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ハンニバル戦記 ── 歴史に名を刻む天才戦術家の揺れ動く少年期から宿命を乗り越える青年期までを描いた物語  作者: 冨岡 和哉
第四部 最終決戦 ── すべてをかけたその先に・・・

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第八十四話 国家の命脈 ── それでも一目あなたに……

 ローマとの和平は合意された。

九歳の時、父の前で血をもって誓った、 “生涯ローマを敵とする” という誓いは、ここでひとつの形を変えて結実した。

これより始まるのは、敵を殺し打ち破る戦術家としての戦いではない。

滅びの淵に瀕《ひん》した祖国を生かし、再生させるための政治と行政の新たな戦いが待っている。

その覚悟は、戦場で剣を振るうよりもはるかに重い重圧を伴っていた。

少数の随員とともにローマ陣営をあとにしたハンニバルは、馬に揺られながら、一人静かに夕闇に包まれていくアフリカの地平を見つめていた。

肩の荷が下りたわけではない。

これから支払う一万タレントの賠償金、名門の子弟を人質に出す屈辱、失われた軍権──背負うべき泥と苦難は、むしろここからが本番であった。


 カルタゴの城壁が、静かな月明かりに淡く浮かび上がっていた。

今日この手で、国家の滅亡だけは瀬戸際で食い止めた。

その事実が、張り詰めていた心の糸をほんのわずかに緩めていく。

緩んだ隙間から、胸の奥底に押し込めていた思いが、抑えきれぬ波となって静かに溢《あふ》れ出した。


(……アリサ)

会いたい。声を聞きたい。

だが、今の自分に彼女の前に立つ資格などあるのだろうか。

敗者として祖国の尊厳を差し出した男が、彼女の清らかな祈りに応えてよいのだろうか。

激しい愛おしさと、それ以上に深い躊躇《ちゅうちょ》が、ハンニバルの胸を強く締め付ける。

ザマで敗れ、夜の荒野をカルタゴへ向かっていたあの時見た、神官補佐の姿で無事を祈るアリサの幻影。

── あれは、絶望の闇が見せた幻にすぎない。

(……それでも、一目会いたい)

その想いが、もはや抑えきれぬほどに大きく胸を揺さぶっていた。


 スキピオとの和平交渉を終え、本国へ戻ったハンニバルを待っていたのは、重苦しい静寂が支配する元老院議場であった。

中央に立ったハンニバルが、スキピオから提示された和平条件を静かに読み上げ終えると、議員たちはあまりの条件の重さに落胆《らくたん》し、天を仰ぎ嗚咽《おえつ》を漏らす者もいた。

あまりに重く、苛酷《かこく》な現実。


 その重苦しい沈黙を切り裂くように、ギスコという若手議員が勢いよく立ち上がった。

ギスコは自身の保身と名を揚げんがため、空気を読むこともなく感情に任せて壇上へ駆け上がると、声を張り上げた。

「講和など断じて認めてはならぬ! このような屈辱を呑《の》むくらいなら、我がカルタゴは最後の一人まで戦うべきだ! 城壁に籠《こも》り、ローマに我らの意地を示すべきだ!」

現実を一切無視した空疎《くうそ》な威勢。

絶望に打ちひしがれる議場の中で、彼の叫びだけが異様に響き渡る。

ギスコがさらに身振り手振りで開戦を煽《あお》ろうとした──次の瞬間であった。

ドガッ、と激しい衝撃音が議場に響いた。


「な……!?」

見れば、ハンニバルがいつの間にか壇上へ躍り出ており、叫んでいたギスコの衣を掴《つか》むや、力任せに石畳の床へ引きずり下ろしていた。

叩きつけられたギスコは悲鳴を上げ、議場全体が凍りついたように静まり返る。

「何をするか、ハンニバル! 元老院の最高議場で暴力を振るうとは、何たる無礼だ!」

狼狽《ろうばい》する議員たちの視線を一身に浴びながら、ハンニバルは氷のように冷たい眼光で床のギスコを見下ろし、静かに口を開いた。

「……無礼をお許しいただきたい。私は九歳でこの国を去って以来、戦場に生きてきた。ゆえに、都市での礼節、作法には疎《うと》い」

ハンニバルの低く通る声が、しんと静まり返った議場に響き渡る。


「──だが、戦場の凄惨《せいさん》さと、敗北の現実ならば、ここにいる誰よりも知っている」

ハンニバルは床でガタガタと震えるギスコを指差し、静かな怒りを込めて言い放った。

「最後の一人まで戦うだと? 空論を吐くのは容易い。ならば訊《き》くが、軍船を失い、兵を失い、ザマで精鋭を打ち破られた今、誰がローマ軍と戦うのだ? そなたが自ら剣を執り、スキピオの軍団に立ち向かうとでもいうのか!?」

ギスコは青ざめ、何も言い返せなかった。周囲の議員たちも、ただ俯《うつむ》くしかない。


「この講和は苛酷《かこく》だ。屈辱に満ちている。

……だが! これを受け入れねば、明日にはローマ軍がこの城門を破り、街は焼き払われ、男は殺され、女子供は奴隷として売り払われる。

カルタゴという国家そのものが、歴史から消滅するのだ!」

ハンニバルは胸を張り、百余名の議員一人ひとりを鋭い眼光で見回した。

「私は十五年、イタリアの地でバルカの名誉をかけてローマと戦ってきた。

その私がいま、屈辱を呑《の》んでこの条件を受け入れようと言っている。

……すべては、カルタゴという国を死なせないためだ!」

圧倒的な説得力と凄《すさ》みが、議場を完全に支配した。


 もはや誰も、ハンニバルに反論できる者はいなかった。

自らの栄光も誇りも捨て去り、国の命脈をつなぐためだけに泥をかぶる男の覚悟に、誰もがひれ伏すしかなかった。

「……和平条件を受け入れる。条約に署名せよ」

やがて重鎮ハンノが苦渋に満ちた声で呟《つぶや》き、元老院は、重苦しい沈黙の果てに──満場一致で和平条約の批准を決議した。


 元老院の重い扉を押し開き、外へ出たハンニバルはふと立ち止まった。

夕刻の光が、カルタゴの街を赤く染めている。

長い激論の疲労と、国家の命脈を繋いだ安堵《あんど》。

その隙間に忍び込むように、胸の奥底で消えずにいた “あの夜の幻影” が静かに甦《よみがえ》っていた。

ザマの敗北の闇の中で見た、自分を想い、ただ一心に祈りを捧げていたアリサの姿──。


 気づけばハンニバルの足は、吸い寄せられるように港を見下ろす丘──タニト神殿の方角へと向かっていた。

二十年。気の遠くなるような歳月が、二人を隔てていた。

自分は無数の傷を刻み、敗軍の将として戻ってきた。

可憐《かれん》だった少女は、とうに神殿を去り、見知らぬ誰かの妻となっているかもしれない。

だが、それでも──ただ一目、息災《そくさい》な姿を確かめられればそれでよかった。

坂道を登り詰め、静寂にたたずむ神殿へと足を踏み入れる。

建物の奥へ進むと、暗い廊下の先に光が差し込んでくる空間があった。

ハンニバルは吸い寄せられるように光の方へ進み、その先の中庭に降り立つ。

風が吹き抜け、白い大理石の柱の間を、橙色《だいだいいろ》の夕光が静かにすり抜けていた。

──その時であった。


──その光の渦の中に、奇跡のような姿でその人は立っていた。

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第六話のオリエント地方の地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時の北イタリアの地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
トラシメヌス湖畔の戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時の南イタリアの地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
カンナエの戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時のイベリア半島の地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
メタウルス川の戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時の北アフリカの地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
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