
子供のように泣きじゃくりながら、彼の胸に顔を埋めた。
強く抱きしめて、彼の存在を確かめるように、何度も何度もその背中や肩に触れた。
もう二度と離さないと言わんばかりに、その衣を強く、強く掴んだ。
「よかった……っ、よかった……! う、もう二度と……会えないかと思って……!」
二人の愛する弟を失い、ザマで敗れ、彼がすべてを失ったことも知っていた。
だからこそ、生きて、目の前にいてくれるだけで、アリサにとっては世界一の幸福だった。
言葉の途中で声がひび割れ、涙がまた溢れる。
ハンニバルは、そんな彼女を、壊れ物を扱うように、ゆっくりと、しかし力強く抱きすくめた。
その大きな手が、彼女の背にそっと回る。
「……すまない、アリサ。すべてを失った。何もかも、守れなかった」
その声は、かつて戦場を震わせた英雄のものではなかった。
ただの一人の不器用な男の、掠れた声だった。
彼はアリサの涙を不器用な指先で拭い、その額に優しく己の額を寄せた。
「──だけど、お前にだけは、一目会いたかった。……お前のいる場所だけが、俺が帰る場所だった」
その一言で、胸の奥の堰が完全に切れた。
アリサはもう泣き声を隠そうともしなかった。
彼の名を何度も呼びながら、子供のように泣き続けた。
絶え間なく押し寄せる不安と、いつか無事帰ってくるのではないかという淡い期待に揺れ動いてきた長い年月。
最悪の事態におびえ、真夜中に飛び起きた幾千の夜。
それらすべての葛藤が、いまアリサの中から消え去っていく。
ただ、ハンニバルが生きて自分の元へ帰ってきてくれた。
それだけが、アリサの心のすべてを満たしていた。
激しい嗚咽の向こう側で、アリサは自分だけの確かな幸福に包まれていた。
ハンニバルは、自分の腕の中で愛しい女性のぬくもりを静かに噛みしめていた。
何もかもを失った自分に、ただ生きて帰ってきた事を心から喜んでくれる存在。
己の戦いの日々が、どれほどこの女性の祈りに支えられていたかを知り、胸が熱くなる。
(──いや、自分は何も失ってなどいなかった)
腕の中に確かに存在する、かけがえのない愛しさ。
どんな激動の荒波が押し寄せようとも、この人を生涯かけて守り抜く──。
ハンニバルは静かに、しかし強く心に誓った。
赤く染まるアフリカの夕光が、寄り添うふたりの影を温かく包み込んでいく。
長い戦いの果てにたどり着いたその場所には、確かな愛と幸福が満ちていた──。
───
ハンニバル戦記 ── 歴史に名を刻む天才戦術家の揺れ動く少年期から宿命を乗り越える青年期までを描いた物語
(完)
『ハンニバル戦記』は、ハンニバルの成し遂げた偉業を歴史書に記されていた史実を基に書いた作品です。
アリサという存在は、歴史書には記載されていません。
てすが、記述がないからそのような存在はいなかったとは言い切れないというのが私の考えです。
逆に、誰かが書き残していた記述も、その現場にいた人物が書いている訳ではなく、聞き知ったことを書いているのですから、それが事実を正確に書いているとは言い切れないとも思っています。
『ハンニバル戦記』を史実を書いただけの歴史小説ではなく、人間ドラマとして書きたくてアリサという女性を創作しました。
何も見返りを求めていない無償の愛。
誰もが持っていた少年少女の頃の、あの『理由なんてないただ好き』という感情。
それをずっと持ち続けている奇跡のような女性がアリサです。
例え、その愛が報われない愛だとしても、それほど愛せる人に出会えたということが奇跡的な幸福ではないでしょうか?
史実ではこの後、ハンニバルは政治の世界でカルタゴの復興に尽力してカルタゴ復興の英雄となっていきます。
ザマで敗れ、生涯ローマを敵とするという宿命を乗り越えて、戦場の英雄から祖国復興の英雄となっていくハンニバルの後半生。
多くのものを失ったハンニバルが、宿命を乗り越えていく心の支えが、無償の愛を捧げ続けるアリサという女性。
それが、私の書きたかった『ハンニバル戦記』です。




